第十三話 彼の人生の終わり
「明日はもう満月だし、今夜には結論を出さないとね」
いつものように訓練を終えて小屋へと帰ってきたところで、キャスの方がそう切り出した。
「………………………………………………」
それに対してジーンは、何も言えずに沈黙する。
彼も答えは出ていたが、それを明かすことには一方ならない迷いがあった。彼の答えを聞かせれば、それが相手をひどく苦しめることを承知しているのだから、無理もないだろう。
「僕の答えは変わらないよ」
ジーンが何の反応も示せないでいると、キャスの方が先に自分の答えを示した。
そして、その内容は予想通りのものだ。
「たった一度の機会を得るためでしかないけれど、そのために人間をやめても構わない。大事なものを諦めたまま、だらだらと目的のない旅の果てに老いて死ぬのはごめんだ。ここで賢いつもりになって、人狼になるのをやめたとしても、どうせ待ってるものはつまらない人生にしかならない。それに、孤独な末路なんて、人狼にならなくてもあり得る話だしね」
それがキャスの答え。彼にとってその一度の機会とは、そのほかに背負うことになる全ての負担と釣り合うものなのだろう。
そこまで言われたことで、ようやくジーンも決心がついた。こうまで言うのならば、自分の頼みを聞いても、それを全うして進んでいけるだろうと感じたからかもしれない。
「それが僕の答え。ジーンの方は?」
「…………」
少しの間をおいて、彼も自らの答えを語りだす。
「人狼の血を与えることに、私も異存はないよ。……ただし、条件がある」
「条件って、どんな?」
キャスの方が、少し緊張した様子で尋ねる。この局面で切り出された条件であることと、ジーンの様子から、不穏なものを察しているのだろう。
「人狼の血が、力が欲しいのなら、明日、私と戦ってほしい。戦って、勝ち取ってくれ」
ついにジーンは、それを口にした。
「……つまり?」
意味が分からなかったのか、分かっていて聞き返したのか、キャスの様子からは判別しかねた。
「明日、私を殺して、私の人生を終わらせてほしいってことだよ」
自らの永遠の生に対して、幕を引いて欲しいと彼は友に告げる。
「いや……、どうして、そんな答えに?」
キャスの方は、ジーンがそう言った理由が分からなかったようだ。いきなりの発言であるし、無理もないだろう。そもそもは、彼が人狼の血を与えても問題ない人物か見極めるのが、当初の名目であったし、彼もそのつもりでジーンに答えを促していたはずだ。
「どうして、か。……そうだね、確かに、理由も言わずにという訳にはいかないか」
ジーンもそれに納得して、理由を言葉にしていく。最も重要な部分を言いきってしまえたせいか、彼は幾分気が楽になっているのを感じる。
「単純な話だよ。きっと、今まで永遠の命を得た者のうちの何人もが行き着くところさ。もう充分すぎるほどに生きたから、誰かに見送られて逝きたい、充分に満足のいく最後で終わりたい、それだけの話だね」
そのための最後に、決闘ともいうべき形を選んだのは、彼なりの考えがあってだ。
まず、自害は論外、それができるのならばやっている。どれだけ追い込まれようとも、彼には自らに刃を突き立てることができなかった。
かといって、無抵抗の状態のところを斬り捨ててもらうのも違うと考えた。
そうして行き着いた結論が、戦って斬らせることだった。今のキャスならば、全力の自分と戦っても、勝つことは不可能ではないだろうと彼は考えていたし、最後に本当の命懸けの戦闘をすれば、それはキャスの成長にもなる。
一方、彼がそう言い切ると、彼の心境とは対照的に、キャスの方の空気が見る間に重くなっていくことに気付く。
その様子を見るに、どうやらジーンの言葉の裏にある、彼の不老不死に対する苦しみや悩みを誤解なく理解したのだろう。そして、ジーンが予想した通りに、彼の出した条件がキャスに重くのしかかっているようだ。
ただ、それが分かっていてもジーンにはもはや退く意思はない。ここでキャスを気遣って発言を取り下げれば、確かに彼に重荷を背負わせずに済むが、ジーンの願いとて、そう薄弱なものではないのだ。当人からすれば、この一度を除いて、もう永遠にこのような機会などやって来ないかもしれず、ここからさらに数百、数千年もの年月をまた孤独に過ごすことになるかもしれないのだから。
だから、彼にできるのは、真摯な言葉で訴えることのみだった。
「キャス、君がそんなことをしたくないことは十分に理解しているし、君にとっての大きな重荷になることも承知している。ただ、私にとっても、この先もう二度とないかもしれない好機なんだ。私の最後の友人として、どうかこの頼みを引き受けてくれ」
その後、キャスが答えることはなかった。
ただ、彼が答えなかったことは、つまりは断ることができなかったということだとジーンは理解している。
言うべきことを言い切り、彼は明日の戦いの場と時間を伝え、そうして話は終わった。
あとは、明日までにキャスが覚悟を固めてくれることを、信じるのみだ。
ジーンが翌朝目を覚まし起き上がって視線を動かすと、キャスの姿がないことに気付く。いつもはジーンの方が先に起きるのだが、今朝は違ったようだ。
外に出てみれば、その理由もはっきりした。日は既に高くなっており、彼は自分が普段よりもずっと遅くまで寝ていたことに気付く。こういうのは久しぶりだった。いつもどこかに張り詰めていた部分があったのかもしれない。
思い切り、伸びをする。
これから死ぬつもりだというのに、最後の朝は今までにないくらい、とても静かで穏やかだった。
「さて、いこうかな……」
キャスに告げた時間は、日が天辺まで昇りきった頃だ。もうあまり余裕がない。
ジーンは、のんびりと歩き出す。
少し歩いたところで、彼はふと、後ろを振り返る。
修繕を繰り返しながら、どのくらいの月日を暮したのかも分からない小屋だけがそこにある。
前を向きなおし、再び歩き出す。
風に木の枝が揺られて起こる音、鳥の鳴き声、それらが彼の耳に届く。
さらに歩いて、森の中の開けた場所が見えてくる。
そこに、彼の友人が立っている。
こうして、遥か昔に田舎暮らしの一人の村人に強いられた永遠が、やっと終わりを迎える。
晴れ渡った空を見上げながら、寝不足の頭で、キャスはジーンが来るのを待っている。結局昨晩は一睡もできなかった。
一晩中悩み込んでいたが、果たして意味はあったのだろうか。彼自身にも分からない。確固たる意志の上に今自分が立っている気もするが、一方で泥沼の上に辛うじて沈まずに立っているようにも感じる。動き出した途端に、一気に沈んで行ってしまいそうな、そんな感じだ。
身を撫でる風も、照らす太陽も、広がる青空も、すべてがよそよそしく思えて、凄まじい孤立感に襲われる。
きっと、今の彼の心がそう見せるのだろう。
昇った太陽の高さが、彼にもうその時が迫っていることを教える。もうじき、ジーンも来るはずだ。
キャスは最後にもう一度だけ、その心を見つめなおすことにする。
ジーンを斬る覚悟は、もう固まっているはずだ。彼自身がそれを必要としていることは理解しているし、条件として出されている以上、キャスもそうせざるを得ない。お互いに退けないのだ。
肝心の実力差に関してはキャス自身はさほど心配していなかった。今の自分ならば死力を尽くしさえすれば何とかなるだろうと思っているし、彼が普段使っている剣のほかにも、ステラから渡された短剣もある。勝利する自信はあった。あるいは他の問題が大きすぎて、互いの実力というのが些細な問題に見えているのかもしれない。
そして勝利した後、彼はその血を啜って、望んだ力を手に入れるのだろう。
自らの進んでいくことになるであろう道が、恐ろしくないと言えば嘘になる。
それでも、彼の心に諦める道はない。
ついにジーンの姿が見え始める。いよいよ時間のようだ。
「やあ、なんだか疲れて見えるけど、大丈夫?」
普段通りの調子で、ジーンがそう告げてくる。
「分かってるくせに」
不機嫌そうに、キャスが言い返す。
「そうだね。じゃあ、始めようか」
相手としては、今すぐ初めて構わないようだ。
「本当に、これでいいの?」
これが本当の最後と、キャスはジーンに確認の問を投げかけた。
その言葉を聞いても、ジーンの様子は微塵も揺るがない。
「ああ、今望み得る中で、最高の終わり方だと思ってる。だから、申し訳ないけど、よろしく頼むよ」
そう返ってきたから、キャスもついに応える。
「分かった」
まっすぐな視線を向けて言ったキャスに、ジーンは笑みを浮かべる。
「人狼の姿になると言葉は話せないから、先に言っておくね。さよなら。それと、ありがとう」
言い終えるなり、ジーンに変化が訪れる。ここ最近で、キャスも見慣れた光景だ。
ジーンの全身に黒い血管のようなものが浮き上がり、さらにそこから黒い霧のようなものが立ち上り、彼の姿を包む。そしてその霧が晴れると、黒い毛並みの人狼が姿を現す。
「……来い!」
キャスのその言葉を境に、彼らの最後の戦いが始まる。
それは、一見すれば普段の彼らの訓練のようにも見えただろう。
恐ろしいまでの速度と力で振りぬかれる人狼の腕、そこに備わった凶悪な爪、そしてそれらを両手に握った剣で捌いていくキャス。
けれど、その実際のところは、全く異なっている。命を刈り取るための戦いに、両者とも今までにないほどの力を振り絞っていた。
人狼の身体に自身の強化魔法を乗せ、さらに身体強化をも上乗せして、ジーンは凄まじい速度で立ち回り、キャスの四方八方、あらゆる角度から強烈な攻撃を繰り出してくる。まともに喰らえば、キャスでは一溜まりもないだろう。首や手足くらいであれば、難なく刈り取っていく力がそこにはある。
対して、キャスの方はその成長した力をもってして、危なげなくそれらを捌いてみせる。予知の力で攻撃を察知し、膂力を押し上げて相手の動きについていく。かつてと違うのは、彼が僅かの傷も負う様子がないことと、時折反撃まで行う余裕があるところだろうか。とはいえ、魔法と変身のせいでその体自体が尋常でなく頑丈になっている相手に傷を負わせるほどの一撃を入れることができるほどではない。
それでも、決して長いとは言えない期間だったジーンによるキャスの特訓は、彼を人狼相手に充分互角に戦えるまでにしていた。もはや、かつてのように防ぐだけで精一杯といった様子は全くない。
「これなら、いける……!」
こんな時だというのに、それでも自身の成長に手ごたえを感じてしまう。
ただ、その成長はまだ勝利を決定づけるには至らない。双方ともに、相手に手傷を与えることができておらず、戦況は膠着。このままでは、いつものようにキャスの体力の方が先に尽きてしまうことになる。
それが分かっているから、キャスは何か策がないかと考えめぐらす。
そして彼は、一つの案を思いつく。
しかし、二つの能力を同時に行使して戦っている最中に、さらに別なことにも注意を割くのには無理があったようだ。
爪が、彼の肩口を割く。
「くっ……!」
次の一撃が自分の胸を貫く光景が予知に映って、とっさに彼はすべての力を一時的につぎ込んで、念力を発動させる。
「はあ、はあ…………」
何とか、相手を吹き飛ばして距離を開けることに成功する。魔力の多い相手に、瞬間的にとはいえ力を作用させたせいで限界を超えた力を出してしまったのか、ひどく頭が痛むが、どうやら最後の一撃からは逃れられたようだ。
自身に鞭うち、剣から手を離すことなく構えをなおす。
彼の肩口からは、血が流れている。
正面では、既に体勢を立て直してこちらに迫る人狼の姿がある。
キャスは焦ることなく、再び能力を発動しなおす。
二人の距離が目前になったところで、念力が彼の腰にある短剣に作用する。
銀の刃を持ったそれが、独りでに鞘から引き抜かれて、人狼の心臓へ向けて放たれた。
当然それは相手の防御が間に合わないほどの速度を兼ね備えてはおらず、己の弱点となるその銀の武器を叩き落とそうと、全力の一撃が放たれる。その軌道のまま進めば、短剣は真横からの攻撃で払われて、へし折れることになるだろう。
だがそのくらいはキャスも想定している。最初から、短剣は囮だった。
彼から向かって右側から振るわれる人狼の左腕、それに合わせるようにキャスは横薙ぎに、自身の左から右へと剣を振りぬく。
剣と腕が真っ向からぶつかり、そこからは想像もできないような衝撃がキャスの腕に走る。威力もさることながら、やはり尋常でない強度を誇っていたようだ。これが毛と肉と骨を斬ろうとした手応えとは信じがたい。
一方、その甲斐あって、ようやく戦況を決定付けられるほどの一撃を与えることができたようだ。
真正面から叩きつけられた一太刀に、人狼の左腕は切り落とされていた。
彼が、苦悶のこもった咆哮を上げる。
すると、再び漆黒の霧が立ち込めて、人間の姿に戻ってしまった。
ジーンが失われた左腕から血を流しながら、脂汗を浮かべて、それでもまだ終わりではないとこちらを見ている。
彼は大きく息を一つ吸い込むと、それだけで呼吸を整えて、ローブの内側、腰に下げていた剣を引き抜く。
そして、戦闘は再開された。二人とも、この期に及んで言葉を交わしたりはしない。
しかしキャスの方は、自らの心が急激に揺らぎ始めているのを感じていた。拮抗した実力で命懸けの緊迫した死闘を演じていたときには、もはや他のことに気を取られている余裕などなかったが、ジーンが元の姿に戻って余裕ができたのが原因か、それとも顔を見てしまったのが原因か、自身が立っていたのが堅い覚悟の上ではなく、泥沼のような情けないそれの上だったことを思い知らされる。
お互いに人間の姿の状態では、キャスの方が実力は上だった。それでも心の揺らぎの分だけ、彼の攻めは弱くなり、決着はつかない。
ジーンの方は、まるで左腕を失ったのは当の昔の話だとでも言うかのように、迷いのない目で勢いを落とすことなく剣を振るっている。
血をまき散らしながら、二人の打ち合いは続いた。
結局のところ、片腕を失った差は、キャスの心の迷いを含めたところで埋めようはなかったようだ。ついにジーンの手から、その剣が弾き飛ばされる。
瞬間、相手が丸腰になったことで、ついにキャスの心も挫けそうになる。
そのせいで、動きが僅かに鈍り、小さな隙が生じた。
それをついて、ジーンが尚も残った右腕で最後の攻撃を仕掛ける。キャスの喉元めがけて、貫手を放とうとした。彼の魔法による強化を考えれば、人の喉を貫くくらいの威力は備えているだろう。
ただ、予知の能力を使っているキャスの不意を完璧に突くことなど、できようはずもない。だがその一撃は、この期に及んでまで生じた彼の迷いを殺すくらいの力はあった。
放たれようとした攻撃を潰すために、キャスが剣を振りぬく。
それで、決着はついた。