第十一話
「少し落ち着いたか?」
毛布を口元まで引っ張りあげたまま、都は小さく頷いた。
竜杜は手を伸ばして額に手を触れる。ようやく血の気が戻ってきたが、それでも伝わる体温はまだ冷たい。
「ごめん…なさい。」
「冴さんがいてくれて助かった。」
あの時、店で倒れた都に処置をしたのは冴だった。
「ゆっくり呼吸して…焦らなくていいから…」
そう言って、軽いパニックから都を引っ張りあげてくれた。
それでもまだ動けない都を抱き上げて、母屋に運んだのは竜杜だった。居間に内包されたこの和室の襖を締め切って布団を敷き、有無を言わさず都を寝かしつけたのだ。
「わたし…いっつもこんなのばっかり。」
「俺が受け止めると言ったんだ。」気にするなと髪をなでる。
「こういうこと、以前にもあったのか?」
「高校に入ってからは初めて。」
過呼吸症、と言う名称は冴が教えてくれた。
「ストレスとか代謝機能が落ちて起こる発作だね。」と説明したのは父親だった。
「カメラ…怖いことを思い出させたか。」
都は小さく頷いた。
「忘れようとしてたの。だけどあれ見たらぐしゃぐしゃになって…怖いのと…辛いのと…ごめんなさいっていうのが…」
「ごめんなさい?」
「わたし…お母さんの写真好きだった。でも仕事してるときは…嫌いだった。」
都が喋るのを竜杜は黙って聞く。
「だって一生懸命になればなるほど、わたしのことなんて見てなかったから。だから出張に行くの、嫌だった。だからちゃんとお見送りできなかったの。」
「お見送り…?」
「お母さんが最後に出かけた日。急な仕事だったから…聞いてなかったのに急に…」声が詰まる。
都はブラウスの袖で自分の顔を覆った。
「だから…行ってらっしゃいって言わなかった。なのにそのまんま帰ってこなくて…お葬式の時も信じられなくて、何が起こったか判らなくて…どうしていいか判らなくて…」
その時の記憶はほとんどない。ただそんな状況にありながら、ほとんど涙が出なかったのが不思議だった。今思えば、むしろ現実味がなかったのかもしれない。
「都が写真部に入ったのは、お母さんの気持ちを知りたかったから?」
「それも…少し。あのカメラと一緒だと…お母さんと一緒にいるみたいだったから。」
でも、それすらもう叶わない。だからひどく混乱したのだ。
「お母さんがどんどん遠くに行っちゃうのが悲しくて…そんなの今頃言うことじゃないって判ってるのに…」
「そんなこと、ないだろう。」
「だって…もう二年も経つんだよ…」涙の混じる声。
「二年だろうが十年だろうが、泣きたいと思ったら泣けばいい。」
「でも…」
「それにカメラは壊れたが、都のお母さんは都の中にいると思う。」
ぐすっと鼻をすする音。
「言ったと思うがあの遺影…カメラを構えている時の都に似てる。」
「だって…わたしお母さんに似てない…」
いつも大人たちにそう言われてきた。
「容姿じゃなくて雰囲気。俺は都のお母さんを知らないが、都のことは見てるつもりだ。だからあの写真を見て、都に似てると思った。」
「本当に?」
顔を隠したまま、都は問いかける。
「そんなに俺が信じられないか?」
首を振る。
「それに冴さんが言うには、頑固なところもお母さんに似てるそうだ。」
「それは…やだ。」どうがんばっても涙が止まらない。
けれどそう言ってもらえることが、なぜかひどく嬉しかった。
彼女が泣き疲れて眠りに落ちると、竜杜はそっと部屋の外に出た。音を立てないように後手に襖を閉める。
「聞いてたのか。」
「聞いてたわよ。」
腕組みをしたまま、鴨居を支える柱に軽く寄りかかっていた冴が応える。
「まさか二年分も溜め込んでたなんてね。」
長い溜息を吐き出し、身体を起こす。
「都の母親は…どうして亡くなったんだ?」
「事故よ。取材中の事故。都ちゃんが言ったとおり急な仕事だったみたい。もらってたスケジュールでは九州だったのに、連絡が来たのは北海道から。レンタカーで、目撃者もいないような場所だったし事件性も見つからないってことで、交通事故で一件落着。」
「俺に怒るなよ。」
「思い出すと今でも腹が立つの。納得が行かなかったのは都ちゃんだけじゃない。」
でも…と言葉を継ぐ。
「あたしには仕事があったから。仕事をしてる間はそんなこと考えなくて済むし、実際そんな余裕なんてなかった。ただ、都ちゃんのフォローしてあげられるだけの余裕もなかったのよね。」
「都はそういうあんたの様子、ちゃんと判ってたんだな。例の発作を起こしたのは?」
「朝子の告別式が終わった直後…だったかしらね。」
あ、と竜杜は思い出す。
「そういうことか。」
「何よ?」
「ただでさえ一人じゃどうにもできないから、せめて心配かけないようにするしかできない。それがどういう状況なのか判らなかったが…このことだったのか。」
「確かに救急車呼んで大変だったわよ。でもだからって、今更あたしに気ぃ遣ってどうすんのよ。」
「あくまで自己反省がないんだな。」
じろり、と冴は竜杜を睨め付ける。
「あんたみたいなずるい男に言われたくない!受け止めるってなによ。」
「説明する義務はない。大体ずるい、って何だ?」
「だってそうでしょう?」
冴は腰に手を当てると相手の正面に立った。
「恋も知らない、デートもしたことない女の子と婚姻の契約結んで、じゃあ付き合えなんて強引もいいところ。そんなの悪党以外の何者でもないじゃない!」
あのな…と竜杜は額を押さえる。
「あんた今までの話、ちゃんと聞いてたのか?」
「あたしは事実を述べただけ。」
「いちいち引っかかる言い方だな!付き合い始めたのは合意の上だ。それにもし都が俺と出会う前に誰かとそういう関係があったとしても、俺は同じ態度しか取らない。」
眼鏡の奥の瞳がすぅっと細くなる。
「随分と自信がおありね。」
「自信なんてあるか。ただ都が俺を受け入れてくれた。その上で傍にいてくれるなら、俺は彼女が飛ぶための支えになる。」
「それが交換条件ってわけ?」
「逆だ。そう思ったから、彼女の命を終わらせたくなかった。」
冴の表情が僅かに変わった。
「都は…自分の足で歩くことを知ってる。今はまだ立ち止まったり迷ったりしているけど、前に進もうとしてる。」
「だから、受け止める?」
そんなところだと、竜杜はそっけなく言う。
「あんたが信じようが信じまいが構わないが、事故みたいな出会いだったとしても、今はそれに感謝してる。」
ったく!と冴は舌打ちした。
「つくづく腹の立つ男だわ!よくもまぁ、そんなこと真正面から言えるわね。」
「言わせたのはあんただろ!」
「年上に向かってあんたってのはないでしょ!」
おや、とノンビリした声が割り込む。
「随分仲良くなったみたいだね。話し合いが進んだのかな?」
はぁ?と冴が早瀬を振り返った。
「この状況でそう言うか?」竜杜も眉間に皺を寄せるが、ふと気がついて窓の外を覗き込む。
「閉店時間はとっくに過ぎてるよ。片付けと…それから栄一郎さんに連絡しておいた。」
「済まない。」
「都ちゃんは?」
「泣き疲れて眠ったみたいです。このまましばらく休ませていただいてもよろしいでしょうか。」
構いませんよ、と言う早瀬に冴は頭を下げる。
「一旦戻って、連れて帰る支度をしてきます。」
それに、と冴は縁側の延長のような居間をぐるりと見回した。
「ここのほうが、マンションより気持ちよく眠れそうですわ。」
「古いのと地面が近いことだけが取り柄ですから。」
「戦前の建物をここまで手入れして使ってらっしゃるのは、思い入れがあるからなんでしょうね。」そこまで言って、そうか、と小さく呟く。
「どうかしましたか?」
問いかける早瀬に冴は「いいえ」と手を振った。




