表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エルフの少女に恋した少年は永遠の命を追い求めました  作者: 赤い酒瓶
第二章 青海で聞こえた二重唱
23/97

第六話 二重唱

「あっ、見えた!」

 そう声を上げたのは金糸の様な髪をなびかせ、己の背にある純白の翼をはためかせながら海面ぎりぎりで滞空している一人の女性だ。見たところは十代後半くらいだろうか。これまでの数日間をひたすら獲物の索敵へと費やした末の成果に、整った容姿を喜色に染めている。だがその笑みは女性が浮かべるに相応しい己の魅力を引き立てるようなものでなく、内に秘めた凶暴性の窺えるものだった。

「もうすぐ……、と言ってもまだ結構かかると思うけど、直にこの辺りを通るはずよ。早速準備しなきゃ」

 翼の女、セイレーンは傍らの女性に語りかける。こちらの女性は見るからに彼女よりも年嵩であり、空を飛んでいるわけでもない。

「ええ…………。それにしても、よく見えるものね。私の目には全く見えないわ」

 頭の天辺から肩のあたりまでを海面から突き出した三十半ばほどに見える女性が、セイレーンにそう返す。こちらは少女の方とは異なり、ようやく遭遇した獲物の存在にも一切表情を変えることはなく、声音も淡々として内心は一切窺い知れない。

 女性は無表情なまま遠くに視線をやっているようだったが、彼女に見える距離ではないだろう。だが、種族柄視力に優れたセイレーンには、獲物の姿、その船体が遥か遠くからこちらに向かっている姿が辛うじて見えていた。

「まあ、人魚とセイレーンじゃ視力が違いすぎるわよ。それじゃ、いつもみたいによろしくね」

「ええ」

 セイレーンへの返事と共に海中へと姿を消す。然程深くまで潜ることなく移動をやめ、後はその場で準備を整えながら、件の船が訪れるのを待つばかりだ。

 今頃、彼女の頭上ではセイレーンが上へ上へと高度を上げていっている所だろう。向こうはこちらと違って、相手に可能な限り発見されないよう、かなりの高さまで移動しなければならないため、それなりに時間がかかるはずだ。

 そんな相棒のセイレーンの名はサニアといい、海中で待機している人魚の彼女の名はマリナといった。もっとも、彼女たちがお互いの名を口にする機会はほとんどない。二人きりで行動し、お互い他の人物に話しかけることなどないために、自然とそうなってしまう。

 ところで、どういった経緯で海中に生きるマリナと、空に生きるサニアが出会ったのかといえば、それはほんの偶然によるものからだ。

 サニアと出会う以前、人の目に自身の存在が触れる可能性を極力避けるため、マリナは海面に近づくことや海の外に姿を晒すことは夜の間に限定し、日中にそうすることはほとんどなかった。反面、海の外に出る必要などないにもかかわらず、それでも止めようとしなかったのは、外から見た海の姿と、何よりも海の外に広がる陸地の上の、そこにある海底とはまた違った趣の景色に惹かれるものがあったからで、彼女がサニアと出会ったのも、そうした理由から海沿いの岩場にて、岩の一つに腰かけながら一人歌っていたときのことだ。



「凄い偶然。人魚なんてもういないものだと思ってたけど」

 ある日の晩、マリナは急にその声を聴いた。声は背後から聞こえ、ごく近くから発せられたものであるようで、驚きのあまり歌も止まる。こんな夜中ではあるが、万一人が通りかかった場合に備えて周囲にはしっかりと注意していたはずなのに、いつの間にこんな近くまで忍び寄ってきたというのだろうか。

 ついに見られてしまった、という思いとともに、彼女の全身に緊張が走る。

 先ほどまで響き渡っていた彼女の歌によって夜空には雲一つなく、星々と月の光が遺憾なく降り注ぎ、風も波も穏やかな中、彼女の心には警鐘が響き渡っていた。傍らで空の光を反射している黄金の鉾に手を伸ばし、背後を薙ぎ払うようにして振り返る。

 鉾は空を切った。

 振り返った先、相手は彼女の頭上より幾らか高い位置でこちらを見下ろしている。地に足をつけることなく、真っ白な翼をはためかせ、空中から。

 相手のスカートの裾からはまるで鳥のような足が姿を覗かせており、実際に地上の人々を間近で見た経験のない彼女だったが、それは何だか歪に見えた。地上には人間を中心にいくつもの種族が暮らしていると聞いたから、単に変わった種族というだけのことなのしれない。

「ああ、これ? 私、セイレーンなのよ」

 マリナの視線に気が付いた相手がそう告げたが、当の彼女にはセイレーンという名自体に聞き覚えがなかった。

「知らない? まあ、仕方ないか。あなたたち人魚と同じように、今じゃ絶滅寸前の魔人の一種よ」

 魔人とは、エルフや人間のように個々人で異なる魔法を宿す「人」と違い、種族ごとに決まった魔法を操る存在だ。

「そう」

 彼女の返答は極短いもので、未だ鉾を片手に相手を警戒している。

「そんなに警戒しないでよ。私だって人間に滅ぼされかけた種族の一人なんだから、仲良くしましょ?」

 姿を現してから終始笑顔で接してきているその相手は、自分も似たような立場だから、そちらに危害を加えるつもりはない、と言いたいようだった。

 マリナはそんな相手の様子を暫く観察していたが、やがて真意を見抜くのを諦め、鉾を下ろして相手をしてみることに決める。今まで避けてきた事とはいえ、考え方によっては生まれて初めての、陸の住人との接触なのだ。

「よかった。折角出会えた魔人同士、争いたくはなかったから」

 武器を下したマリナの様子に、セイレーンは嬉しそうに言う。

「別に、まだ信用したわけではないのだけれど…………」

「それでもいいわ。さっきも言った様に、私はセイレーン。名前はサニアっていうの。あなたは?」

「…………マリナ」

 サニアは高度を下げて先ほどよりも目線を近い位置に持ってきた後、マリナの言葉などお構いなしに名乗って、マリナもそれに名乗り返した。

「それで、何か用なのかしら」

 マリナの態度はあくまでもそっけないもので、それは相手の目的が分かるまでは安心できないからだ。今の外の世界で人魚という種がどのように認識されているのかは分からないが、少なくともかつて自分たちの種族が外の世界の住人らによって狙われていたことは父祖から伝えられているので、例えそれが遠く昔の話だとしても安心できたものではない。

「いいえ、獲物を探している間に偶然あなたを見つけたから、声をかけてみただけよ」

「獲物?」

 マリナが聞き返す。

「そう、獲物よ。人間たちの乗った船を探して襲ってるの。ああ、出来るだけ大きくて、大勢が乗ってる奴が良いわね」

 それに対し、何のことはなさそうな調子で相手は答えた。

「人間を襲う? 何のために?」

 一方、マリナには相手の言っていることの意図がいまいち掴めない。その発言から可能な限り多くの、それでいて不特定な人々を対象にしていることは理解できたが、何を思ってわざわざそのような行為に及んでいるのだろうか。一応、こんな話をしているということは、人魚である自分はその対象からは外れているようだが。

「そんなの……、まあ、色々あるのよ」

 それははぐらかそうとしているのか、それとも単に、一言では説明しきれない複雑な事情であるのか。

 先ほどの会話の中で思い当たるものがあったため、マリナはその点に触れてみることに決める。

「さっき人間に滅ぼされかけた種族だって言ってたことと、何か関係でもあるのかしら」

 人魚という種族自体、外界から切り離されて久しいため、マリナにはあまり海の外の知識はなかった。今の彼女は、遥か昔の外の世界のおおよその様子を僅かに伝え聞いているのみに過ぎないのだ。ただ、疑問を言葉にし終えたころになって、マリナはその質問が、不用意に尋ねてよいものではなかったかもしれないという可能性に思い至ってしまう。今は亡き自分の両親も、人魚が滅ぼされた経緯に触れられるのは嫌がっていた記憶があり、結局最後まで彼女にそれを教えることはなかったほどだ。

「直接関係あるわけじゃないんだけどね。今、私たちセイレーンのほとんどは人間どもに殺されて、私が知ってる生き残りも、私と、私の両親くらいなのよ」

 しかしながら、幸い相手はマリナの問いにも然して気分を悪くした様子はなく、平然とした様子で話し続けてくれる。

「種族最後の番であるあの人たちは、人里で、人間に混ざって暮らしていたわ。人間どもと慣れ合って、外見が大きく異なる異種族の自分たちが孤立しないようにあれこれ気を使ってね」

 セイレーンという種が滅亡の淵に追いやられたことについては平気そうにしていた彼女だったが、次いだ内容に関しては思うところがあるようで、多少言葉に棘があるように感じられた。

「力に物を言わせるな、空を飛ぶな、魔法で人を操るな。あの人たちは私に対して、しつこくそう言い聞かせてきたわ。外見は無理でも、それ以外の面で人間たちから逸脱した行動をするのは目をつけられそうで不安だったのでしょうね。今は何とか周囲に受け入れられていても、いつ何が切欠でその環境が崩壊するか、分からないのだし」

 サニアの一家とは反対に、溶け込み得る他者もなく、親子三人ばかりで広い海の中に育ったマリナの境遇において、正直そういった「社会」というものに関する事情は想像し難いものがあったが、口を挿むことはせず、黙って理解に努める。

 サニアが一度、大きく息を吐いた。

「あの人たちはそんな生活でも満足していたみたいなの。友人に囲まれて、毎日仕事をこなして、人間たちと同じ生活を送る。セイレーンとして生まれ持ったもの全てを捨て去ったような生活だったわ。まるで、人間になりきっているみたいに」

 サニアが自身の父母の在り方に大層不満を抱いていたらしいのは、もう明白だろう。

「でも、私はそんな生活の何もかもが気に食わなかった。折角優れた力を持って生まれてきたのに、死ぬまであんな下等な連中に合わせて暮らすなんて絶対に御免だわ。だから、あの場所を飛び出したの」

 サニアは空を飛ぶのを完全に止め、翼をたたんでマリナの隣に座り込んだ。その目線は彼女が現れるまでマリナが見ていた景色の方を向いており、マリナ自身もそれに合わせて体の向きを元に戻した。

「生まれ持った力を目一杯に使ってみたかったのよ。両親に言わせれば、そんなことだから自分たちセイレーンは今みたいな状況になったんだってところなんでしょうけど、別にいいじゃない、好きなように暴れて回ったって。どうせセイレーンは私で最後なんだから、今更人間どもと共存なんかしてみたって何の意味もないわ」

「どういうこと?」

 今一つその意味するところを掴み損ねたマリナが口を挟む。

「そうね…………。あなたたち人魚の魔法って、歌で海とか天気とか操れちゃうんでしょ。私たちセイレーンはね、歌で人を操れるのよ。何でも自由自在にってわけにはいかないんだけど。ともかく、セイレーンっていうのは得てしてその力を振るいたがる習性を生まれ持ってるみたいで、遊び半分で心を操られて隣人同士で殺し合いまでさせられるわけだから、他の種族には脅威だったでしょうね。私の両親みたいに、セイレーンの全員がそうだったわけじゃないんだけど、やっぱりそういう輩が多かったのもあって、直接人を襲った人と、襲ってない人まで殺されるようになって、どんどん数が減っていったらしいわ。その結末が現在ね」

「つまり、あなたが人間を獲物として狙ってるのも、その人たちと同じ理由ってことでいいのかしら」

 マリナがそのように問うと、サニアはこちらを横目に窺いながら答える。

「ええ」

「そう」

 ごく短い答えに対し、マリナの感想もまた、同じく短いものだった。それは単純に、サニアの返答にこれといって思うところもなかったからで、強いて思うところを上げるとすれば、自分が悪戯に海を操るのと同じようなものなのだろうな、といったことを頭の片隅でぼんやりと感じたくらいだろうか。

 だが、サニアの方はそんなマリナの反応を解釈しかねていたのか、暫く黙ってこちらを眺めてきた後、口を開いた。

「それだけ? 今の話を聞いて、私に対して思う所とかないの? こんなことを言うのもなんだけど、遊び半分で人を死に追いやるなんて、良い顔をされないっていう自覚はあるのよ?」

 その言葉への答えは、マリナにとって至極単純なものだ。

「別に、人間なんてまともに見たことないもの。どうなろうと知ったことじゃないわ」

 見たこともない連中がどのような目にあっていようと、何の関心もなかった。ましてや相手は、自分たち人魚を破滅に追いやった連中だ。人々が人魚を狩っていた当時の人物はもう死んでいるのだろうし、その子孫にまで恨みを抱いているつもりはないが、だからといって何かしらの思いやりめいたものが芽生えるわけもない。

「そっか。まあ、あなたたちも人間に大勢殺された種族だし、あいつらに同情なんてしないわよね。安心したわ」

 そこまで言ってやっと、サニアの視線がマリナから外れた。

「ところで、一ついいかしら」

「ん? 何?」

 マリナは先ほどから相手の言葉の中に見え隠れしていた誤解について、話に一区切りついた今、言及する。

「さっきから、『あなたたち』って言ってるけど、もう残っている人魚は私一人だけよ」

 それを告げられた相手がどのようなことを思ったのかは知らないが、サニアはマリナの方を見て、それから海に視線をやり、暫くして再びマリナのことを見つめる。

「そうなの…………。それじゃ、あなた、私を手伝わない?」

 返ってきた言葉は、どうしてなのか、マリナを勧誘するもので、彼女はその意図を把握しかねた。

「いや、偶然あなたを見かけて声をかけたときから、そういうつもりはあったのよ。船を襲うって言っても、やっぱり私一人じゃ上手くいかない場合も多いし、けどあなたの魔法があったら絶対成功しやすくなると思うのよね」

 今までの会話も、端から戦力をあてにした勧誘のためのものだったということなのだろうか。

「まあ、そんなのは私の都合に過ぎないんだけど、でもあなたにだって、悪い話じゃないと思うわよ。先祖の恨みを晴らせるんだもの」

 別に、当人でもない相手にそんなことをしたいとも思わないのだが。そんなふうにマリナが考えている間にも、相手の話は進む。

「それに、気を悪くさせたら申し訳ないんだけど、人魚で最後の一人ってことは、あなた、これから先も、この海の中で一人きりってことよね?」

「ええ、そうよ」

 サニアの言葉とは裏腹に、特に気分を害することもなくマリナは答える。確かにあまり考えたい話ではなかったが、諦めのついている話でもあったのだ。

「さっき言った通り、知る限りでは私もセイレーンで最後の世代で、両親が人間どもと仲良く暮らしている以上、他に仲間ができるはずもないし、結局この先、この海の上で一人きりなわけ」

 相手がこちらに向かって身を乗り出してくる。

「ねえ、助けると思って、仲良くしてくれないかしら」

 サニアが放ったその言葉は、マリナの中で答えを決定付ける。先祖の恨み云々に関心はなかったが、どの道お互い一人きりならば、この巡りあわせを活かしてみるのも良いだろうと、そのように判断した結果だった。



 そして現在、マリナはサニアの助けとなって、己の住処の上を安穏と行き交う人々を破滅へ導いていた。一所で活動し続けるのは人間側に警戒と対策を敷かれかねないことから好ましくないというサニアの言の下、これまでは色々な地域を転々としながら船を襲っていた二人だったが、数年も経って、今は久方ぶりにマリナが元々暮らし、サニアと出会った地域に戻ってきている。

 その声に魔法を宿らせて、彼女は歌を紡ぎだす。彼女の魔法は十分な効果を得るまでに結構な時間を要するものであるため、相手の船がこの場所を通過するまでに準備を整えるためには今から歌い続ける必要があった。

 もっとも、人魚という生まれから魔力に恵まれている彼女にとって、その程度の時間、魔法を行使し続けることに何ら問題はない。そういう魔法を行使する種族として生を受けたのだから、それは当然のことだ。

 それに、彼女にとってこの行為は、数少ない娯楽の一つでもあった。

 娯楽といっても、それはこれから彼女が相棒のセイレーンと行おうとしている船舶への襲撃、船員の皆殺しまでを含んだものではない。彼女個人の楽しみとしては別段そこに人がいようがいまいがどうでもよいことで、単に歌うこと自体と、自身の一存によって海が大きくうねりを上げ、海上に嵐が巻き起こり、時には反対に荒れ狂う海が鎮まって、豪雨が快晴へと導かれるといった変化を眺める一時を好んでいる、といった程度の話だ。

 では何故彼女が態々船の通りかかるのに合わせて歌うのかといえば、彼女にとって唯一の知己、サニアのためである。彼女が歌と自らの歌によって引き起こされる現象を見るのを好むように、サニアは歌うことと、自らの歌によって操られる人々の姿を見るのが好きなようだった。その現象の中でも、特に人と人とを争わせ、互いに殺し合わせるのがこの上なく楽しいらしい。そして、そうするためには可能な限り相手に気付かれることなく、己の声を聞かせる必要があるそうだ。そうでないと、単純に自身の魔法で攻撃的になった相手が、そのまま自分に襲い掛かってきてしまうといった結果に終わってしまいかねないとか。それを避けるためにも、マリナのもたらす嵐は都合がよかったらしい。

 彼女は歌う。歌い続ける。海原の上に自身が思い描いた世界を再現するために。

 時間がいくらか経過して、彼女の目にも船体が、というより、船底が見える距離になったようで、他方、海上では既にほとんど準備が整っており、もうすぐ豪雨豪風が猛威を振るうはずだ。

 今からまた、大勢の人々、そのほとんどは人間なのだが、それらが殺し合って、屍を晒すのだろう。

 かつては人間に対し、強く恨むこともなければ、同情めいた念を抱くこともなかった彼女だが、最初にサニアと船を襲った際、乗員全てが死に絶えた船の上に乗り込んだ時に生まれて初めて人間たちの姿を実際に目にしてからというもの、自分の中に何と名付けてよいか分からない、それでいて捨て去りようのないことの確かな念が居座るようになったのを自覚していた。それは自分たちが行っていることを肯定も否定もしない感情だったが、これまで鬱々としつつも比較的静かな心持で暮らしてきた彼女にとって、大きな重荷となり、今もそれを抱えている。

 その要因となっているのはきっと、彼らが大勢で、それでいて一様に酷い有様で死んでいたことなのだろう。

 それまでは朧に思い描いていただけだった人間というものの姿、人魚にも通じるその髪、目鼻、口、肩から腕、腹、人魚とは異なる地に立つための二本の脚という外見。それら自体には只々新鮮味を覚えるのみだったが、自身とは似て非なるその種族、それが大勢集まっているその光景にこそ、彼女は強く衝撃を受けたのだ。一瞬ばかり己の半生が脳裏に過ぎり、それと並行するようにして目の前の死体たちの、そのつい先頃までの、サニアの魔法の被害に遭う以前の姿を想像してしまう。同族同士で寄り集まり、同属に囲まれ、楽しく賑やかに暮らす人々の姿を。

 自分たちを破滅に追いやった者たちが今も尚栄えている現実を直接に目撃して、それと同時にこれまでとこれからの自分の一生というものの、そこにある差に彼女は気がついてしまい、自然、彼女の中にある人間に対する否定的な感情はその重さを大きく増し、彼女の中ではっきりとした苦しみとなった。

 もっとも、そればかりであれば、その感情は彼女に対し、より容易に人を殺せるよう後押しするのみに留まりもしただろう。

 ところが、それとは反対に、死人たちの顔を見た彼女の中に何か、決まりが悪いというか、居心地が悪いというか、彼らの死に顔から彼女の目を逸らさせてしまうような気持も同時に生じたのだ。それは罪悪感の様でもあり、あるいは他人事じみた憐みの情の様でもあり、恨むべき相手に抱くには似つかわしくない感情だった。

 直接には何の関係もない相手を意味もなく殺める。それ自体には気が咎めながらも、反面相手のことが確かに憎い。今更サニアへの協力を取りやめ、かつての孤独に戻る気は更々なかったが、気分が晴れないことも確かだった。

 船体という人の影が視界に映り、それによって気分が沈んだまま、マリナは船に近寄ってその周囲を泳ぎ時間が過ぎるのを待つ。船を襲うといっても担う役割は極々補助的なものであり、こうして海中で歌っているだけ。あとは時折海面から飛び上がって、サニアの方の様子を確認するくらいだ。サニアの魔法は直接声の届かない相手に効果を及ぼすことができないため、一瞬海上に出る程度であればマリナが影響されることはない。

 早ければ、そろそろ事態が決着している頃だろうか。しばしの間船の下で時間を潰した後、マリナは一度、外の様子を窺うために海面から飛び上がった。

 彼女の目に映ったのは、船上で争う人間たちと、それを高みから見下ろし歌うサニアの姿。どうやらまだ時間がかかるようである。

 目撃したのがそれだけであれば、また海の中で一人時間が経つのを待つだけで済んだのだが、その時マリナはこれまでの展開では起こり得なかったものの存在に気が付いた。甲板の上、一人の男が誰と争うでもなく、真直ぐにサニアのことを見ていたのだ。見間違いかと思ってもう一度跳び上がってみても、やはり男は一人冷静な様子で空の翼人を見上げている。そのことをはっきりと確認しながら、彼女は空中から海中へと舞い戻る。

 戻った先で、彼女は思案する。サニアの魔法が上手く決まらなかった場合や、何らかの対策により効果のない相手などがいた場合どうするかなど、二人の間で考えたことがなかったわけでもないが、その時は様子を見て逃げれば大丈夫だ、というサニアの意見で終わったのを覚えていて、それは自身と出会う以前の彼女の経験からの言葉だということも記憶に留めていたが、如何せんマリナが実際に遭遇するのは初めてだ。万一何かあるのではと不安も覚えてしまう。

 そして、その不安は的中する。

 今一度様子を見ようとマリナが三度目の跳躍に踏み切ったところ、彼女は男がその手に持った剣をサニアに向けて投擲する姿を目撃し、四度目の跳躍の時にはもう、サニアの姿は上空になかった。代わりにその姿は甲板の上にあり、血を流しながら倒れ伏している。片羽を失って自力での逃走は不可能なのが一目でわかる有様だ。

 それを見た彼女はすぐさま決断を下した。

 マリナは五度目の跳躍をして船に飛び乗り、サニアを助けるべく彼らの間に着地する。他者と直接に、ましてや海の外で戦うなど今までにないことだったが、友人を助けるにはやむを得ないことであったし、敵が一人というならば、彼女にも大きな勝算があった。父母亡き後受け継いだ、自身が常に持ち歩いているこの黄金色の鉾の魔道具がそれだ。

 甲板の上、マリナは相手を睨み据え、だがそれも一瞬のこと、直ぐに鉾を構えて魔法を発動させた。マリナ自身の魔法によって作られた嵐の中から、手にした魔道具に秘められた魔法によって落雷が呼び出され、定められた標的の頭上に導かれる。彼女自身はその魔法の結果など気にも留めず、手早くこの場を離脱しようと、背後のサニアを担ぎ上げていた。

 そして、手負いのサニアを連れて海中へと飛び込もうとしたその瞬間、マリナは先の魔法を受けて尚、敵が倒れていなかったことに気付く。黒い獣に姿を変えたその相手は、目にも留まらぬ速さで間合いを詰め、跳び上がったマリナをこの船上に留め置かんとその爪を伸ばす。それはマリナの身体を掠めるのみに終わって、その逃亡を防ぐこと自体は叶わなかったが、かわりに幾許かの血肉をその身から奪っていった。

 海中へと身を沈めたマリナはその痛みに苦悶の声を上げ、同じく片翼を切り落とされるという手傷を負っていたサニアも、傷に沁みるのだろう、抱えられながらもじたばたと暴れている。

「ごめんなさい、暫く我慢してね」

 自身も苦痛に耐えながら、マリナはサニアにそう囁く。

 下半身に受けた一撃のために常の様には泳げない中、サニアが溺れないよう時折海面に顔を出しつつ、マリナたちはその場をあとにするのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ