第一話
「寝不足顔、珍しいじゃん。」
頭の上から声が降ってくる。
「夜更かし?」と、今度は下から声がする。
まるで音声多重だなと思いながら目をこする。あふ、と小さい欠伸をしてから焦点の合った目で友人を捉えた。
「夜更かしって言うか、終わらなかったって言うか…」
「文化祭終わったんだから、写真部ヒマでしょ?」
うーん、と考えながら木島都は首を傾ける。
「三年生が引退するから暇じゃないよ。それに終わらなかったのは片付け。」
「なんじゃ、それ?」
言ったのは頭の上。クラスで一番背の高い清水奈々だ。
ショートカットでボーイッシュ。クラスや所属する陸上部のみならず、上級生下級生の誰とでもすぐ会話が成立するのが特技。本人は大したことないと言うが、人見知り傾向の都には凄い!としか言いようがない。
「みやちゃんとこ、いつ行っても片付いてるじゃない。」
こちらは机の下からの声。
縦も横も都より一回り大きい樋坂いずみが、くりっとした瞳で都を見上げていた。少し癖のある髪はポニーテイルにまとめていて、合唱部でピアノを大胆に弾く綺麗な指は、机の端にちょこんと乗せられている。
「昨日ダンボールが届いたから。」
「ダンボール?」
「冴さんの荷物。」
ああ、と二人は納得する。
「保護者さん、帰ってくるんだ。」
都は頷いて、ようやく肩に届いた茶色がかった細い髪をそっと跳ね除ける。肌が白いのは七難隠してくれるかもしれないが、低い背に似合った控え目なプロポーションはどうしようもない。加えて文化部ど真ん中の写真部を選ぶほど運動神経に恵まれていないのも周知の事実。それにどういうわけかドジっ子の称号をもらえそうなほど転んだり怪我が多いので、次に出てきた友人の言葉も素直に受け止めた。
「ダンボールで怪我しなかった?」
「重いもん無理に持ってギックリ腰なんて、やだよ。」
「動かせないのはそのままにしてあるもん。でも指定時間が夜だったから…」受け取りと部屋に押し込めるだけで、結構な時間を費やしたのだと説明する。
「でも良かったじゃん。」
「一人だと不安なことあるって言ってたもんね。」
「あー、うん。」と都は曖昧な返事をする。
都の保護者が単身赴任で海外に出向いたのは今年の初めだった。さして時差もないアジア地域なので帰ってこようと思えば帰れるはず…だったのだが、思った以上に手間取る仕事だったらしく、一度も戻らなかったのだ。都とてすでに高校生だし、亡くなった母親が留守をすることが多かったので、留守番も自分の面倒を見るのも大丈夫だと思っていた。
途中までは。
それが一転したのは二年生に進級した春の頃。
ある日突然「黒き竜」と呼ぶものに襲われたのである。それは遥か昔、異世界からこちらの世界に追放され封じられた凶暴な竜の「気」で、それが長い年月をかけて復活し、どういうわけか都に目をつけたのだ。
一度目と二度目は無事だったが三度目にそれと対峙した時、都は命を落とす寸前の深手を負った。否。本当ならば今頃この世にいなかっただろう。
その命を繋いでくれたのが早瀬竜杜…現在進行形で都が「お付き合い」している相手である。
短めの黒髪に漆黒の瞳、それに整った顔立ちは時に日本人らしからぬ印象も与える。都より九つ上の二十五歳。背が高く、都と並ぶと随分な身長差が生じてしまう。今でこそ少し低い声で名前を呼ばれると、嬉しいようなくすぐったいような気持ちになるが、最初の印象は良くなかった。
初めて出会ったのは一度目に襲われた時。助けてくれた…と理解したものの、女ばかりの家庭で育ち男子が苦手な都には怖い印象だった。そして二度目に助けられた時、改めて向き合った彼に不思議な違和感を感じた。それは時折口にする意味ありげな言葉と、そっけない態度、その時はまだ長く束ねていた髪のせいもあったのかもしれない。その違和感の正体を知ったのは三度目に助けられた時。
今にも消えそうだった都の命を繋ぐために、自分の強靭な力を都に与えるべく彼は一族の「契約」を行ったのだ。それは竜と共存する「一族」がお互いの能力を支えあい、生涯添い遂げるための神聖で絶対的な婚姻の契約。本来は一族同士で交わされる契約が、どうして成立したのか判らない。そもそもなぜ都が襲われたのかも未だに判らないのだから、詮索のしようもない。
けれどそのおかげで都は一命を取りとめ、同時に早瀬竜杜がリュート・ハヤセ・ラグレスの名を持つ異世界の人間であることを知る。
その世界で人は地上に、そして空には竜が住んでいて、その二つの種族の間にいるのが「一族」と呼ばれる人々だと言う。人でありながら竜と意志を通わせ、背に乗って空を飛ぶことができる。その特殊能力ゆえ、警備や情報収集の手立てとして軍に重用されることが多い。竜杜もそこに属していて、こちらに来たのは黒き竜の動きを知るためだった。それがやがて封じる命令に変わり、けれど四度目に黒き竜を自分の身体に宿した男と対峙した時、結果として封印することができず逃がしてしまったのは、都もその目で見ている。
「そもそも封じる手段だって正確かどうか怪しかったんだから…」
むしろ二人が無事で良かった、と言ったのは竜杜の父だった。
「というか…一人でどうにかできるものなんですか?」
実体でないにしても…むしろその不安定さと襲われた時の力を思い出せば、人一人とそれを支える小さな竜一匹の力でどうにかなるとは考えにくい。
「そう言っても、門を使うことができる人間は限られる。その上こっちで暮らすとなれば、他にいないから仕方ない。」
「でも…」と、言いよどむ都に、竜杜は自分という存在がいかに特殊かを説明する。
「門」とは二つの世界を繋ぐ通路のようなもの。誰が何のために作り、いつの時代から存在するのか判らない。ただ言い伝えでは世界が混沌とし、神がそこにあらゆる物を創り出した頃から、それは存在していたと言う。その後長く不通だった時代があり、そのため「向こうの世界」でも存在が忘れられていたらしい。それでも門は存在し続け、こちらの世界で「門番」と呼ばれる一族によって守られていた。
その門番の末裔が早瀬加津杜…竜杜の父である。
その父と、竜を繰る一族の末端に名を連ねていたエミリア・ラグレスが結ばれ、生まれたのが竜杜である。ラグレス家の若き当主と門番の末裔がどういう経緯で出会ったかは聞き出せないでいるが、一族にとって大変な出来事だったのは竜杜の口ぶりで伝わった。
「本来は交わることのない世界だから。そういう契約は、記録が残ってる限りでは初めてだったらしい。そもそも門が実在すると知っている人は、一族の中でもわずかしかいない。」
それゆえ、向こうの世界で父親は「他国の出身」と公表しているのだと言う。幸い辺境には国交のない小さい国もあるので、それで十分通じると言うのだ。
「まぁ、言語と文化の違いを考えたら国際結婚と大差ないしね。」とは当事者である早瀬の弁。
「そんなものなんですか?」
「そんなものだろう。」と竜杜も同意する。
「祖父が生きてた頃は時々こちらに来てたが、見るもの聞くもの珍しくて飽きなかった。最低限の生活習慣と文字は父親に教わってたから困ることもなかったが…でもそんな人材は他にいないし、だから直々に辞令が下ったんだろう。」
それ程、一族であり門番であることは特殊なのだと言う。
だから早瀬竜杜もリュート・ハヤセ・ラグレスも本名だと言われても、すぐに納得できるものではなかった。
そもそも「契約」の意味を説明された時に思ったのは困惑。恋愛経験のない自分が誰かと婚姻関係を結ぶなど、ありえないと思った。それに竜杜も無理に関係を迫ることをしなかったのは、都を慮ってのことだったのだろう。
そんな都への気遣いに思い当たるうち、そして言葉を交わすうちに都の中に彼への興味が芽生えてきた。それはいつしか竜で空を飛ぶことへの憧れ、そして好奇心へと転じていく。
彼が「同胞」と呼ぶ竜と共に見てきた空。都が知らない空を見てみたい。
その気持ちを知った上で、改めて「契約して欲しい」と申し込まれたのが一月ほど前のこと。
「お付き合いからでいいですか?」と承諾して現在に至るのだが、その後文化祭やら保護者の帰還問題が出てきたので、この関係は友人にも打ち明けていない。
それどころか保護者にメールは入れたものの、そこに至った経緯はまったく説明していないのだ。もちろん説明すればいいのだが、都が死にかけたとか、異世界などという話を信用してくれるだろうか?
そう考えるとひどく気が重い。
どうしようと思いながら、都は溜息をついた。
アルラの門、2作目のアップ(ようやく・・・)です。これもまだ物語の始まり部分に過ぎませんが、お付き合いいただければ幸いです。