第十一話 日常
「ドラゴンを探しに?」
ジーンがキャスと暮らし始めてから数日、彼はドラゴンを見に行かないかと提案していた。理由は単純に、暇を持て余していたからだ。ここでやることといえばせいぜい、食料の確保のための狩猟採集くらいである。一人であればそれでも良いが、力を与えても問題ない人物か見極めるといった手前、それでは決まりが悪い。
そこで彼が思い出したのが、ここから数日掛かりの距離にある場所、ここよりさらに森の奥地にドラゴンの縄張りが存在しているという大昔の情報だ。
彼自身はそこに足を踏み入れたことはないため、それが事実かどうかは確かでない。しかし興味はあった。昔同様、叶うことならドラゴンをこの目で見てみたいという想いはいまだにある。今までは力量差を考えて踏み込むことはなかったが、キャスの能力と彼自身の力があれば何とかなるのではないかと考え、ジーンはこの提案に踏み切っていた。
「ああ、場所はここよりもさらに森の奥で、私も今までわざわざ倒しに行ったりなんてしたことはなかったんだ。そこまで行くと、日帰りできる距離じゃなくなるし、魔物の強さも、一人で相手にするには面倒になってくる。何よりも、実力的にドラゴンに一人で勝てるかどうか、不安もあったしね。でも君の実力を見る限り、二人でなら何とかなるんじゃないかなって思って。ちょっとした冒険だよ。君も男なら、一度はドラゴンを見てみたいって思うだろ」
そうジーンが誘いの言葉を投げかければ、キャスも興味を惹かれたようではあった。
「でも、ここに来るまでに寄った村でも、ドラゴンの話なんて聞かなかったけど」
しかし、そんな台詞が返ってきて、ジーンは首を傾げる。
「あれ? 私がここにこもる前はそういうふうに言われていたし、まず間違いないはずなんだけど……。まあ、この辺自体立ち入る人も少ないし、かなり時間も経ってるから失伝しちゃったのかな」
恐らくはそうなのだろう。この森自体が山を越えた先にある魔物の巣食う場所であるため、足を踏み入れる者など彼に用のある者くらいだ。そんな場所にドラゴンの縄張りがあったとしても、普通の人が足を踏み入れる心配などないのだから、特に注意する必要もない。数百年の時間の流れのうちに、世の中から忘れられてしまった可能性は十分ある。意図して詳しく探せば、どこかには伝わっている可能性もあるのだが。
「まあ、多分ドラゴンはいるとして、どうする?」
実際のところ、話しているうちにジーン自身はかなり乗り気になっており、多少強引にでも向かうつもりだ。しかし、そうなることはないだろう。キャスの瞳にも好奇の光が映っていることに彼は気が付いていた。
「わかった。行ってみよう」
キャスがそう答えたことで、彼ら二人によるドラゴンという強大な存在への挑戦が決定した。
「多分だけど、そろそろじゃないかな。ここで一旦休んでおこうか」
ドラゴン目指して踏み込んできた森の奥、不意にジーンはそう告げた。なにがしかの直観的なものが働いたのか、少しずつ周囲の空気が変わってきているのを感じていたために、そう判断したのだ。
二人は大樹の根元に背を預け、座りこむ。
「なんだか、里にいた頃を思い出すかも」
キャスがそんなことを言い出した。
「と、言うと?」
確かエルフの里も森の中に存在したのだったかと思いだしつつ、そう聞き返す。
「子供のころ、まだ能力に気付く前に、姉さんに連れられて里の外にある森の中を歩き回ったことがあったんだ。探検だ、て言われて」
思い出すように、キャスは話す。
「まあ、特に何かあったわけじゃないんだけど。一人で詰まらなそうにしていた僕を見かねた姉さんが、僕の手を引いて連れまわしてくれたのをよく覚えてるんだ」
「初恋の人との思い出ってわけだね。彼女の手の温もりを、今でも覚えている、と」
「……………………」
茶化したら、睨まれた。図星だったようだ。
「そんなに睨まないでよ。ところで、前に聞いた限りでは不老不死になったら、お姉さんに告白する、みたいに聞こえたけど、そのへんどうなの?」
話のついでにそんなことを聞いてみる。
「もし不老不死になれたとしての話だけど、そうするつもりだよ。とは言っても、いざ故郷に帰ってみたら、もう別な誰かと一緒になってるかも、っていう可能性だってあるんだけどね」
そう答えが返ってきたので、この際ジーンは、当初から気になっていたことについて彼に尋ねてみることにする。
「それについては、その時になってみないとね。それに、振られる可能性だってあるわけだし。もしそうなったら、君はどうするんだい?」
それは、ジーンが最も気にかけていたことだった。すなわち、そうなった場合、彼は自分と同じような道を歩むことになるのではないかという心配。
「そうだね、どうしようか」
しかし帰ってきたのは気のない返事、様子を見るにさして何かあるわけではないようだ。
そんな彼の様子を見て、ジーンも考える。もしかしなくても、自身と彼は根本的に考え方が異なるのではないか、と。ジーンにとって、人狼になり人間でなくなったという事実は、ただそれだけで相当に重く、容易には受け入れ難いことであったが、キャスにとっては自身が人間かどうかなど、さほどの意味などのないのかもしれない。そして、正しく人間であることを受け入れて生きていくことこそが受け入れ難く、それが例え歪んだ行いだったとしても、己の望みのためには人間でなくなることも問題ではない、と。
しかし、もしそうだったとしても、別段ジーンはそれを否定しようと思わない。単なる価値観の違いでしかないと考えたからだ。自らの人間だったころの人生と、聞いた限りでのキャスの人生を比べれば、そうなった理由にも想像がつくし、それはおそらく、単なる世代の違いからくるものでもないだろう。
ジーンにとっては、自分が人間であることはとても重要なことだ。それは彼が彼の愛する父母の血を引いていることの証明の一つであるし、人間として生きていたからこそ、故郷においての、あの幸せな日々があったのだから。そしてそんな、周囲に囲まれての幸福があったからこそ、彼は人間であることに拘れるのだろう。
対して、キャスにとって人間であることはどういうことであろうか。彼と異なり、キャスは実の両親の顔を知らず、彼を育てたのは血のつながりがないどころか、種族も異なるエルフの夫妻だ。そして人間であるからこそ、周囲に軽んじられた。さらには、彼には生まれつき魔力がなく、人間にはない能力を持っている。つまり、キャスにとって人間であることが重要であると思わせる要素など、存在しないのかもしれない。
「ところで気になってたんだけど、君も今まで旅をしてきたんだろう? 仲間はいないのかい?」
結局はキャス自身が考えることであると割り切って、ジーンは話を切り替える。彼が個人的に興味を持っている話題の方へと、誘導を始める。
「旅を始めてから、結構早い段階で不老不死を目標に据えちゃったから。魔力がない上におかしな力を持ってて、しかも不老不死になりたい、とか言ったら面倒になりそうな気がして。それになんか、どうやって仲間を作ったらいいか、よく分かんなくて。結局里を出てから数年間、ずっと一人旅だよ」
それを聞いて、それもそうかとジーンも納得する。普通に考えて、仲間に誘うには不安が多すぎる人物だろう。
「そっか、私も人狼であることを隠したまま旅をしてた時期もあったけど、やっぱり秘密を明かして付き合えるような仲間はできなかったから、なんとなくは分かるよ」
自らの昔を思い出しつつ、彼はそう返した。返しつつ、身を乗り出して本命の質問を繰り出す。
「まあ、つまり何が聞きたかったかっていうとだ。今まで旅をしてきて、他にも好きな女性はいなかったのかい?」
恐らくはいないだろうなとは思いつつ、一方では、いたら面白いとも思いつつ、彼はそう質問した。キャスの目的を考えれば、そんなのが居たらおかしいだろう。だがジーンは、そう理屈通りいくとも限らないのが人の心理と知っていた。浮気の心理がわかるとも言うのかもしれない。
「それは……、どうだろう?」
歯切れの悪い回答だった。そしてこの反応に、ジーンは自らの予想が外れ、期待の方が叶ったと悟る。いないのなら、はっきりいないと言っているはずである
「やっぱりいるか。うん、男なら仕方ないね。どんな人だい? お姉さんの方も、どんな人か聞いてみたいな」
ついさっきまでは、建前上、いないと答えるだろうと予想していたことを放り出して、彼は一気に食いついていく。彼は気づいているのか、その調子はかつての故郷にいた頃の彼に戻ったかのようだ。
「ジーンって、見た目のわりに俗っぽいよね」
「ふふ、昔もよく言われたよ。それでどうなんだい?」
若干冷たい目でそう言われるも、彼は構わず食いつき続ける。彼が自ら言ったように、昔によく言われていた言葉をかけられるくらい、彼の調子は昔を思い出しており、変ではあるが心地よい感覚だった。
「いるとは言ってないんだけどね……。姉さんの方は、なんというか、割とジーンに似てるかも。一見落ち着いて見えて、実はそれほどでもないとことか。色恋話も好きだったし」
まずはお姉さんの方の情報が出てきた。どうやら彼に似た部分があるらしい。正直なんと反応したものか分からないまま、いい加減な受け答えをして話を次に進める。
「そっかそっか。じゃあ、私は君のお兄さん、といったところかな。で、旅先で好きになった女性の方は?」
「しつこいな。…………、そっちは、なんていうか、言い辛いんだけど、ちょっと、お互いに境遇が似てて」
「なるほど、自分と似た部分のある人を好きになるって、よくあるよね」
実際は彼自身には身に覚えのない感覚だったが、確か昔そんなことを言っていた奴がいたなと思いだして、そう肯定してみる。今の彼からしてみれば、自分の境遇を理解できる人物に好意的な印象を持つという心理は納得できるものだ。
「それで、もうドラゴンの縄張りに近いって、どうしてそう思ったの?」
ここで、キャスの方が話題を変えてきた。
「なんとなく、としか言えないかな。人狼として長い時間を過ごしたことで身についた感、ていうのが近いかも。やばそうな空気がするんだよね」
感とはいえ、間違いなく変化を感じ取っているのだから、彼としてはこれで納得してもらうしかない。
「それで、縄張りに入って適当に歩いていけば、向こうからやって来るんだっけ?」
それに納得したのか、キャスが次の問い、というよりも確認をしてくる。
「ああ、向こうの方で私たちに気付いて、後は縄張り意識か何かでこっちを排除しに来るはずだよ」
「それで、ドラゴンの使う魔法については、よく分かんないんだっけ?」
これについては、ジーンの生きていた時代にも、キャスが旅してきた現代においても、はっきりしていないことだ。ドラゴンの使う魔法は、さながら人のように個体差があり、わかるのはいずれの個体も数種類以上の魔法を扱うこと、そのどれもが強力であることくらいである。今回挑む個体がどのような魔法を使うのかについては、二人も知らない。
「うん、昔に聞いた話でも、火を吐いたり、風を起こしたり、とにかくいろいろな魔法が使えて、個体ごとにも違いがあるみたいだってことしか、私も知らないんだ」
「何が起こるか分からないっていうことで、臨機応変にやるしかないね」
「そうなるかな。今決められることはせいぜい、戦闘開始と同時に、私の魔法でお互いを強化するってことくらいさ」
現状では、そのくらいの作戦しか立てようもなかった。相手の情報が不足している上に、今回の戦いにおいて相手に手傷を与えられるような手札自体、二人には限られている。派手な魔法的攻撃手段がないため、ドラゴンの堅い防御を破るにはお互いに強化した肉体をもってして、直接に剣を振るうしかない。剣一本でドラゴンに立ち向かう男たち。それを地味と思うか、いかにも物語の英雄がやってそうな戦いと思うかは、人それぞれだ。もっとも、今回のドラゴンは、物語のそれと違って何か悪さをしているわけでもないので、実際にはただの狩人の姿にしかならないのだが。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
そう言って立ち上がったキャスに、ジーンも従う。
「ああ、長く生きたけど、ドラゴンを見るのは初めてだ。正直わくわくするよ」
子供のころに憧れた存在と、百年単位の時間をおいて、ついに対面するのだ。強者と命懸けの戦闘になることへの緊張感はあれど、もう一方では、童心に返ったように心が高揚しているのを彼は感じていた。
それから再び、彼らは歩き続ける。
ついに、ジーンの耳に、風を切る音が届く。
「来たよ! 向こうだ」
二人が見れば、黄金色の鱗のドラゴンが木々の間をこちらへ飛んできているところだった。彼が縄張りとしているだけあって、このあたりの木々の感覚はそれが可能なほどに広い。
それなりに距離があり、空中を飛行している最中であっても、その真っ赤な瞳が目立っている。
彼はついに二人の前方へと降り立ち、その金翼をたたむ。
とうとう目に焼き付けたその姿に、ジーンは感動を覚えれど、その佇まいの持つ威圧感が与える緊張感がそれを上回る。
彼はなぜか、こちらを待つかのように動き出さない。
構わずジーンは魔法を行使する。彼自身の魔法、対象の能力を強化する魔法だ。
彼が魔法を発動すると、それを合図とするようにドラゴンが動き出した。多少腕に覚えのある程度の人では腰を抜かしてしまうほどの咆哮が上がる。
「いこう!」
こちらも応じるかのように、それぞれにさらなる強化を自らに施しつつ、二手に分かれて駆け出した。
そして最初の一撃、ドラゴンの翼のはためきから放たれた全方位への突風を耐えきり、走り続ける。
さらに続く攻撃は、キャスの方だけに狙いを絞った攻撃、灼熱の炎の吐息が彼方のキャスを襲う。
その攻撃から彼が逃げ切ったのを見届けながらジーンは尚走る。
すると今度は攻撃の的が彼へと変わる。ジーンに向けて火の球が放たれ、かなりの速度で向かってくる。しかし、彼に躱せない速度ではない。
だが彼がその攻撃を躱すと、それは近場の地面へと当たり、爆発を引き起こした。遠くでキャスが自分の名前を呼んだのが彼の耳に入る。
「これは驚いたな。油断していた」
吹き飛ばされ、煙の中でせき込みながら、彼は誰にともなくそう呟く。どのくらいの距離を飛ばされたのかは定かでなく、煙で視界がきかない。自身を強化していたおかげか、手傷は負わなかったものの、爆風に打たれた衝撃ですぐには先のように動けない。
そうしていると、向こうで再び爆音が鳴り、早く戻らねばと自らを叱咤する。
向こうでは、ドラゴンの爪を躱したキャスが風に吹き飛ばされるところだった。彼がキャスに気を取られている隙に、ジーンは駆け寄る。
「くらえ!」
駆け寄り、飛び掛かって、そう叫びながら一撃を繰り出す。
しかし繰り出された渾身の一撃は、その頭で受け止められるという、彼の自信に傷を負わせる形で終わった。その後は先ほどのキャスの様に吹き飛ばされてしまう。吹き飛ばされた先にはキャスの姿。
「かなりの強敵だね、どうする?」
起き上がる彼に、キャスがそう尋ねる。
「やっぱり、目から剣を突っ込んでやるくらいしか、有効な攻撃にはならないんじゃないかな。さんざん炎を吐きだしてきたのを見ると、さすがに口に剣を突っ込んでやる気にはならないね。それにしても、いくら堅いとはいえ、頭で剣を受け止められるのは初めてだよ」
「しかし、こっちの攻撃が通じないほどの防御力に、当たれば即死しそうなほどの攻撃、おまけにその句撃範囲も広いものばかり。小手先の技なしの、まさしく王道的で圧倒的な強さって感じだね」
「ああ、流石はドラゴンってところかな」
二人が話している間にも、向こうは攻めてこない。
「それにしても、なんで攻撃してこないんだろうね」
キャスがその疑問を口にした。
「さて、どうしてだろうね。まさか騎士道精神とかでもないだろうし」
そこまでジーンが言ったところで、戦いの再開となる咆哮が上がった。二人もすぐさま動き出す。
「とにかく、私が注意を引くからその隙を突いてくれ!」
そう頼みおいて走りだした彼をドラゴンの吐き出す炎が襲うが、それにも構わず、振り切って走り続ける。
やがて、ジーンとキャスとの距離が空き、敵方の注意が完全にキャスから外れた頃、キャスも行動を始めるのをジーンは視界にとらえる。ただ、それに気付いたのはドラゴンの方も同様だった。
彼が、その力強くもしなやかな尾で、自身とキャスの間に位置する地面を叩き付ける。
すると、地面が大きく裂けて、もはや谷と呼んでも過言ではないそれが出来上がり、ジーンは若干焦る。下手をすると、この一撃で完全に彼らは分断されてしまったかもしれなかったからだ。
もはやジーンとしては、キャスが何とかして地面に入ったこの大きな亀裂をこえてくるのを期待するのみだ。最悪の場合、彼が回り込んでくるまでの間に一人でこの敵を相手し続けることになるかもしれない。
そんな考えのもとで彼がひたすら攻撃を躱し続けていると、キャスがその能力で裂け目の上を飛んでくるのが見える。若干ぎこちなく、速度も出ていないが、思ったより早く合流できそうであると安心する。
空中のキャスに攻撃が向かわないよう、彼は必死に注意をひきつける。
しかし、如何にジーンであっても限界はある。ついに攻撃の余波を躱し切れず、巻き起こされた突風に飛ばされてしまう。
「この……!」
悪態を飲み込んで、敵に向き直る。剣は先ほど吹き飛ばされた拍子に手放してしまっていたようだ。
向き直った先では、谷を渡りきったキャスとドラゴンが睨み合っていた。
自身はどう動くべきかと考え、とりあえずジーンは様子を見る。
暫しの間があり、そののちに最初に動いたのはドラゴンだった。咢を開き、キャスに向け火球を放つ。
しかしその火球がドラゴン自身から放たれきる前に、キャスの一手が打たれた。先ほどジーンが手放した剣、敵のすぐ近くに転がっていたそれが、彼の能力により操られ、動く。動いた先には敵の火球がある。
結果、剣と火球がぶつかって、ドラゴンの眼前で爆発が起こった。敵の姿が爆炎の煙に隠れる。あの距離であの爆発、しかも大口を開いた状態でだ。ただでは済まないだろう。
強風が起き煙が晴れると、ドラゴンがもう地上から飛び上がっている姿がジーンの目に映る。そして相手の様子から、それが戦いの終わりを示すものであることに彼は気付いた。
彼の想像通り、血塗れのドラゴンは飛び去っていく。キャスの方はその行動が予想外だったのか、ぽかんとした表情でそれを見上げていた。
「行ったね」
そんな彼に、ジーンは近寄って声をかける。
「大丈夫だとは思ってたけど、無事だったんだ。良かった」
すると、一応心配してくれていたらしい。安心した表情でそう返された。
「年寄りは頑丈なんだよ」
心配してくれたことへの気恥ずかしさで、おかしな返答になってしまう。
「逃げられたけど、良かったの? 僕は構わないけど……」
「私も別に構わないよ。縄張りを捨てて逃げていった以上、こちらの勝利であることは確かだからね」
「そうだね」
こうして、ドラゴンとの戦いは幕を閉じた。
日が落ち、焚火を挟んで二人は向かい合っている。ジーンの反対側では、キャスがじっと炎を見つめて考え込んでいた。
「どうかしたのかい?」
ジーンが話しかける。
「異能の力なんだけど、今までの経験だと命懸けの状況の間に、いつの間にか強くなってることが多いんだ。理由はわかんないけど」
「なるほど、だから今までできなかったことでも、さっきの戦いを終えてできるようになってるかも、と思ったわけだ」
そこで彼は、先ほど気になったことがあったのを思い出した。
「そういえば、ドラゴンが作った谷を飛んでるのが見えたけど、随分ぎこちなかったのも出力の問題?」
彼が見た限りでは、キャスが扉や剣を動かしたときと、先ほど飛んでいたときでは明らかにその速度が違った。
「いや、そっちはイメージの問題。出力の方は、僕には魔力がないからその辺の者を浮かせるのとそう変わらないんだけど、実際に自分が浮くとなると、浮かせるイメージと現実に体にかかってくる重力との差のせいで、上手くいかないんだ」
「なるほど、普通に物を飛ばすのとは勝手が違うのか」
そういうものかとジーンは納得する。恐らく彼が考えていたよりも、遥かに繊細なイメージが必要とされているのだろう。むしろそうでもなければ、日常のふとした拍子、例えば何かに腹を立てた拍子に力が発動してしまうことになるのかもしれない。
それならばと、ジーンは思い付きの意見を口にしてみる。
「じゃあ、自分を飛ばす時に、自分にかかる重力の方を消したらどうかな? こう、身を縛る重力を切り離すようなイメージで」
「それは試してないな。ちょっとやってみようか」
思いつきの意見であったが、採用されたようだ。さっそくキャスが立ち上がる。
彼が立ち上がって目を閉じ集中すること少し、その体が宙に浮きあがった。
そのまま暫く、彼は飛び続ける。その様子を見るに、先のようなぎこちなさもなく、上手くいったようだ。
「うん、一気に飛びやすくなった」
降りてきたキャスがそう言った。嬉しそうな様子が隠しきれていない。
それを見たジーンは、自らにも嬉しさが湧いてくるのを感じる。そういえば、誰かの役に立つのも数百年ぶりだったかと気付く。今までは考えもしなかったことだ。
そこで彼は、先ほどのキャスの発言も合わせて、残りの日数をどう費やすかを決めた。
「上手くいったみたいだね、良かった。それにさっきは強者との戦いの方が力が成長しやすいみたいなこと言ってたし、これなら私もまだ力になれそうだ」
彼がそう言うと、相手は不思議そうな表情を浮かべた。
「次の満月まではまだ日数があるからね。小屋に帰ったら、たっぷり特訓できるよ。まあ、特訓って言っても、内容は一対一の戦闘を全力で繰り返すだけになるけど」
キャスが言ったことを考えれば、それが最も効率が良いはずだ。相手が命懸けになるほど強ければよいのだから、実力的に自分ならば問題なくそこまで追い込めるだろう。戦闘の内容、質自体には関係がなさそうであるから、あとはそれをジーンとキャスの体力の限界までひたすら繰り返すのが近道と思える。
ジーンはそう考えて提案したのだが、キャスの方は心なしか顔が引きつっているように見えた。
「お手柔らかに頼むよ」
それに気付く様子のない彼に諦めたのかは分からないが、キャスが観念したかのような返事をする。
「命懸けくらいになる状況じゃないと、力は成長しないんだろう。手加減なしの全力でやらせてもらうさ。人狼の本気を見せてあげるよ」
その返事に、ジーンは満足げにそう宣言した。
「厳しい兄さんだ。姉さんは優しかったのに」
ふざけたようにキャスが言う。
「いやいや、友人のためを思っての愛の鞭だよ。私は優しいんだ」
ジーンは楽しそうにそう言った。
「よし、じゃあ始めようか」
ドラゴンの縄張りから帰還してその翌朝、向かい合って準備が整った状態でジーンの方がそう告げた。
彼が身の奥から人狼の力を引き出すと、黒が湧き出るようにして、人狼へと姿を変える。
「来い!」
それを見届けたキャスの方が、変身により言葉を話せなくなっているジーンの代わりに開始の合図をする。
直後にジーンが動くと同時に、一方的な攻勢が展開される。彼が攻め続け、キャスはそれを防ぎ続ける。そして、攻撃が通ることも反撃がなされることもなく、キャスの体力が尽きるまでそれが延々と続く。
体力が底をついたキャスの手から剣が弾き飛ばされることで、攻防は終わりを迎える。ジーンの爪が突きつけられているのも構わず、彼は地面に座り込む。精根尽き果てた様相だ。
「随分かかったね。でも、後半になるにつれて少しずつ余裕も出てきたみたいだし、本当に力が成長していってる。これならそのうち、魔法を上乗せした状態の私とも戦えるようになれそうだ。楽しみだよ」
人狼から元の姿へと戻り、ジーンがそう告げる。彼の方はまだまだ余裕だ。
「こんなに強いなら、あの時使っていればドラゴンともっと楽に戦えたんじゃ……?」
キャスの方からすれば、そうも思いたくなるのだろう。
それに対し、ジーンも正直に答える。
「あの時はね。誰かと一緒に戦うなんて数百年ぶりだし、人間として戦いたかったんだよ。おかげで楽しかった」
人狼化していればもっと楽に戦えたのだろうが、それでは面白くないと思ったことは偽りない本音だ。あの戦いは相手を倒すことが目的というよりも、ああして闘うことにこそ価値があったのだ。
「そっか」
キャスもそれに対して何か言うことがあるわけでもないらしい。
ならばさっさと次を始めようかと、ジーンはキャスを促す。
「じゃあ、再開しようか」
「は? 今終わったばかりじゃん。体力だって全然回復してないんだけど」
「単純な戦闘訓練であればそうだけど、今回は君の異能の成長が課題だからね。君も言ってたじゃないか、命懸けの状況の方が力が成長するって。つまり疲れてても、私の力が続く限り、徹底的に続けていった方が効率的だよね。戦闘の質が低くなったとしても、危機的な実力差さえあれば力は成長するわけだし」
それを聞いたキャスは、それだけでさらに疲れたような表情をした後、諦めたように立ち上がる。
「わかったよ。再開しよう」
そう言いながら彼は剣を手元に引き寄せる。ジーンの方も再び人狼と化す。
「かかってこい!」
こうして、彼らの日々は続いていった。