「母上が寂しがるから」が口癖の婚約者に捨てられましたが、その母上である王妃様と私はとっくに手を組んでおります ~殿下、その言い訳はもう通じません~
「また『母上が寂しがるから』ですって?」
冬の終わりの、まだ風の冷たい午後。
侯爵家の庭の東屋で、私は手紙に向かって叫んだ。
白いテーブルクロスの上には、二人分の茶器。焼きたての胡桃の焼き菓子。殿下のお好きな、少し濃いめの紅茶。
そして、向かいの椅子は、今日も空っぽのままだった。
「これで何度目だとお思いですの、殿下……三十四回目のドタキャンですわよ、三十四回目!」
手紙の文面は、いつもと一字一句同じだった。
『母上が寂しがるから、今日は行けない。また今度。アルベルト』
「また今度、って。その『今度』が来たためしがありませんわよね? 先月の誕生日も、新年の夜会のエスコートも、母上、母上、母上! いったいどれほどのマザコンでいらっしゃるのかしら!」
「お嬢様、お声が……」
侍女のアンナが、困った顔で茶器を下げに来た。
「いいのよ、アンナ。どうせ誰も聞いていないんだもの。聞いてほしい方は、今ごろ王妃様のところですものね!」
そう言ってから、胸の奥がちくりと痛んだ。
本当は、わかっている。
十二の歳に婚約してから六年、殿下が私の顔をまっすぐ見てくれたことは、数えるほどしかない。
王太子妃教育では、礼法の先生には毎回同じことを注意される。
「クラリス様、もう少し言葉をお慎みなさいませ。穏やかで落ち着いた女性が、王太子妃にふさわしいのですから」
思ったことが全部顔にも口にも出てしまう私は、殿下にとって、きっと疲れる婚約者なのだ。
だから、殿下が母上のもとへ逃げたくなる気持ちも、少しはわかる。
……わかる、けれど。
「三十四回ドタキャンは、さすがに多すぎますわよね……」
焼き菓子を一つつまんで、かじる。
亡くなったお母様の配合帳どおりに焼いた、いちばん得意な焼き菓子だ。甘いはずなのに、なんだか塩辛い気がした。
「……ねえ、アンナ。王妃様は、そんなにお寂しいのかしら」
アンナが、目をぱちぱちさせた。
「殿下が毎回駆けつけなければならないほど、お寂しいのでしょう? 陛下は政務と遠征でお忙しいし、王妃様の私室は、いつも静かだと聞きますわ」
私は、手紙をたたんで、ぱんと膝を打った。
「……決めましたわ」
「お、お嬢様?」
「殿下が『母上が寂しがるから』とおっしゃるのでしたら、わたくしが王妃様をお慰めいたしますわ! そう、今から!」
「い、今からですか!? お、お嬢様お待ちください、お嬢様~!」
アンナの悲鳴を聞きながら、私はもう、テーブルの焼き菓子を籠に詰め始めていた。
殿下のために焼いた焼き菓子だ。食べてもらえないなら、殿下のお母様に食べていただこう。
その日の夕方、私は焼き菓子の籠を抱えて、王妃様の私室の前に立っていた。
扉を前にした途端、身体が少し震える。
王妃マルガレーテ様。厳しく、近寄りがたい方だと、社交界では有名だ。
王家の婚約に、王妃様の許しを求める決まりがあるわけではない。
けれど昔から、王太子妃になる娘は王妃様に後見され、礼法も、儀式の作法も、王家の帳簿の付け方まで、一から叩きこまれる慣わしがある。
昔、王妃様との仲がこじれた王太子妃候補が、教育の途中で泣きながら婚約を解いた話は、誰もが知っている。
王妃様に認められない娘は、王太子妃にはなれない。
王宮では、誰もが当たり前にそう思っている。
その王妃様のお部屋に、お約束もなく、焼き菓子を持って押しかけている。
「……わたくし、何をしているのかしら」
籠を抱える手が、じっとりと汗ばんでいた。
それでも、扉を叩いた。
「……どなた」
中から、低く落ち着いた声がした。
侍女頭のエルザ様に通された私室は、驚くほどしんとしていた。
窓辺の長椅子に、王妃様が一人で座っていた。
銀色の混じった髪をきっちりと結い上げて、手もとには刺繍の枠。
テーブルの上の茶器は一人分で、紅茶はすっかり冷めていた。
「ローゼンベルク侯爵家の、クラリスでございます」
私は、礼法の先生に叩きこまれたとおりの角度で、深く頭を下げた。
「何の用かしら」
王妃様の目は、冷たかった。
「あ、あの、殿下が……アルベルト殿下が、今日も『母上が寂しがるから』とおっしゃるので、それで、あの、殿下は……もうお帰りに? いえ、それより、王妃様がお寂しいなら、殿下だけでなくわたくしも何か、その、何かできればと……」
緊張で、言葉が勝手に転がり出ていく。
王妃様は、刺繍の針を止めた。
「あの子は、今日も来ていないわ……いいえ、もう半年も、あの子とは二人きりで顔を合わせていないわ」
息が、止まった。
「……え?」
「ときどき手紙は来るわ。『クラリスとの約束があるので、伺えません』とね……」
王妃様は、冷めた紅茶に目を落とした。
頭の中で、何かが、かちりと噛み合った。
私には「母上が寂しがるから」、王妃様には「クラリスとの約束があるので」。
殿下は、私たち二人を、互いの言い訳に使っていたのだ。
「……では、殿下は、どちらに」
「さあ。私には、わからないわ」
王妃様の横顔が、ほんの一瞬だけ、ひどく寂しそうに見えた。
その顔を見た瞬間、私の中で何かがぷつんと切れた。
「信じられませんわ!」
叫んでいた。
「三十四回ですのよ、三十四回! 母上が寂しがるから、母上が寂しがるから、って、毎回毎回! それなのに、本当は一度もいらしていないなんて! しかも王妃様には、わたくしを言い訳にしていらしたなんて……。王妃様をだしにして、わたくしもだしにして、いったいどこで何をしていらっしゃるのかしら、あの方! だいたい殿下は、昔から約束を守らないうえに、言い訳だけはお上手で、わたくしの誕生日だって――」
そこまで言って、私は、はっと口を押さえた。
目の前にいるのは、殿下のお母様だ。
血の気が、さあっと引いていった。
「あっ……わたくし、また……申し訳ございません、王妃様の前で、殿下の悪口を……! あの、今のは、その、言葉の綾というか、いえ、綾ではないのですけれど……」
しどろもどろの私を、王妃様はしばらく黙って見ていた。
それから。
「……ふ」
王妃様の肩が、小さく揺れた。
「ふふ、ふふふっ……」
声を立てて、笑っていた。
扉の脇で控えていた侍女頭のエルザ様が、目を丸くしている。
「エルザ。私、笑ったのは何年ぶりかしら」
「……少なくとも、私がお仕えしてからは初めてでございます、王妃様」
王妃様は、目尻の涙を指で拭った。
「クラリス、と言ったわね」
「は、はい」
「あの子が『母上が寂しがるから』と言った日には、またここへ来なさい。お茶を淹れさせておくわ。……あの子には、言わなくていいわ。自分で来れば、わかることだもの」
王妃様は、冷めた紅茶の器を脇へ寄せた。
それから私は、殿下から「母上が寂しがるから」と、嘘の言い訳が書かれた手紙が届くたびに、王妃様のお部屋へ通うようになった。
つまり……ほとんど毎週だ。
「王妃様、今日は林檎のタルトですわ! わたくしが焼きましたの。少し焦げましたけれど、焦げたところがいちばん美味しいって、うちの料理番が申しておりましたの!」
「それは、料理番があなたを慰めたのではなくて?」
「えっ……そうなのかしら……そうかもしれません」
王妃様が、くすくすと笑う。
最初のうちはぎこちなかったお茶の時間が、いつの間にか、私にとって一週間でいちばん待ち遠しい時間になっていた。
王妃様は、刺繍が驚くほどお上手だった。
私が三日かけて一輪の薔薇を縫うあいだに、王妃様は庭ひとつぶんを縫い上げてしまう。
「わたくし、どうしても糸がもつれてしまうのですわ。針が言うことを聞いてくださらなくて……」
「針に話しかけるのをやめたら、少しは聞いてくれるかもしれないわね」
「まあ、聞こえておりました?」
「全部ね」
王妃様は、若い頃の話もしてくださった。
先代の王妃様、つまりご自分のお姑様に、礼法の教育で毎日のように叱られたこと。
泣きながら、夜中に一人で刺繍をしていたこと。
「お姑様は、厳しい方だったわ。でも、最後に一度だけ、私の刺繍を褒めてくださったの。それだけで、全部報われた気がしたわ」
「……王妃様」
「だから私も、王太子妃になる娘には、厳しくしなければと思ってきた。でも、前の候補の娘を泣かせてしまってから、怖くなったの。それからは、後見の名前だけは引き受けて、教育は先生方に任せることにした。私は、顔も出さずにね」
王妃様は、針を持つ手を止めた。
「あの子も、だんだん寄りつかなくなって。この半年は、とうとう一度もね。厳しい母のところより、甘やかしてくれる場所のほうがいいのでしょう。……あの子は昔から、最後には私が折れると思っているのよ」
その横顔を見ていたら、私まで胸が苦しくなった。
六年も婚約者でいながら、私が王妃様のお顔を遠くからしか知らなかったのは、そういうことだったのだ。
「王妃様。わたくし、母を小さい頃に亡くしておりますの」
口が、勝手に話し始めていた。
「だから、母親とお茶をするって、どういうことなのか、知らなかったのです。父は優しいけれど、お仕事で家を空けがちで。母の遺した配合帳を見ながら一人で焼き菓子を焼くのが、ずっと、母と話している代わりみたいなものでしたの。……王妃様とこうしてお茶をしていると、わたくし、ああ、こういうことだったのかしらって」
声が、震えた。
「こんなふうに、どうでもいいことをたくさんしゃべって、笑ってもらえて、焦げたタルトを食べてもらえて。……それが、こんなにうれしいことだったなんて」
目の前が、ぼやけた。
「あ、あら、やだ、わたくし、泣くつもりなんて、なかったのですけれど……!」
しゃべりながら泣く私の頬に、王妃様の指が、そっと触れた。
刺繍で少しだけ固くなった、温かい指だった。
「あなたのお母様の代わりには、なれないけれど……お茶の相手くらいなら、いつでもしてあげるわ」
私は、とうとう声を上げて泣いてしまった。
泣きながら、まだしゃべっていた。
王妃様は、困ったように笑いながら、ずっと頷いてくださっていた。
お茶の時間に、もう一人、顔を出す人物がいた。
「母上。今週のお花です」
春の初めのある日、扉から入ってきたのは、第二王子のルートヴィヒ殿下だった。
二十歳。本がお好きで、口数が少なくて、いつも穏やかに笑っている方だ。
両腕に、黄色いクロッカスの鉢を抱えている。
「まあ、ルートヴィヒ殿下。ごきげんよう! 毎週いらしていますの?」
「ええ。母上が花をお好きなので」
「この子はいつも、朝のうちに花だけ置いて、すぐ書庫へ戻ってしまうのよ。今日は、ずいぶんゆっくりなのね」
王妃様の言葉に、ルートヴィヒ殿下は少しだけ目をそらした。
「アルベルト殿下は、半年も来ていらっしゃらないのに。ルートヴィヒ殿下は、毎週! わたくし、殿下のこと、少し誤解しておりましたわ。物静かで、何を考えていらっしゃるかわからない方だと――あっ」
また、やってしまった。
「……いえ、その、悪い意味ではなく……!」
ルートヴィヒ殿下は、一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。
「クラリス嬢は、母上の前だと、ずいぶんよくおしゃべりになるんですね」
「えっ……あの、いつもこうなのですわ。礼法の先生には、毎回叱られておりますの」
「そうですか」
ルートヴィヒ殿下は、鉢の向きを直しながら、ぽつりと言った。
「私は、好きですけれど。あなたの話を聞いていると、母上がよく笑いますから」
顔が、かっと熱くなった。
王妃様が、刺繍の枠の陰で、なぜか楽しそうに目を細めていた。
その日の帰り、ルートヴィヒ殿下は、王宮の回廊を馬車寄せまで送ってくださった。
「どうして、毎週お花を?」
歩きながら尋ねると、殿下は少し考えてから答えた。
「母上は、ああ見えて、本当は寂しがり屋なんです。でも、自分からは誰にも言えない人なのですよ」
「……殿下は、ちゃんとわかっていらしたのですね」
「兄上が言い訳に使っている言葉は、本当のことなんですよ。母上は、本当に寂しがっている」
殿下は、回廊の窓から、王妃様の私室のほうを振り返った。
「だから、あなたが来てくださるようになって、うれしいんです。母上も。……私も」
最後の一言が、とても小さかった。
馬車に乗りこんでから、私は籠を抱えたまま、ずっと胸を押さえていた。
心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
夏の園遊会で、私は、殿下の本当の行き先を知った。
王宮の庭の噴水のそばで、アルベルト殿下が、一人の令嬢の腰に手を回して笑っていた。
男爵令嬢のベティーナ様だ。
甘い蜂蜜色の巻き毛に、胸もとには大粒の真珠の首飾り。
殿下は、私に気づくと、面倒くさそうに眉を寄せた。
「ああ、いたのか。クラリス」
それだけ言って、背を向けた。
殿下が背を向けたすきに、ベティーナ様が一歩近づいて、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「殿下ったら、あなたには『母上が寂しがるから』とお書きになって、毎週わたくしのところへいらっしゃるの。……次の王妃様は、誰かしらね?」
握りしめた扇の骨が、きしりと鳴った。
「これも、殿下にいただきましたの」
ベティーナ様が、見せつけるように、首飾りの留め金を指でなぞった。
「まあ、ずいぶんご立派な真珠ですこと。殿下ったら、わたくしの誕生日には花一輪くださらなかったのに、そちらには――」
言いかけて、私は口を閉じた。
真珠の留め金に、小さな百合の紋が刻まれていた。
王妃宮の御用達の宝石商だけが使う紋だ。
王太子妃教育で、王家の帳簿の付け方は、先生方に嫌というほど叩きこまれている。
王妃宮御用達の品は、必ず王妃宮の帳簿を通して払い出される。
「……王妃様。王妃宮の帳簿を、見せていただけませんか」
次のお茶の日、ちょうど花を届けに来ていたルートヴィヒ殿下もいる前で、私は焼き菓子より先に、そう切り出した。
「ええ、いいわよ、でも急にどうしたの?」
「少し、気になることがあって……」
帳簿を一行ずつ追っていく。私の指が、ある行で止まった。
「王妃殿下ご用命。真珠の首飾り。……王妃殿下ご用命。紅玉の耳飾り。……象牙の扇」
読み上げる自分の声が、一行ごとに小さくなっていった。
横から覗きこんだルートヴィヒ殿下が、低く言った。
「払い出しの署名は、すべて兄上の名前です」
「私は、一つも頼んでいないし、受け取ってもいないわ。帳簿は、もう何年も家令に任せきりにしていたから……気づきもしなかった」
王妃様の声は、淡々としていた。淡々としすぎて、怖いくらいだった。
「……つまり、殿下は、王妃様のお名前で、王妃様のお金を使って、ベティーナ様に贈り物を?」
声が、震えた。
怒りで、指先が冷たくなっていく。
「ひどい。ひどすぎますわ。王妃様の寂しさを言い訳にして、王妃様のお金で、ほかの女性に首飾りを!」
椅子が、がたんと鳴った。立ち上がっていた。
王妃様が、そっと私の手を取った。
「座りなさい、クラリス。あなたが怒ってくれたから、私は怒らずに済んだわ」
その手が、かすかに震えていた。
それから私は、自分の手帳と、侍女頭のエルザ様がつけている王妃様の私室の来客簿を並べた。
私が手帳につけた、殿下に約束を断られた日。
最初の三十四日には、来客簿のどこにも殿下の名前がなかった。
そして、私がこの部屋へ通い始めてからの日には、殿下の名前の代わりに、毎回私の名前が書かれていた。
「兄上が、秋の夜会で何か発表するつもりのようです」
ルートヴィヒ殿下が、静かに告げた。
王妃様は、長いあいだ来客簿を見つめていた。
「あの子が、自分からこの部屋へ来るのを、もう少しだけ待つわ」
ぱたん、と帳面を閉じる。
「来なければ――持っていきましょう」
殿下は、最後まで来なかった。
秋の夜会の夜。
王宮の大広間で、アルベルト殿下は満座の前に立ち、高らかに宣言した。
「クラリス・ローゼンベルク! お前との婚約を、ここで破棄する!」
隣には、真珠の首飾りをつけたベティーナ様が、殿下の腕にすがっている。
「お前は、ベティーナを何度も呼び出して、ひどい言葉で責め立てた! 三月四日、四月十日、五月二日、六月七日……! ベティーナが、日付まで覚えている!」
広間が、ざわりと揺れた。
最前列で、父が青ざめた顔で立ち上がりかけた。
その父の肩に、いつの間にか隣へ来ていたルートヴィヒ殿下が、そっと手を置いた。
「そして、母上も」
殿下は、玉座の脇に座る王妃様のほうを振り返った。
「母上も、きっとベティーナを後見してくださるはずだ。私が選んだ娘なのだから。そうでしょう、母上?」
広間じゅうの目が、王妃様に集まった。
誰もが息をつめて、王妃様の唇を見つめていた。
私は、扇を握りしめた。手のひらに、汗がにじむ。
でも、もう、怖くはなかった。
「三月四日、四月十日、五月二日、六月七日、ですって?」
今度は、自分で口を開いた。
「殿下。その日はすべて、殿下が『母上が寂しがるから』と、わたくしとのお約束を断った日ですわ。わたくしが一人きりで家にいると思って、その日をお選びになったのでしょう?」
殿下の顔が、ぴくりと引きつった。
「残念でしたわね。三月四日、わたくしは王妃様のお部屋で、焦げた林檎のタルトをお出ししておりました。四月十日は王妃様と刺繍をして、わたくしの薔薇がまたもつれて、王妃様が三回もほどいてくださいましたの。五月二日は、ルートヴィヒ殿下が持ってきてくださった鈴蘭を、一緒に活けましたわ。六月七日は――」
「でたらめだ!」
殿下が、顔を真っ赤にして叫んだ。
「そんなもの、お前が勝手に言っているだけだろう! その日なら、私こそ母上のもとに――」
言いかけて、殿下は口をつぐんだ。
「いなかったわね、アルベルト」
静かな声が、広間に落ちた。
王妃様が、ゆっくりと立ち上がっていた。
手には、一冊の帳面。
侍女頭のエルザ様がつけてきた、王妃様の私室の来客簿だった。
「三月四日。四月十日。五月二日。六月七日」
王妃様は、来客簿を開いたまま、一つずつ読み上げた。
「どの日も、クラリスは私の部屋にいたわ。昼過ぎから、日が暮れるまでね。帰りは、私の馬車で送らせたわ」
殿下の顔から、血の気が引いていった。
「それから、アルベルト」
王妃様は、来客簿の頁をめくった。
「あなたが、クラリスとの約束を、私が寂しがるからと断った日。三十四日……いいえ、今日までで六十日あまり。そのどの日にも、あなたの名前は、この来客簿にないわ」
広間が、しんと静まり返った。
「あなたは、もう一年以上、一度も私の部屋に来ていない。私には、『クラリスとの約束があるので』と手紙をよこしながら」
「は、母上、それは……誤解です、私は……」
「誤解?」
王妃様は、今度はベティーナ様の胸もとに目を向けた。
「その真珠の首飾り。留め金に、私の宝石商の百合の紋があるわね。王妃宮の帳簿に、私の注文として計上されている品よ。払い出しの署名は、あなた」
ベティーナ様が、ひっと息をのんで、首飾りを両手で隠した。
「私は、頼んだ覚えも、受け取った覚えもないけれど」
ざわめきが、小さく、それから大きく広がっていった。
「王妃様のご注文と偽って……?」
「母君のお名前で、ほかの女に……」
殿下の唇が、わなわなと震えていた。
「母上……母上、待ってください、私は、母上のことを思って……」
「母上が寂しがるから、ですって?」
王妃様の声が、ほんの少しだけ、かすれた。
「ええ、寂しかったわ。あなたが、一度も私に会いに来なかったからよ」
殿下が、言葉を失って立ち尽くした。
王妃様の背中が、いつもより小さく見えた。私は、思わず胸を押さえていた。
「母上……」
殿下が、すがるように王妃様を見上げた。
「母上は、私の味方でしょう……? 最後には、いつも折れてくださったじゃないですか。ベティーナを、後見して……」
「いいえ。私は、ベティーナ嬢を後見しません」
王妃様は、きっぱりと言った。
「あなたが選ぶ、どの娘の後見もしないわ」
広間の空気が、凍りついた。
王妃様に後見されない婚約は、王宮では、ないのと同じだ。
そして、王妃様に後見される妃を持てない王太子もまた。
「アルベルト」
玉座から、国王陛下の低い声が落ちた。
「母の名を騙り、王妃宮の金を私的な贈り物に流した。……そのうえ王妃の後見も得られぬとあっては、王太子は務まらぬ。そなたには、王太子の位を退いてもらう。流した金は、そなたの手当から一枚残らず返させる」
陛下は、一度だけ目を閉じた。
「王太子の位は、ルートヴィヒに」
殿下の膝が、床に落ちた。
陛下は、ベティーナ様にも目を向けた。
「ベティーナ嬢。アルベルトから受け取った品は、すべて王妃宮へ返上せよ。今後、王宮への出入りは控えてもらう」
ベティーナ様は、首飾りの留め金を外そうとした。
指先が震えて留め金が外れず、引っぱった拍子に、糸がぷつりと切れた。
真珠が、床の上でころころと転がっていく。
ルートヴィヒ殿下が黙って膝をつき、一粒ずつ拾い集めて、王妃様の手のひらに載せた。
王妃様は、それから私のほうを向いた。
「クラリスの次の婚約は、私が責任をもつわ。この子の人生を台無しにした、不出来な息子の代わりにね」
広間のどこかで、誰かが小さく息をのんだ。
最前列の父が、王妃様に向かって、深く頭を下げるのが見えた。
私は、床にへたりこんだ元王太子殿下の前に、一歩だけ進み出た。
言いたいことは、山ほどあった。でも、全部は言わないことにした。
「殿下。あなたの『母上』は、もう、あなたの言い訳を信じておりません……今度からは、本当のことをお伝えすることをお勧めしますわ」
一度だけ、息を整えた。
「王妃様は、ずっと、あなたが来るのを待っていらしたのですよ」
殿下は、何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
私は踵を返して、王妃様のもとへ歩いていった。
歩きながら、涙がぽろぽろこぼれてきて止まらなかった。
「王妃様、わたくし、王妃様にお礼を申し上げたくて、ずっと、でも、言葉が多すぎて、どれから申し上げたらいいのか……」
「クラリス、落ち着いて。私はどこにも行かないわ」
王妃様が、私の頬をそっと拭った。
「今日は、あなたの話をたくさん聞いてあげるわ」
秋の終わり、王妃様のお部屋で、いつものお茶の時間。
テーブルの上には、三人分の茶器が並んでいた。
「今日は、栗の焼き菓子です! 今度は、焦がしておりませんのよ! ……ほんの、少ししか」
「ほんの少し、焦げているのね」
「王妃様、そこは聞き流してくださいませ……!」
それから私は、膝の上の刺繍の枠を、おそるおそる差し出した。
一輪の薔薇。
初めて、一度も糸をもつれさせずに縫い上げた薔薇だった。
王妃様は、それをしばらく黙って眺めていた。
「上手になったわね」
たった一言だった。
それだけで、胸の奥が、じんと熱くなった。
王妃様が、お姑様からもらったという、たった一度の言葉。
今度は、王妃様が私にくださったのだ。
扉が開いて、ルートヴィヒ殿下が入ってきた。
今日の花は、深い赤の薔薇だった。
でも、殿下は、いつものように花瓶へは向かわなかった。
私の前に立って、ひどくぎこちなく、薔薇の束を差し出した。
「クラリス嬢。母上が寂しがるので、これからも……」
そこで殿下は、首を横に振った。
その耳は、薔薇と同じように真っ赤に染まっていた。
「……いいえ。私が、寂しいので、これからも、一緒にいてくださいませんか……私の、婚約者として」
頭の中が、真っ白になった。
いつもなら、何かしらしゃべっている。
うれしいときも、驚いたときも、口が勝手に動く。
なのに、今は、何も出てこなかった。
胸がいっぱいで、喉が詰まって、言葉が一つも出てこない。
「ふふ、やっと言えたのね、ルートヴィヒ」
王妃様が、刺繍の枠を膝に置いて笑った。
「この子、夜会のあとから、花を持ってくるたびに言いそびれていたのよ」
「は、母上……!」
ルートヴィヒ殿下の耳が、さらに赤くなった。
私は、泣きながら笑ってしまった。
ようやく、言葉が戻ってきた。
「……はい。喜んで! 焦がさない焼き菓子を持って、毎日でもまいりますわ!」
薔薇の束を受け取って、私は王妃様のほうを向いた。
ずっと、言ってみたかった言葉があった。
「王妃様、改めて……。これからも、よろしくお願いいたします」
息を吸う。声が、少しだけ震えた。
「……お義母様!」
王妃様は、目を細めて、私の頬にそっと手を当てた。
刺繍で少しだけ固くなった、温かい手だった。
「ええ。いつでもいらっしゃい、私のかわいい娘!」
【終】




