第八話
翌日も都は宮原家に世話になっていた。
せめて家事を手伝おうと申し出たが、却下されて代わりに栄一郎に銀竜の説明をすることになってしまった。とはいえ都も銀竜ビギナーなので、見たとおりしか言えないのがもどかしい。
そんな都の話を頷いて聞きながら、栄一郎はクロッキー帳に鉛筆を走らせる。
「わ…凄い…っていうかプロなんだから上手いの当たり前ですよね。」
「プロって言っても始めたのは三十過ぎだから、遅咲きだね。」
「そうなんですか?じゃあその前は?」
「普通にサラリーマンの営業職。あ、でも絵描きと二足の草鞋だったか。」
「イメージ涌かない…」
栄一郎は笑う。
「あんまり得意な仕事じゃなかったしね。そのせい…ってわけじゃないけど、少し大きい病気をして、幸い回復したけどその時に考えたんだ。いつかいつかって思ってたら、いつかはないんじゃないかって。最終的に会社を辞めてこっちに専念したってわけ。」
「じゃあ笙子先生とは病院で?」
「それが公園で。」
「公園?」
「うん。病気をした後、体力を戻すために毎日歩いてたんだ。合間に公園で絵を描いてて、ある時ドラゴンの挿絵をスケッチをしてたら、いつの間にか後ろに立ってたのが笙子さん。かっこ悪いとか今ひとつとか文句つけて。最初はうるさいと思ったんだけど、言うとおりに直すといい感じになるんだ。今思えば実物を知ってるから当たり前だよね。」
「それでお付き合い始めたんですか?」
「お付き合いって程じゃないよ。顔あわせた時に一緒に缶コーヒー飲むくらい。お互いの名前も、笙子さんが医者だってことも知らなかった。」
「じゃあどうして…?」
栄一郎はそっと微笑む。
「不思議だよね。」
「反対とか…」
「あったよ。だってぼくは不安定なフリーランスだったし、笙子さんより五つも年下だし、病気の前歴もあったからいいことなんて一つもなかった。でもね、笙子さんのお母さんが自分が死んだらこの子の面倒をみる人がいない。だけど、ぼくがいれば人間らしい生活ができるだろうって力説したんだ。それが笙子さん四十歳の時。」
「へぇ。」
「ぼくが宮原の家に入ることを条件に、落ち着いて…もう十年か。」
「あ、じゃあこのペンネームの当麻栄一郎って…」
「ぼくの旧姓。色々あったけど今は良かったと思うよ。」
そういう形もあるんだと、都はなんだか嬉しくなる。
「早瀬さんのところも波乱万丈だったって聞いてる。竜杜くんは店で見かけるくらいで、ちゃんと話したことはないかな。」
「フリューゲル、行くんですか?」
「だってコーヒーもケーキも美味しいから。それにあの店、落ち着くし。」
「わたしもです。」
「笙子さんが言うには、チビ竜が生活できるほどだから、よっぽど気持ちのいい場所なんだろうって。」
竜、という単語を聞いて呼ばれたと思ったのか、コギンが「くぁ」と声を上げる。
「コギンの先輩達の話だよ。」
きゅう、とガッカリした声。
「笙子先生、そんなこと言ったんだ。」
「笙子さんは昔からあの家に出入りしてるからね。」
「だから共犯者?」
「ぼくも詳しいことは判らないんだけど…」
「何が判らないって?」
ウィンドブレーカーを羽織った笙子がリビングに入ってきた。買い物してきた荷物を栄一郎に渡す。
「お帰りなさい。」
「笙子さんと早瀬さんは昔から仲が良かったのかなって話。」
ああ、と何かを思い出すように髪をかき上げる。
「早瀬は昔から共犯者だよ。何かやらかしちゃ、たんびに教師に一緒に怒られてた。」
「そ、そういう共犯者?」
「今となっちゃ色んな意味があるけどね。」にっこり笑う。
「今回の都ちゃんのことも?」
「わたしがここにいること…マスターに?」
「いや、言ってないが…」
携帯は切ってあるので当然冴は知らないし、竜杜にも知らせていない。否、昨夜のうちに一度だけ家に電話は入れた。けれど冴はまだ戻っていないようだったので留守番電話にメッセージだけ残しておいた。「知り合いのところにいる」とだけ。けれど彼女がそれをどう受け取るか…
都の不安を受け止めて、笙子は一瞬考える。
「明日出勤前に早瀬に言っておくよ。都ちゃんは学校にいくこと。」
いいねと念押しされた。
それでもよぎった不安が的中したと知るのは、後になってからだった。
最初に気づいたのはフェスだった。
顔を上げ、短く鳴く声に竜杜は首をかしげる。
少し前に毎朝のランニングから戻ってきたところだった。それに音量を絞ったテレビも、朝のニュースを伝えている最中。そんな時間に来る人がいるだろうかといぶかるが、本当に呼び鈴が鳴ったので気のせいでないと確信する。
ランニングシューズを引っ掛け、重さのある扉を開いた。
「一体…」
竜杜が相手を認識すると同時に、ぱしん!と小気味よい音が響く。
自分より背の高い男に平手打ちをした冴は、一瞬よろけそうになりながら体勢を整える。
肩で息をし、キッ!と竜杜を睨み付ける。
逆に叩かれたほうは冷静だった。
「気が済んだか?」
「済むはずないでしょ!夕べ都ちゃん帰ってこなかったのよ!多分その前の晩も。」
「え?」
「知らないとは言わせないわよ。」
「いや、待て!それは知らない!」
詰め寄る冴に竜杜は慌てる。しかし彼女は容赦ない。
「あんたが知らないはずないでしょ!竜だの契約だの、どうして訳のわかんないことにあの子を巻き込んだのよ!」
「それと家出は話が違うだろ!」
「元はといえばそのせいよ!」
竜杜の手に力が篭る。
「あんたにまったく非がないって言うのか?」
「非常識の塊に言われる筋合いなんてない!」
「そう言って、都の話を聞かなかったんだな?」
「聞く必要なんてない!」
「二人とも!」
騒ぎを聞きつけた早瀬が駆けつけた。
朝早くすみません、と冴は頭を下げる。
「玄関先で何をしてるんだ。いくらうちが広いといっても、そんな大声じゃ近所迷惑だ。」言いながら、竜杜が手の甲で頬を押さえているのに気付く。
「とりあえず、上がってもらいなさい。」
「いえ…そこまでは…」
冴が言いかけたとき、勢いよく扉が開いた。
「うーす。鍵開けてるなんて無用心だなぁ…って…」
その場の不穏な空気を感じて、来訪者は立ち止まる。
早瀬は大きく息を吐き出した。
「宮原…物凄くいいところに来たねぇ。」
「修羅場だったか。出直そうか?」
「構いません。お暇しますから。」
そういう冴を見て、笙子はあれ?と首をかしげる。
「ひょっとして冴さん?」
怪訝そうに彼女は頷く。
「なるほどねぇ。都ちゃんが言うとおり、強そうなおねーさんだ。」
「都…ちゃん?」冴の動きが止まった。
「うん。夕べと前の日うちに泊めた。」
はぁ?と竜杜も目を剥く。
「なんで笙子先生のところに…」
「面識あるし…」
「そうじゃなくて!」
「たまたま駅前で会ったんだよ。今朝は学校にちゃんと行った。んで、チビ竜は栄一郎くんが預かってる。それを言おうと思って立ち寄ったんだ。」
「宮原…」
はぁ、と深い息をついて、早瀬は額を押さえた。
「頼むから…そういうことは先に電話してくれないか?」