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第五話 一人きりの目覚め

「…………ミセリア」

 宿の一室で目を覚ました彼女は、己が娘の名前を口にする。

 彼女の名はフィリア。台詞の通りミセリアの母親であり、エルフの里で生まれ育ったハーフエルフで、死者を呼び起こす魔法を有する稀有な存在だ。

 上体を起き上がらせて部屋の中を見渡すが、当然、誰もいない。普段ならば二人部屋を取るのが当たり前なのに、今この部屋にはベッド自体も一つしかなかった。

 今日も、ほとんど眠れなかったな。うすぼんやりと振り返る。短い睡眠の中で見た夢は悪夢。昔の出来事そのままだった。親の言いなりになって意に沿わない相手と結婚し、自身が衝動的に起き上がらせてしまった死した娘と旅に出るまでの間の出来事だ。

 何となしに、目元を指でなぞる。

 異様なくらいに濃い隈がそこにあるのは鏡を見るまでもなく知っていて、いつからその様になってしまっていたのかはあやふやだ。娘を連れて逃げ出した後の、神経を張りつめさせ続けた暮らしのせいであったとは思うが、一方、結婚したあたりからこんな感じだった気もする。暴力に怯えるばかりの、地獄のような結婚生活だったから。

 その結婚唯一の成果とも言える愛娘は、何日も前に書置きだけ残してひょっこりと姿を消してしまっていた。少し一人で遊んでくるから、こちらも羽を伸ばしていろと。

 出来るわけがない。それがフィリアの感想だ。この二十年間、恐怖と罪悪感だけが胸を締め続けている。今だって、もし何かのきっかけで、娘が一人でいる間に秘密が露呈してしまっていたらどうしようと怯えているのだ。

 絶対に、彼女を失いたくない。

「行かないと……」

 今日こそは娘もこの町にやって来ているかもしれないと、彼女はひとりごちて起き上がった。

 いつもの、なるべく人に顔を覚えられないことを念頭に置いた服装を身に着ける。顔を覚えられるようなことがあれば、いつか全く成長しない娘の存在まで明らかになるのは必然だ。

 宿を出て、彼女は船着き場の方へと出かけていった。



 彷徨うように町を歩くも、娘の姿は見かけられない。自身が乗った次の船でやって来るのならば昨日には到着しているはずなのだが、如何せん、上手い具合には発見できなかった。

 まだあの町に留まっているつもりなのか、それともまさか、本当に何かあったのか。

 背筋が寒くなる思いだった。

「あ、た、し、が!」

 そんな時、少し張り上げられた様子の少女の声が聞こえ、それが聞き覚えのあるものだと気付く。

 彼女は急いで振り向いた。

「……ん?」

 一人で小さく疑問の声を上げる。外見上は全く見覚えのない女の子が、見知らぬ男女と一緒になって何かを話しているのが目に入った。先ほど少女が上げたのであろう声は間違いなく娘のものだったが、彼女が被っているぶかぶかな帽子にも、普通の市井の少女然りとした服装にも心当たりがない。

 とはいえ、顔こそ帽子のせいで隠れてしまっているが、衣服など自前で調達できるのだし、あれがミセリアである可能性は高そうだ。

 その様に結論付けるまでの間、フィリアは三人のことを遠目に凝視してしまっていた。当然、相手側からも気付かれる。最初に気付いたのは男の方。それから女の方と娘と思しき少女がこちらを見て、その後視線は外された。

 このまま近寄って直接確認してしまえばいいものを、彼女が生まれ持つ、他者と関わるのが苦手という気質が一歩を踏み出すまでに時間を食わせる。

 その間にも彼らは何か話し合っていて、男が少女の帽子を取り上げた。顔が露わになって、娘であることがいよいよはっきりする。それに伴い、フィリアの足も動き出した。

 ミセリアは素顔を隠すものがなくなると、男の後ろへ隠れていってしまう。怒られると思っているのだろうかと考えると、何でもいいから自分の下へ早く帰ってきてほしいと泣きたくなるが、もしかしたら帰って来たくないのかもしれないと考えると、酷く苦しい気持ちだ。

 自分の不甲斐なさのために辛い生活をさせている自覚が、フィリアにはあった。

「ミセリア」

 それでも、何より大切な娘を前にして、声をかけずにはいられない。

「ひ、久しぶり」

 男の影から出てきてそう告げる娘の様子に、問題なく元気にしていたことが分かって、それからその苦い笑いに、本気で帰ってくるのを嫌がっているわけでないことも伝わってきて、深い安堵を胸に抱く。

「…………この方たちは?」

 一先ずの無事を確かめられて、一緒にいる男女の事にまで気が回るようになった。軽装ではあるが冒険者のようだ。最初にこちらが二人を無視するようにして娘へ声をかけたことは、どうにか眼を瞑って欲しいところである。

「えと、前の町にいたときに知り合って、ここまで一緒に連れてきてもらったの」

 子供が一人きりで町に滞在するとなれば、それは目につくこともあっただろう。幸い、ここまで共にやってきたということは、悪い輩以外の目に留まったのだと理解できる。

「それだけ?」

 ただ、心配もあった。ミセリアの身に関する秘密のことだ。

「………………うん」

 答えが返されるまでに間が空いたのが、些かに不安にさせる。これまで一度も他人に知られたことはなかったのに、まさかついにその時が来たとでもいうのだろうか。

 湧き上がる焦燥に耐えつつ、一刻も早い確認のためにもこの場をやり過ごしにかかる。

「それならいいの………………あの、娘がお世話になったみたいで」

 黙ってこちらのやり取りを待ってくれていた二人へと礼を告げた。

「いえ、わたしたちも元からここへ来るつもりだったので」

 赤い髪をした優しげな女性。そちらの方が対応してきて、男の方は彼女に任せる姿勢であるらしい。その男も割と穏やかそうな印象で、現在接している限りでは、こちらのことが知られているとは思えなかった。それでも依然として不安ではある。

「そうですか。それで、お礼というか、お金の話なのですが……」

 ここまで連れてきてもらった謝礼のみならず、恐らくは幾許か負担させてしまったのであろう娘の身を預かってもらっていた期間の出費まで購わなければ、話を終わりにはできない。

 金銭の話題を持ち出すと、男女は目を合わせ、何かしらの意思疎通を図っていた。

「………………うん、丁度纏まったお金が入ったばかりだし、僕は別に受け取らなくても構わないけど」

「わたしも、一緒に行動してて楽しかったですし、別にお礼は構いませんよ」

 金に余裕があるというよりは、二人のそれは若さ故の豊かさのようにも感じられる。正直に言って、普通に金銭を渡して終わりにさせて貰った方が、懐はともかく気持ちとしては楽だった。

「ですが…………、すみません、お言葉に甘えさせていただきます。本当に有難うございました。それでは、失礼します」

 食い下がってみても話が長引くだけかと思い直し、彼女は善意に甘える。それから娘を促して、早々にこの場から立ち去ろうと歩き出した。

「……じゃあね、二人とも」

「う、うん、またどこかで」

「元気でね」

 背中越しにそれらの声を聞きながら、構わず歩みを進め、角を曲がって彼らの視界から姿を消す。それで立ち止まることなく歩き続けて、この町での滞在中に利用していた宿まで娘を連れ込んだ。

 人々の視線がなくなり、漸く素の彼女として振る舞うことができる。

 部屋の戸を閉めるとすぐさま床に膝をつけて目線の高さを合わせ、両腕で自分の娘を抱き寄せた。

 何も言わずに、その力を強めいていく。

「あの……、ほんとにごめんね?」

 腕の中から元気のない謝罪が聞こえてきた。

「いいのよ。私も、窮屈な想いばかりさせてて、可哀そうだとは思ってたから」

「そっか」

 娘の声音が幾らか安らいだ。

「だからと言って、次こんなことをしたら承知しないわよ。本当に心配したんだから」

 そして、そんな彼女に対してすかさず釘をさす。経験上、今の声音は再犯の予兆だと直感できたからだ。とはいえ、既にこちらがこういった部分に引け目を感じ、強く出難い想いでいることが知られてしまったため、恐らくこの娘はいつか同じことをやらかすのだろう。

 娘が被っている帽子の天辺に吹きかけるように、フィリアは溜息を吐いた。

「……心配し過ぎだよ。あたし、もう三十歳近いんだよ?」

 ミセリアの年齢に対する認識は、いつも親子で意見が分かれる話題である。

「そんなこと言ったって、あなた、見た目は子供のままなんだから、周りは子供として扱うでしょう? 大人として認められないんだから、一人で別な街を歩かせるなんて不安だわ。実際、あの二人に拾ってもらわなかったら、本当にすんなりと船に乗って帰って来れたの? それ以前に三十歳近くもなって、あなた子供っぽすぎるのよ。落ち着きはないし、喋り方だって」

「はいはいはいはい、分かったから、もう離してよ」

 うるさそうにこちらの台詞を遮って、娘は腕の中から逃れていった。

「もう……」

 不貞腐れながら荷物を放り投げてベッドに飛び乗る様など、まるで子供そのものではないか。身体が幼い姿のままであることが原因なのか、或いは幼い姿に引きずられた、母親である自分を含めた周囲の接し方に原因があるのか、フィリアには一向に謎である。

 ただ、そんな娘の姿を見ていると頬が緩んでしまって、それ以上の説教は不可能になってしまうのだ。

「それで、結局、おかしなことは何もなかったのよね?」

「……うん」

「何、その間は?」

 自身もベッドの所まで歩み寄り、相手を見下ろしながら問いただす。

「ちょっと、本当に大丈夫だったの?」

「…………」

 答えることなく視線を逸らされ、一気に肝が冷えた。

「ちょっと! まさか、何かあったっていうの?」

 覆い被さるように迫って、語気を強めて再度問う。

「だから、ないってば……」

 小さな声で歯切れ悪く答える娘の様子に、直接答えを聞くよりも早い解決策へと訴えかけることに決めた。

 彼女が先ほど放り捨てた荷物の所まで行って、その中身を漁る。

「あ、ちょっと、止めてよ!」

 背後の声を無視して探せば、重要な証拠が案外早く見つかった。いつも彼女が着ている服と外套、その胸の中央部分に大きな穴が開いている。前と後ろの両方にだ。血もついていた。

 心臓が打つ早鐘に従い、大急ぎで取って返す。寝そべる娘の衣服を脱がして胸部の確認を図った。

「何すんの!」

「いいから、見せなさい!」

 お互いに、完全に怒鳴りつける語調になっている。急に服を脱がされそうになれば相手が母親でも抵抗するだろうが、フィリアとてそれどころの話ではなく、必死だった。暴れる娘を押さえつけながら服をたくし上げると、そこには既に塞がりかけとなった傷口が佇んでいる。

 絶望から脱力し、床の上にへたり込んだ。いつどこでこんな致命傷に当たる怪我を負ったのかという問題はあれど、これが意味するところはつまり、とうとう秘密が誰かに知られるときが来てしまったということではないか。

 服を整え直したミセリアが、傍らでこちらを見下ろしていた。

「あ、あのね、お母さん。その、大丈夫だから、し」

「黙りなさい!」

 大丈夫。最悪の場合を想定し、常に気を張って用心してまでこの事態を避けていた彼女にとって、娘が発したその台詞は些か神経を逆なでするものになってしまう。

「あの二人に見られたの?」

 怒鳴り声と共に乱れてしまっていた呼吸を整え、勉めて静かに問いかけた。

「えと、その……」

「答えて。お願いだから」

 見上げる状態で相手の反応を窺っているが、中々答える様子がない。どうしても答えたくないことは明らかだ。しかし、平時とは違ってここで妥協するという選択肢は、フィリアにはなかった。

「見られたのね? お願いだから、本当のことを、お母さんに教えて?」

 両手を両手で握り根気強く言葉を重ねる。絶対に、放置できない問題なのだ。

 長い長い沈黙が続いた。聞こえてくる外の喧騒を気にする余裕は全く持ち合わせていない。

「………………ちょっと二人の仕事に隠れてついて行ったときに」

 ついに相手が根負けして、白状する。

「………………そう」

 短く、力のない言葉を発するのが精一杯だった。

 娘の秘密を他人に知られる。そんな時にどうしたらよいかは、これまで散々考え、覚悟してきたこと。表面的な人柄だけで信用して痛い目を見ないように、一律して同じ対応をするとも決めてあった。

「殺さなきゃ……」

 呟きに、ミセリアが目を瞠る。何日も行動を共にした相手にこの娘が情を移したのは想像に難くないが、彼女の安全のためにも、自分が心を鬼にしなければならない。

「ちょっと」

「駄目よ、絶対に。仕方のないことだと思って諦めなさい」

 何かを言われる前に発言を封じる。こちらとて、故意に人を殺めるなど初めてのことであるし、叶うことならやりたくないのだ。

 だが、娘の命には代えられない。自身の魔法や、呼び戻した娘が周囲からどのように受け止められるかなど、分かりきったことである。広まる前に、禍根は立たなければならない。

「分かったわね?」

 最後の問い掛けにミセリアが答えることだけは、ついぞなかった。

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