第二話
「ただいまー」
誰に言うともなく言って玄関を開けると、運びきれなかったダンボールが出迎える。
と、着信音に気づいて携帯を取り出した。
表示には「フリューゲル」の文字。
出ると聞き慣れた少し低い声が所在を尋ねた。
「今、家に着いたところ、です。」
“渡したいものがあるから、今からそっちに行ってもいいか?”
「あ、えーと…」辺りを見回して「大丈夫」と応える。
携帯を切ると制服のブレザーだけ脱いで、ブルーを基調としたタータン柄のスカートの上にカーディガンを羽織った。大急ぎで家の中を換気して電気ケトルをセットする。玄関先のダンボールにチラと目を向けたが、無視することで決着した。
かっきり三十分後に玄関扉をくぐった竜杜は、目の前のダンボールに首をかしげる。
「引越し?」
「保護者の荷物。これは重くて運べなくて…」
彼は手にしていた籐のバスケットを下足入れの上に置くと、ダンボールに手をかけた。都が苦戦した荷物を軽々と持ち上げて「どこに置く?」と訊ねる。慌てて廊下に面した扉のひとつを開けた。すでにいくつものダンボールが積み重ねられた部屋の、かろうじて空いているスペースに放り込んでもらう。
「ありがとうございます。えと…リュート。」
今までの癖で「さん」付けしそうになるのを飲み込む。
リュートと呼ぶように、と言い出したのは彼だった。
「向こうじゃ親しい相手にさん付けされないし、俺も都は名前で呼んでるから。」というのが言い分だった。
そう言われても男性を呼び捨てにするのは、十六年と十一ヶ月の人生で初めてのことなのでどうにも慣れない。それにいつもは階下まで送ってもらうのが常だったので、家に男性が来るのも一人暮らしをしてから初めてだと気付く。
少し緊張しながらリビングに招き入れる。
と、
「線香、あげてもいいか?」
「あ、うん。」
応えながら、まさかそんなものに気付くと思わず驚く。
都がキッチンでお茶の準備をしている間、竜杜はリビングの片隅にしつらえた位牌に手を合わせている。
仏壇と呼ぶにはささやかだが、母親が亡くなって間もない頃、保護者が知り合いのつてで作ってもらったものだ。飾ってある遺影も写真を生業としていた母親の同業者が撮影したもので、そのせいかカメラを手にした姿はどこか緊張感が漂っている。
「雰囲気、似てるな。」竜杜が呟く。
「顔はあんまり似てないよ。」
「でもカメラを構えてる姿は…」
「どうかな。わたしは…お母さんほど真剣じゃないから。仕事中のお母さん、声もかけられないくらい集中してること多かったし…」そこまで言って何か思い出したのか、都は口をつぐんだ。
竜杜もそれ以上追求せず、彼女が淹れた緑茶に手を伸ばした。一息ついて本題に入る。
「最初に言っておくが、慣れないうちは扱いが面倒かもしれない。」
「扱い?」
「ただこちらが悪意を持たなければ、ひどいことにはならない。」
「それって…もしかして生き物?」
マンションで大丈夫かなと不安がよぎる。
けれど構わず、彼は男性が持つには不釣合いな籐のバスケットを開けて「それ」を取り出した。
都は息を呑む。
「それ…」
持つか?と言われて思い切り頷く。
竜杜は立ち上がると都の傍らに行き、彼女にそっと「それ」を手渡す。見よう見まねで抱き上げると、ひんやりとした感覚が掌に伝わった。
「銀竜…」
以前見た竜杜の相棒を思い出す。子猫ほどの大きさの、白い鱗に覆われた小さな竜。フェスという名のそれは銀竜と呼ばれ、向こうの世界でも数の減っている貴重な生き物だと聞いていた。
あれよりも一回り小さい気がする。色も白く、見る角度によっては本当に銀色に光って見える。そのため大きく裂けた口も爪の仕込まれた爪先も、怖いというよりは神々しく見えるのだ。鱗の手触りはサテンのようなするりとした感触。瞳は金色で、警戒しているのかきょろきょろと辺りを見回している。長い尻尾の先がうねうねと動いて腕をくすぐる。
「かわいい…羽が生えてる。」
「それは都の銀竜だ。」
え?と驚く。
「わたしの?」
「いずれ必要になるだろうから。」
「必要?」
「そのうち判る。今はまず、名前をつけてやってくれ。」
「名前…ないんですか?」
「生まれたばかりだからな。」
言われて都はそれを目の高さまで持ち上げる。
「男の子?女の子?」
「性別はない。」
「じゃあ…こぎん。」頭に浮かんだ名前を迷うことなく口にする。
「こぎん?」
「何となく…じゃダメですか?」
「こいつに聞いてみればいい。」
「えと…あなたの名前、コギン…っていうのどぉ?」金色の瞳を覗き込む。
うぎゃ!とそれが鳴いた。
それが了解の答えだと、何となくわかるのが不思議だった。
「気に入ったらしい。」
竜杜が手を伸ばし頭をなでると、気持ちよさそうに目を細める。
「コギン、わたし都だよ。」
よろしくね、と言うと膝の上にそっと置いた。
小さな竜は都の膝の上でくんくんと鼻を動かし、彼女の様子を探っている。爪の生えた小さな手でカーディガンを引っ張り、よじ登ろうとする。
「でも銀竜って、貴重な生き物じゃないんですか?」
「貴重と言っても、門に関わる人間には必要な存在だ。他の連中にはさして必要もないけどな。」
「門に関わる…?」
「都もその一人だ。名付けできるほど幼い銀竜はあまりいないんだが、ちょうどいい時期にラグレスの家で生まれた。」
「名付け?」
「銀竜は名前をつけた人間を主と認める。」
「と、いうことは…」
「これから先、こいつはずっと都を主と見なす。銀竜の寿命は長いから、多分一生、だな。」
「そ、それは…」責任重大だと気づいて目を丸くした。
きゅう、と間の抜けた声で鳴いたコギンがふわりと舞い上がる。都の肩をがっつりと鉤爪で掴んだその感触と重たさに、少し不安になる。
「でも竜なんて飼ったことないし…」
「銀竜は生命力が強いし、人にも慣れやすい。フェスも俺が子供の頃から…こいつと同じくらいの幼獣の時から育てた。」
コギンが小さな手で都の細い髪をひっぱった。
「痛いよ。」と言うと、きゅ?と鳴いて都を伺う。
その後竜杜が説明してくれた「最低限必要なこと」を必死でメモする間も、コギンは都によじ登ったり頭に止まったりしていた。そうして慣れたかと思ったところで、こてっと膝の上で眠り始めてしまったのはまだ幼いからなのだろうか。
そっと抱き上げて自室のベッドに置いてくる。
「細かいことは週末に教える。フェスと一緒のほうが判りやすいだろう。」
「そうだけど…その前に判らないことがあったら、電話してもいい?」
靴紐を結ぶために屈んでいる広い背中に向かって、都は訊ねる。
立ち上がりながら竜杜は頷いた。
「俺でも父親でも。」
よかった、とホッとする。
「それと…来週、保護者が戻ってくるんです。一応、お付き合いしてる人がいるとは伝えてあるけど…その、もし失礼なこと言ったらごめんなさい。」
「都が謝ることじゃないだろう。」
でも…と俯く。彼女の性格を考えると、本当の事を言ったらどうなるか予想がつかない。
そんな都の不安を見透かすように、黒い瞳がそっと覗きこむ。どきりとする間もなく、竜杜は都の頬に手を触れた。背をかがめ、彼女の唇に自分のをそっと重ねる。
キスされた、と理解して都は赤くなった。
「だ、だから急にそういうこと…」
「と言っても予告するものでもないし。」
「そ、そうだけど…」
「もう一度、予告するか?」
「い、いいっ!」
言われて赤くなる都に、竜杜は優しい笑みを向けた。