最終話 誰がためにその身を燃やさん
目の前には、アクアが仰向けに横たわっている。髪を乱し、腕を広げるその様は、無防備に眠っているようにも見えた。だが、彼女を中心として広がる赤いシミが、そうでないことを物語っている。
「っ……アクア! 目を覚ましてくれ、アクア!」
人間の男、リュウジが彼女に駆け寄り、抱きしめる。揺さぶられても、アクアは目覚めなかった。貫かれた傷跡から鮮血が溢れるだけだ。
俺にはこの光景が、奴の声が、どこか遠いものに思えて仕方がなかった。何も考えることが出来ず、ただ呆然と立ち尽くす。
彼女はもう、笑わない。喋ってはくれない。おかえりと駆け寄ってくることもなければ、つらくないよと抱きしめてくれることもない。怒った顔も、泣いた顔も、あのよく変わる表情のどれも、見せてはくれないのだ。
わがままを言って、怒れるときもあった。勝手なことばっかりして、頭を悩ませた。だが、俺は彼女と出会ってから、一体どれだけ彼女に救われ、支えられていたのだろう。慰められれば心が落ち着いた。過去や生い立ちを聞いて胸が苦しくなった。俺の心はいつも動かされていたのだ。それほどまでに、“アクア”という存在は俺の中で大きくなっていたのだろう。
涙は流れなかった。いや、悲しいのか怒っているのか、はたまたそれ以外なのか。ぐちゃぐちゃに混じって、何が何だか俺にはわからない。だがその暴れ回る感情は、炎となって俺の体から発せられた。それに合わせるように、カンザラ城が、ガロウザ火山が脈動する。
「お前らは――俺が、この手で葬ってやるっ……!」
俺は侵入者どもを睨み付けた。今までに感じたこともないほどの熱が、俺の周りを取り巻いている。ゆらゆらと、体全体が燃えているようだった。弾かれたように人間どもが顔を上げる。
俺は突進した。炎の腕を振り上げる。ガシンと鋭い音を立て、剣撃とぶつかった。
「よくもアクアをっ……」
拳から血が流れるのも構わず、俺は相手を押した。向こうも負けじと押し返してくる。
「それはこちらの台詞だ! なんでアクアがお前をかばうことになった!」
「そんなの……俺が知るかッ!」
腕を振り切り、押し飛ばす。追撃しようとしたところで、文字通りの横槍が飛んできた。体を反らしてそれを躱す。刹那、横薙ぎの一撃が追ってくる。俺は腕を蹴り上げ、一回転して間合いを取った。着地した直後、氷塊が飛ぶ。拳を突き出し炎で砕く。剣が迫る。それは俺の頬をかすめ、わずかに傷を作った。
押されている。彼らの連携に、圧倒されてしまっている。部下を呼ばずに戦った報いだ。人間の数など関係ないと甘えていたのか。だが、勝てる勝てないはもはやどうでもよくなっていた。燃えるこの体同様に感情がただ渦巻いている。それを、奴らにぶつけたい、それだけだった。
俺は後方に跳躍した。考える間を与えず、水流が押し寄せる。
「がっ……」
足に痛みが走った。俺が躱すよりも早く、水が触れて温度が下がったのだ。ズキズキとした痛みに襲われ、思わずかがみ込んでしまう。
「これで終わりだ!」
雷を剣に宿らせ、リュウジが突進してくる。今度こそ、避けられない。だが、ただでやられてやるつもりは微塵もなかった。
「ふざけるなっ!!」
体中がさらに勢いよく燃えた。一度冷えたはずの部屋に再び熱気がこもる。俺は全ての力を右手に込めた。切っ先が迫る。拳を振る。決死の一撃が、交錯した。
体中を貫くような衝撃が走った。熱が漏れ出ているのがわかる。目の前の男の切っ先は、確実に俺を捉えていたのだ。だが、負けたという訳ではない。俺の放った炎も、相手の半身を焼いていたのだから。
ゆらりと剣が引き抜かれる。痛みが走り、頭が傾くようだった。立っていることが出来ず、膝をついて前のめりに倒れ込む。
「リュウジ!」
「ひ、ひどい怪我……」
人間達の悲鳴に似た声が聞こえる。姿は捉えられなかったが、おそらくリュウジという人間も無事では済まなかったはずだ。
「ぐっ、まだ、大丈夫、だ……それより……」
「奴はもう動けないみたいだな」
そんな会話が聞こえてくる。視界がぼやけているせいか、その会話はどこか遠くでのものに思えた。横たわっていると、マグマの流動が聞こえる。自分の心臓が、徐々に弱い音になっていくのも聞こえた。
――そうか、俺は死ぬのか。他の全ての生き物のように、ただ動かない体になるんだ。そう理解したとき、不意に恐怖が押し寄せてきた。部下を死なせたこともある。それどころか、人間は積極的に殺してきた。なのに、いざ自分の番となると、無性に怖いのだ。嫌だ。このまま、死にたくなんか――
「フィル、バー……様」
不意に指先に何かが触れた。驚いて見やれば、犬耳の少女がこちらを向いて微笑んでいた。
「アクア、お前、まだ――」
ほっとしたような虚しいような思いが押し寄せる。どうしてかわからない。だが俺は、残る力を振り絞って彼女に近づいた。みっともなく這いずり、やっとの事で彼女の顔を間近に見る。
「だいじょうぶ、おれも、いっしょ、だから……」
彼女の手が弱々しく俺に触れた。かすれた声で、懸命に言葉を紡ごうとしている。こんな時だというのに、健気な姿に胸が締め付けられた。どうしていいかわからなくなって、そっと彼女に触れる。と、自分の手が、燃えていた。いや、炎になっていたと言うべきかもしれない。体全体が、形ないものへと変わろうとしていた。とうとう自分すら支えきれなくなって、彼女の上に倒れ込む。
「フィルバー様、熱い……」
もはや焦点の合わない眼差しで、こちらを見つめてくる。俺はそんな彼女にさらに近づいた。
「――嫌か?」
「ううん。フィルバー様、だから――」
俺の体はどんどん炎へと変わっていき、やがて思考すらもおぼろげなものになっていく。だが、もう恐怖はなかった。きっとアクアも同じなのだろう。俺は体全体で、彼女を包み込んだ。驚くほどに穏やかな心持ちだった。
「アクア!?」
リュウジは叫び、炎に包まれていくアクアに駆け寄ろうとした。だが、コウライはその腕を引いてとどめる。
「リュウジ、やめろ」
「だが、あいつが――!」
「お前の気持ちはわかるが、この城、もうじき崩れそうだ。ぐずぐずしてたら脱出できないぞ!」
コウライの言うとおり、カンザラ城はぐらぐらと揺れて今にも崩れそうだった。リュウジは舌打ちし、サキに掴まる。刹那、光が彼ら3人を包んで消えた。
その日、ガロウザ火山は激しく噴火した。溶岩流が麓の街まで押し寄せ、火砕流が全てを飲み込み、火山灰が広範囲に降り注いだ。そしてこの大噴火の後、二度と噴火することはなくなった――――
今回最終話ですが、この後にエピローグがあります。