第三話
週末、都はコギンをカメラ用のショルダーバッグに入れて早瀬家に向かった。
竜杜が持って来たバスケットもあったが、レンズ用の仕切り板を外してタオルを敷いてみれば、コギンが入るのにちょうどいいスペースが出来上がったのだ。基本的にマンションは犬猫禁止なので、これならば生き物が入っているとは思われないし、何より肩にかけることが出来るので背の低い都にはありがたい。
バスで隣駅まで行き、駅の北側に南北に伸びる古い商店街を歩く。ほとんど住宅地に差しかかるところで現れたその建物は、関東大震災の後に建てられ空襲を免れた、いわゆる文化住宅の姿を留めている洋館である。地元でも老舗の喫茶店で、ドイツ語で翼を意味する「フリューゲル」の店名は、今は亡き竜杜の祖父がつけたのだと聞いている。
背の高い鉄の門扉をくぐり、石を敷いたアプローチを歩く。庇のあるエントランスを一段上がり、無垢板の扉を押し開けると、天井の低い、けれど歴史を感じさせる漆喰の壁に囲まれた室内に迎えられる。
入ってすぐのカウンター席に座った。
「まずは腹ごしらえかな?」
メニューを手渡してくれたのは現在の店主、そして竜杜の父、早瀬加津杜である。黒のズボンに白のワイシャツ、それにベストという喫茶店の店主らしい格好。白いものが混じった髪は短く刈り込み、蓄えた髭もきちんと手入れされている。
彼のにこやかな笑顔と柔らかな物腰、それと年季の入ったこの空間に迎えられるたびに、都は言いようのない安心感を覚えるのだ。
「リュートは?」
「今日は母屋で自分の仕事をしてるよ。こっちは手伝いだから僕も強制しないし…」そう言って運んできてくれたサンドイッチは、いつも通り美味しかった。
常連客で席が埋まってきたのを見計らって、都は早瀬に断って店の奥へと向かう。早瀬の家が建っている土地は奥行きがあり、ひとつの敷地が二つの道路に挟まれている。ゆえに店は商店街に面した東に出入り口が、昭和になって建てられた母屋は西側の生活道路に面した場所に玄関がある。それぞれの入り口は道路を迂回すれば徒歩四分の道のりだが、店を通り抜け裏口に出れば一分とかからない。その近道を抜け、表札のかかった玄関の呼び鈴を押す。ほどなく竜杜が迎え入れてくれた。
戦前の昭和に建てられた母屋は、店と違いむしろ和風建築の色が濃い。とはいえ食堂と繋がる居間は広い縁側を延長したサンルームのような空間で、その一部に襖で仕切られた和室が一部屋。縁側的なガラス窓の向こう、いささかこの空間に不釣合いなカーテンの隙間から見える外に目を向ければ、昨今では珍しい芝の庭と左手に営業中のフリューゲルの建物が見える。
ばさり、と羽音がして一匹の銀竜が竜杜の肩に舞い降りた。
「フェス、久しぶりだね。」都が金色の瞳を覗き込むと、銀竜は嬉しそうな鳴き声を上げる。
それまで静かだったカメラバッグが、ごそごそと音を立てた。
「コギンの様子は?」
「なんとか、慣れてきました。」
都はバッグを開けて、きょとんとしているコギンを安楽椅子の上に下ろす。
「これは?」と竜杜が聞いたのは、バッグの中に一緒に入っていた縫いぐるみだった。
「昼間一人にしちゃうと寂しがるかなぁと思って…」
たまたま本屋の児童書のコーナーに、図鑑と一緒に並んでいた縫いぐるみが目に付いたと説明する。姿形が似ていたので恐竜を選んだのだ。
「だめ、ですか?」
「コギンが嫌がらなければいいと思うが…」
「それは大丈夫みたい。夜もくっついて寝てるから…」
「案外甘える性格なのか。」
「それ、何か支障があるの?」
「それは大丈夫だと思う。コギンはずっと門と共にいた銀竜の子供だから、逆にこちらの環境に合ってるのかもしれない。」
「門と共に…?」
「言っただろう。門に関わる人間には必要な存在だって。それに門番はもともと向こうの世界から、こちらに来た人達だから。」
ただし、文字にも残らないほど遠い昔の話だと付け加える。
「やっぱり一族…なの?」
「その辺りは怪しかったんだが、父さんが竜を召喚したことで一族だと認められた。」
「記録は…そっか、ないんですよね。」
都は以前聞いた話を思い出す。
詳しいことは判らないが門というのは安定した穏やかな風土を好むらしく、そのため元々ヨーロッパのどこかにあったのを、明治になると同時に日本に持ち込んだのが早瀬の先祖だというのだ。日本に帰化し、早瀬を名乗るようになってから門をこの地に移して現在に至る…と、説明されたが、都は「はぁ…」と返事ともつかない声を返すしかなかった。何しろ竜杜と知り合ってからというもの、女子高生が理解するには大きすぎる話ばかりで、聞いているだけが精一杯なのだ。
そもそも、異世界と繋がる通路が持ち運びできるのだろうか?
早瀬に聞いてみたところ、彼は白髪の混じる頭をぽりぽり引っかいて、うーんと唸ってしまった。
「詳しいことは分からないんだけど、ある条件が揃えば、そういうことができたらしいんだ。」
「条件、ですか?」
「記録らしきものがあるにはあるんだけどね…」
「父さんでも読めないらしい。」横から竜杜が口を挟む。
「遺跡の碑文を解読するようなものだからね。」
「石に書いてある、とか?」
「そうじゃないけど…あれは、古い時代のラテン語なんじゃないかなぁ。」
「ラテン語…ですか?」
「それにゲール語とかロマンシュ語も混じってるような気がする。」
そんな言語があるのかと都は目を剥く。そして思い出す。
「そういえば…リュートも日本語に英語が混じってる時、あるよね?」
「あれは…漢字が出てこないだけだ。」
日本語は難しいからね、と早瀬は苦笑する。
「向こうの世界でも古い資料は散逸してるから、その時代のことはあんまり判らなくてね。」
そう言われて、その話は終わってしまった。
その日は夕方近くまで銀竜のレクチャーを受けた。いつものように意味不明の歴史まで飛び出したが、実物の銀竜を目の前にしているので情報は頭に入りやすい。それに何を聞いても答えが返ってくるのが頼もしかった。
「リュートの頭の中ってどうなってるんだろう。」
再びコギンをバッグにしまいながら都は呟く。
「銀竜に関しては、俺よりも父親のほうが専門だ。」
竜杜が買い物ついでに送って行くと申し出たのに甘えて、一緒に外へ出た。空はすでに陽が傾き始めている。
「ちゃんと空、飛べるようになるかなぁ。」
「体力がつけば大丈夫だろう。いずれ向こうで飛ばせたほうがいい。」
「それ、わたしが向こうに行くってこと?」
「母も都に会いたがっている。」
「大丈夫かな。なんか…凄く緊張する。」
「それより今はコギンにやっていいことと、悪いことを教えるのが先だ。」
「責任重大だぁ~」
でも、と顔を上げる。
「がんばる。」
「頑張りすぎは心配だけどな。」
角を曲がりマンションの入り口が見えた所で、都は首をかしげた。竜杜も、じっとこちらを見ている一人の人物に気付く。
「冴…さん?」
ちょっと待ってて、と言うと都は慌てて駆け出した。
「やっぱり冴さん!」
「とりあえず、忘れられてなかったみたいね。」
風除室の前で、キャリーバッグを傍らに置いた、ジーンズにジャケット姿の女性が都を見てにっこり笑う。
四十を少し超えた年齢だが、化粧が薄いのと細身なので若く見える。癖のある肩までの髪は大きめのヘアアクセサリーで束ねていて、他の装飾は細いフレームの眼鏡と小さなピアスだけ。いかにも一線で仕事をしてきた女性の風格を漂わせている。
「お帰りなさい。」
「ただいま。」
「でも、帰ってくるの数日先じゃなかったっけ。」
首を傾ける都に、彼女は「まったく!」と溜息をつく。
「あなたが変なメール寄越すから慌てて帰ってきたんでしょ。作業の都合もついたからいいけど。」
それより、と彼女は都の後ろにいる竜杜に目を向ける。
「あ、えと、早瀬さん。メールで言ったよね?」
竜杜が会釈する。
ふうんと呟く声。
嫌な予感がした。
「とにかく状況が全く見えないんだけど。」
「あの、えーと…とりあえずここじゃなくて中入ろう。」
「いいわね。ぜひお話、伺いたいところだわ。」
「それは…俺も付き合うんだろうな。」
呟く竜杜に、ごめん、と都は手を合わせた。






