第十三話 疲労の極みと来客
いつの間にか透明になっていた結界の壁を、散々繰り返した通りに叩き付けた直後、キャスは自身の理性が戻っていることに気が付いた。どうやら、夜が明けたらしい。正面ではステラがこちらを見つめている。
変身を解いて人型に戻ると尋常でない疲労感が全身を支配した。同時に魔法も解除されたようで、立っていられず床に倒れ込む。
起き上がってベッドまで向かわなければと思いはするが、頭でそのように考えるのが限界。実際に四肢に力を入れるための気力、体力は残っていなかった。加えて、石造りの床は硬いがひんやりとして心地良く、まるで、そこから睡魔が浸み込んでくるようだ。
「ごめん、お休み」
体裁を諦めるつもりで、だらしなく、みっともなく、ステラの前で床に這いつくばったまま宣言した。
「ええと、ベッドまで運びますね」
意識が途絶えるより先に声が聞こえ、身体が持ち上げられる。
運ばれていく間、彼はぼんやりと相手の体温を感じながら、されるが儘にしておいた。
そうして寝かしつけられてから礼を告げようとするが、満足に言葉を発せられていたかは怪しい。
「それじゃあ、お休みなさい」
ようやくといった心地でキャスは眠りに就く。実に、二日ぶり。
彼にとって不運だったのは、その眠りも不十分な状態で妨げられたことだろうか。
身体を激しく揺さぶられる感覚と甲高い声に、何事かと目が覚める。これがステラでないことは直感的に分かり、ならば一体何者かと目を開けば、やたらと低い位置から覗き込んできている少女がそこにいた。
「ほら、可愛い女の子が大事な話を持って、態々来てやったんだから」
人を叩き起こしておいて随分な態度ではないか。それに、もう少しばかり声も控えてもらいたいものである。
「あっ!」
彼が念じるとともに騒々しい美少女、ミセリアの頭から帽子が飛んでいき、その背後に控えていたステラの頭の上へ乗せられた。声に出して制止するのも面倒で、キャスは異能の力を利用して対処したのだ。
「……おはよう」
驚いた声の後、静かになった隙にそれだけ告げる。
「おはようございます。すみません、起こしてしまって。ミセリアがどうしても話したいことがあるみたいで」
「ああ、だからいるのか」
微苦笑と共に教えられて、別れたはずの彼女がここにいる理由が判然とした。どうやってここを見つけたのかまでは不明だが、恐らくはステラが外にでも出ていたのだろう。自身も昨日、その母親を見かけている。
視線をミセリアへと戻した。
「おはよう。相変わらず変な魔法使ってるね」
「……うん」
魔法ではないのだが、返事は適当に済ませる。
「ええと、ごめんね。二人にも関わることだったから、急いで伝えなくちゃならなくて。どうしよう。そんなに疲れてるんだったら、ステラにだけ先に教えておくけど……」
すると何を思ったのか、一転して気を使った対応だ。自分はそこまで酷い有様をしているらしい。
「いや、大丈夫。直接聞くよ」
態々訪れて話したいことがあるというのだからと、無理矢理身を起こしてベッドの上を這いずり、背もたれになる部分を見つけて寄りかかる。
「それで?」
「ええと、あたしの秘密って、もう話した?」
「うん」
「そっか、それなら早いや。簡単に言うと、あたしの秘密を二人に知られちゃったのが、お母さんにバレちゃった」
ステラとの間で短い確認がなされた後、早速問題が告げられた。
帽子を脱ぎ去って腰かける彼女を眺めながら、それの何が問題になるのだろうかと、最初、キャスは理解できずに不思議がる。話がうまく呑み込めていないのは、自分の頭がいまだにはっきりしていないからだろうか。
「どうして?」
「凄い形相で聞かれたら、その……怖くて喋っちゃったの。ごめんね。服に開いてた穴で気付かれちゃって」
「まあ、仕方ないかな。それで、お母さんの反応は?」
「予想通り、口封じするつもりみたい。あたしに説得できる感じじゃなかったし、殆ど強迫観念みたいだった。今も、こんな街中でどうするつもりなのか知らないけど、二人のことを探してる」
どうやら、知ってはならない秘密を知った自分たちの口を彼女の母が封じたがって探し歩いているらしく、彼は昨日の光景を思い出した。あと一歩で、面倒な事態に巻き込まれていたのかもしれない。
ならば、まずはっきりさせたいのは、目の前の少女の立ち位置か。
「それで、母親はそうだとして、君の立場は?」
「最低でも、お母さんに見つかって面倒が起きる前に町から逃げて欲しいかな」
「最低でも?」
「出来れば、もう少し高望みさせて欲しいってこと」
単に逃げるだけならば、出発が早まるだけなので何も問題にならないのだが、彼女は自分たちに対し、他に望むことがあると言う。
「あのね。あたしたちが最初に会った町で、あたしはお母さんから黙って離れてきたって言ったでしょ?」
帽子を拾ってからの一連のやり取りで、それが判明したのだったか。振り返ってみると動く死人と出会った後に人魚たちと遭遇していたわけで、奇妙な程の偶然だ。
「ええ」
「正直ね、こうやって親子二人だけで移動し続けるのも限界かなって思ってるんだ。本人はあんまり自覚してなさそうだけど、お母さんの様子も少しずつ悪化してる気がするし、そのうち心労で倒れそう」
あのやつれた顔を思い出せば、彼にも頷けた。
「隠し事を心配し過ぎて、疲れてきてるってこと?」
「結局、気が休まることがないせいだろうね。半分以上は、本人の気にし過ぎが原因だとは思うけど。あたしだっていい歳なんだから、一人で気を張らないでくれるといいんだけどね」
その娘であるミセリアも母親の様子を気にかけていると分かるが、この状況でその話題ということは、つまりそれが「高望み」の内容ということだ。
「まさか、その問題を僕たちにどうにかしてほしいと?」
「そういうこと」
確認のために投げかけた問いも肯定される。しかし、そんなことを頼まれたとしても荷が重いとしか答えようがない。
「難しそうだね。わたしたちに、何かできるのかな?」
ステラもまた、首を捻っていた。
「うん。あんまり簡単なことじゃないから、本当に、高望みになっちゃうんだけどね。偶然知り合っただけの相手に頼まれても困ると思うけど……」
頼んできたはずの当の本人も、流石に態度は控えめとなっている。
「全部一人で背負いこんで旅をしてるから、お母さんもあんなに辛そうになるんだと思うの。何があっても、全然楽しそうじゃないし。娘のあたしのことはあくまで面倒をみなきゃいけない対象で、頼りにしていいとは思ってないみたい」
ミセリアの視線は、斜め下へと降ろされていた。
「で、もしも仲間なんかが出来て、お母さんが頼っても良いと思える人が出来たなら、この状況も少しは変わるかなって」
自分たちに仲間になって欲しいという、簡潔な頼みである。ただし、現状では容易なものと思えない。先ほどの説明によれば、向こうは既に自身とステラに対し、敵対的な意思を固めてしまっているはずなのだから。
「向こうは僕らを始末するつもりなんだよね。どう考えても無茶な気がするんだけど……」
「それはあたしが説得して、何とかチャンスを作るから…………例えば、一回くらい依頼に一緒に行って、本当に信用できない人たちなのか確かめて、とか。その間にお母さんの気持ちを変えられないかなって」
「そんな説得が通じるなら、今の段階でいきなり殺意をもって探し回ってるかな」
「娘のあたしが本気でお願いしたら、チャンスくらいはくれると思う。実際に考えなおす気はなくても、少しでもこっちの心の整理がつくように」
かなり甘い考えな気もするが、娘の心の整理のために折れるという読みも、性格如何では有り得なくもなさそうである。だからといって、そんな状態から歩み寄りを試みて上手くいく可能性は低いのではないだろうか。
「肝心の気持ちを変える作業の方は、何か成功する見込みでも?」
「うん」
それからミセリアの視線がステラの方へと向けられた。
「おんなじハーフエルフのステラなら、何とかならないかなって。ほら、色々共感できるところがあれば、心も開きやすいでしょ? 幾らあのお母さんでも、そこまで完璧に他人を拒絶してばかりもいられないだろうし」
「なるほどね…………」
つまり、引き受けるとしても彼女を終始当てにする形になるということだ。いきなり見知らぬ女性に近づいて親しくなれるような技術も持ち合わせていない彼には、結局この件は手の付けようもないのである。
「やっぱり、いきなり頼むには無理のあるお願いだよね」
「…………………………無理っていうか、まあ、僕が果たせる役割って、あんまりなさそうだから、決定権もないかなって」
それから二人揃って、ステラを見た。
「無理にとは言わないよ。お母さんの方が命を狙ってる以上、そっちにはリスクしかない話だし」
キャスは多分、彼女はこの話を引き受けるのではないかと予想している。実体としては、ミセリアが助けを求めているようなものなのだから。
「そうね。でも、何とかしてほしいんでしょ?」
「……うん」
「分かった。わたしにできる限りは、何とか頑張ってみるね」
「ありがとう」
「そういうのは、成功した時にしましょ? それに、まずあなたがお母さんを説得してくれないとどうしようもないもの」
予想通りに、話は纏まっていく。
「それじゃあ、明日、ギルドで待っててもらえる? あたしがお母さんのことをちゃんと説得出来たら、連れていくから」
「ええ。キャスさんも、それでよろしいですか?」
「うん」
些か急な日程にも思えたが、こちらの逃亡を疑われないためにも、予定は詰めていった方が良いはずだ。それに、あの女性に出くわさないようにと気を遣いながら町で過ごすのも面倒である。
ミセリアが、大きくため息をついてから座っていたベッドへ後ろ向きに倒れ込んだ。
「良かった……、上手くまとまって」
すっかり話が決まって、どうやら気が抜けてしまったようである。割と控えめな交渉であったが、意外なほどに、彼女がこの申し出に賭けていたものは大きかったのかもしれない。
彼女の母の説得に自身が出来得ることを殆ど見いだせていないキャスとしては、只々ステラの成功を祈るのみ。
そして、それが失敗したときの、最後の手段に関する気構えくらいだ。
「そういえば、途中で呼び止めちゃったけど、ステラ、何か外に用事でもあったの?」
「ちょっと、お腹がすいたから何か食べようと思って」
彼は昨日のうちに食べ歩きをしていたが、思い返せばステラは一昨日から何も口にしていなかったはずだ。それはさぞかし空腹であるだろう。
「わたしは外に行きますけど、キャスさんも、何か食べますか? 買ってきますよ」
「なら、お願いするよ。なんでも良いから」
流石に付いて行けるだけの元気は戻っていないため、素直に頷いた。
「それならあたしも何かお願い!」
キャスが答えたのに続いて、ミセリアまでが起き上がってそう述べる。まだこの場に居座るつもりのようだ。
「いいけど、戻らなくて大丈夫なの?」
「うん、どうせ、まだその辺を探し歩いてるんだろうし。……外に出たら、お母さんに見つからないように気を付けてね」
寝返りを打ってうつ伏せになった状態から、彼女は相手を見上げていた。足をバタつかせて遊んでおり、非常に落ち着きがない。
「分かった。……それでは、行ってきます」
ミセリアの警告に答えてから、ステラは部屋を出て行った。
見送って、キャスは再びベッドの上を這って寝そべる。頭が来るはずの位置に座っていて、そこから最短の距離で済ませたために、先ほどとは頭と足の向きが反対だ。
静けさの戻った空間に、再び寝息を立てられそうだと目を閉じた。
傍らから、ごろんと何かが床に落ちる音が聞こえる。
目を開けて確認してみると、寝たままの状態から足だけを使って、ミセリアが靴を脱ぎ棄てている所だった。残るもう片方の靴も、音を立てて床に落とされる。特に何かが見えそうだった訳でもないが、そのスカートの裾がこちらを向いていたので、さっさと視線を逸らしておいた。
今度こそと思って、彼は再び目を閉じる。
「ねえ」
隣でのそのそと移動の音が聞こえた後、声がかけられて、またしても就寝を断念して目を開くことに。
「何?」
「キャスは、本当によかったの? 頼んでおいてなんだけど」
問われて、深く息を吐いた。
「仕方ないさ」
いきなり見も知らぬ相手と旅を共にするかもしれないとなると多少は戸惑うが、ミセリアと暫く共にいた分には悪くなかったし、その母親くらいならば構わない。何より、ここで彼女の頼みを断るのはステラの気持ちに反するというのが、最大の理由だ。
「そっか。あたしたちは別に目的があるわけでもないし、行先とかは大体二人に合わせられると思うから、上手くいったらよろしくね」
「上手くいったら、ね……」
兎角後ろ向きな話になるため、ステラの前ではあまり口にしたくなかった話題を、今のうちにと切り出しておく。
「そう。上手くいったら」
落ち着いた様子で繰り返すようにミセリアもその言葉を発して、同じことを考えているらしいことが分かった。
「多分、向こうの気を変えられなかった場合は、出がけ先で仕掛けられることになるんだろうね」
「依頼が終わって町中に戻ってから改めて狙うのも手間だろうし、そうなると思う」
ステラの行動が上手く実を結ばなかった場合、そのまま戦闘になることは予想に難くない。そして、ミセリアもそのことは理解したうえでこちらに頼みに来た。ならば、その先の展開に対しては、どのような見通しを持っているのか。
「どうするつもり?」
率直に疑問をぶつける。
「…………あんまり、考えてないんだ。ごめんね」
幾分か、声が小さくなっている気がした。
「旅をするようになってから初めて他人にあたしの正体を知られて、その上、ステラがその後も変わらないで接してくれてたから、今を逃がしたらこれ以上のチャンスはないんじゃないかなって。だから、考えがまとまるより先に動いちゃった」
別にそのことを責める気はないし、気持ちも分からなくはない。自分にしても、人狼であることを知りながら傍にいてくれるステラの存在は、非常に貴重なものなのだ。
しかしながら、今回の件に当たって、断っておかなければならないことがある。
「殆どのことはステラに任せるつもりだけど、失敗して戦いになったときには僕が出るから、覚悟だけはしておいて」
説得という一番重要な役割を彼女一人に任せる不甲斐なさはあったが、だからこそ、手を汚す役割が必要になったときには躊躇うつもりもなかった。それを今のうちにミセリアに告げ、気構えを求めておくのは、彼女に対する甘さなのかもしれない。
「ならないと良いな……」
「そうだね」
願望で答えられ、キャスもそれを否定することはしなかった。




