第十話
制服姿の少女が飛び込んできた。
「都ちゃん?」
走ってきたのだろう。肩で呼吸を整える彼女に早瀬は驚く。
「竜杜さんは?」
「母屋にいるよ。それより…」
「中、通ってもいいですか?」
早瀬に喋る隙を与えず、都は店の奥の廊下をずんずんと歩いていった。裏口を抜け、車一台分ほど左に曲がって母屋の玄関に出る。
古めかしい呼び鈴を押すと、竜杜が現れた。
都の姿を見て、早瀬と同じように驚いた表情をする。
「冴さん、来たんですよね?」
参ったな、と呟く。
「どうしてそれ…」
「波多野くんに聞きました。」
「たく!大地のやろう…」竜杜は舌打ちする。
その頬が少し腫れているのに気付く。
「その傷、ひょっとして…」
「とりあえず中で話そう。」
詰め寄る都を、竜杜は家の中に招き入れた。
彼女がひとまず居間の長椅子に座ると、フェスがどこからともなく降りてきて膝に着地した。コギンよりも少し重たい堂々とした銀竜に、都は笑顔になる。
「ごめんね。今日はコギン留守番なの。」
ぎゃう、とつまらなそうに鳴く。
それでも都に甘えるように身体を摺り寄せるのを、そっとなでる。
「フェスは都が気に入ってるらしい。」
「フェスは…コギンより少しだけグレーなんだね。瞳はコギンより明るい色。」
「銀竜の個体差が判るようになったら相当だ。」
竜杜がマグカップの乗ったトレイを持ってきた。都の前にことりとカップを置き、自分も隣に腰を下ろす。
「ありがとう」と言ってカップを手に取ると、ほのかな花の香りがした。口含むとミントのような爽やかな香りと優しい甘みが広がる。ハーブティーのようなものだと判るが、今まで都が飲んだことのないものだった。
「美味しい…」
「母の作っているお茶だ。」
「お母様?じゃあ、向こうの?」まじまじとマグカップの中の液体を見つめる。
「毒は入ってないぞ。」
「そうじゃなくて、いい香り。」それにとても落ち着く。
「母が育てた花を使っている。」言いながら、手を伸ばして都の頬に指を触れる。
「顔色、少し悪いな。」
「ちょっと…寝不足。」
「笙子先生のところとはね。」
「たまたま会って…」
「栄一郎さんもいい人だろう。」
こくんと頷く。
「コギンのこと、すごく可愛がってる。」
ドラゴンシッターを頼んできたと言うと、優しく頷いた。
「笙子先生は共犯者だから、大丈夫だろう。」
「その…ごめんなさい。」
「都が謝ることじゃない。」
「でもその傷…冴さんなんでしょ?」
「大したことない。ただ、客の前にこの顔で出るわけに行かないから。」
都は手を伸ばして絆創膏に触れた。
「痛い?」
「もう痛くない。だからそんな顔するな。」
「だって…」
フェスが舞い上がり、椅子の背に止まった。
「都のせいじゃない。むしろ都を困らせてるのは俺だ。」
「違う!」と都は首を振る。
「わがままなのは冴さんだよ!」
「そんな言い方するな。彼女だって都を心配してるんだ。」
「でも冴さんはわたしの話…聞いてくれない。リュートが悪いって決め付けてる。」
「だが苦しめてるのは事実だ。俺が向こうの人間でなければ、都は悩むことも、こうして困ることもなかったはずだ。」
「そんなの…わたしには関係ない。どこの国の人だったとしても、リュートはリュートだから。それにリュートが向こうの人間だったから、わたしはこうして生きてるし、出会えた。」
違いますか?と真っ直ぐに竜杜を覗き込む。
その強い視線に彼のほうが観念した。
「そうだったな…」
不安はある。けれど受け止めると言ったのは自分だ。だから改めて契約して欲しいと伝えた時、彼女がこの手を捕まえてくれた時、嬉しいと心の底から思った。
捕まえた都にとっても、いまや彼は大切な存在に他ならない。だから竜杜を否定する冴に反抗してしまうのだ。
「わたしが、もっと大人だったらよかったのに…」
「自分を責めるな。」
そっと頭を抱き寄せられる。
都は目を閉じた。髪を撫でてくれる指先から、そして顔を埋めた肩から言葉にならない暖かさが伝わる。これが契約のせいなのか、恋愛感情なのか判らない。けれど竜杜が都を心から思ってくれているその気持ちは、十分すぎるほど都にはわかる。だから余計に、それを言葉にする術を知らないもどかしさが募るのだ。
広い背に腕をまわして、きゅっとしがみつく。
細い髪をなでてくれる手が暖かい。この大きくて暖かい手に、何度助けられたことだろう。暖かさと安心感で不安が少しずつ小さくなっていく気がする。
「本当だったら、俺が相手を説得しなきゃいけないんだが…どうもあの人は俺を見ると好戦的になるらしい。」
「冴さんは…強いから。そうやって自分で仕事、してきた人だから…」
「時間が必要なら、いくらでも待つ。だから、ちゃんと冴さんと話しておいで。」
「それでもだめって言われたら?」
「いいと言うまで待つ。」
「何年かかるか判らなくても?」
ああ、と言う声。
「本気で?」
思わず身体を起こした都に竜杜は笑いかける。
「言っただろう。契約に二度目はありえない。それに俺は都を諦めるつもりはない。都が俺を嫌だと言うまでは。」
「そんなこと…」言わない、と言いかけて都は息を呑む。
そっと目を閉じて、相手の唇を受け止めた。
いらっしゃい、と言ってから早瀬は手を止めた。
冴が頭を下げる。
「今朝は失礼しました。」
「少し…落ち着きましたか?」
都が来たことは言わず、席を勧める。
冴はカウンターの席に座ると肩越しに店を見回す。客の姿が少ないのは時間的なものか、曇天のせいか。
打ち合わせをしていたらしい二人連れの客が出て行き、早瀬がテーブルを片付けたところで冴は切り出した。
「お聞きしたいことがあります。」
「僕で答えられることなら。」
冴はバッグからそれを取り出した。
ごとり、とカウンターテーブルに置かれた物を見て、早瀬は息を呑む。
「それ…」
「ご存知ですよね。」
「あの写真を撮ってくれたカメラです。この店に初めて来たときに。」
「あの子は電話で壊れた、としか言っていませんでした。でもこれは落としたとかそんな壊れ方じゃない。」
冴はカメラを手にした。レンズは割れ、本体が歪んで背面のカバーが閉まらない。それにところどころへこんでいる箇所もある。
「一体、どういう状況だったんですか?あの子は死にかけたと言ってたけど…」
「僕もそこにいたわけでないので詳しくは知りません。竜杜が言うには黒き竜…これは僕らが呼んでいる名前ですけど…奴は都ちゃんの血を欲していたそうです。」
「それは…」
早瀬は返答に窮する。
「具体的に言ってくださって構いません。あの子の母親が事故で死んだ時も、ちゃんと遺体を見届けたんです。」
「そうですか」と言って、早瀬は大雑把に竜杜から聞いた状況を説明した。
それは決して気分がいいものではなかった。話しながら契約直後、車の後部座席で竜杜の膝に抱かれた都の、血の気のない姿を思い出す。
「僕らがそんなですから、本人も相当ショックだったんでしょう。その時のこと、彼女自身も記憶が曖昧みたいで。」
「それは…もし契約がなければ…あの子は…」
「今頃はこの世にいなかったでしょうね。」
「どうして…?」
もっともな質問だった。けれど早瀬は首を左右に振る。
「それは僕達にもわかりません。都ちゃんが何かしら向こうと関係があるのか、それとも偶然なのか…そういう話は…」
いいえ、と呟く声。
「朝子…あの子の母親は…彼女の父親のこと何も言わずに逝ったんです。今となっては何も判りません。」
「そうですか…」
早瀬は息を吐き出す。ややあって、
「すみません。」と言った。
「え?」
「本来門番は一族と関わるべきではない。それを破ったのは僕達の責任です。そのせいで随分と竜杜にも苦労をかけました。その上あなたや都ちゃんまで巻き込んでしまって、申し訳ありません。」
「そんな…それを言ったら、あの子を一人にしたあたしにも責任はあります。それに彼は最初、別の道を歩んでも構わないと言ったそうですね。」
「ええ。都ちゃんが嫌だと言えば、一生その前から消えると言ったそうです。」
冴は首をかしげる。
「それで、良かったんでしょうか?」
「というと?」
「だって彼なりの立場が…」
「そういう奴ですから。」そっと早瀬は微笑んだ。
「親の僕が言うのもなんですが、時々真っ直ぐすぎるというか…あの時は都ちゃんを縛りたくないと思っていたみたいですけど。」
「縛りたくない…」
早瀬は壁にかかっている写真に目を向ける。
冴もその視線を追った。
「都ちゃんの写真、僕は好きですよ。迷ってるようなものも多いけど、きっと思い切ることができたら、彼女らしさがもっと出るんでしょうね。ああ、コーヒー冷めちゃいましたね。」
淹れ直しましょう、と厨房に向かおうとして足を止めた。
冴も気づいてそちらに目を向ける。
都だった。
裏口に続く廊下で、カバンを手にして立ち尽くしている。その視線は冴を通り越して、カウンターテーブルに置かれたカメラに注がれていた。
一瞬遅れて入ってきた竜杜も気付く。
「どうして…それ…」都の声は聞き取れないほどかすれていた。
身体をこわばらせ、緊張する。
「真実を知らなきゃ、いいも悪いも言えないでしょ。」
しかし都にその声は届いていなかった。
ずっと意識の下に押し込んでいたものが蘇る。
あの時感じた恐怖。そして自分自身の血の匂い。そして…。
カバンが音を立てて足元に落ちた。
「都?」
すーっと血の気が引いていく。
忘れようとしていたことが蘇る。
「いやだ…」
指先が冷たくなって呼吸が上手くできない。それにみぞおちがひどく重い。
「いけない!」と、冴が慌てて駆け寄る。
その場に崩れそうになったのを、竜杜が抱き留めた。
カメラについては、前作「もうひとつの空」に書いております。




