自伝小説 氷点下のアンビエント Part3
一話完結の短編になります。
Hは、いつも少しだけ得意げにものを知っている同級生の男子だった。
別に嫌な感じではない。
ただ、百科事典に感情が生えたらこうなるんだろうな、という種類の男子だった。
中学二年の初夏、蒸し暑い放課後の教室で、Hは私に言った。
「シンセサイザーって、理論上はどんな音でも出せるんだよ」
彼は牛乳を飲みながら、まるで「今日は雨が降るらしいよ」くらいの気軽さでそう言った。
私はその瞬間、自分の未来を見た。
TN NETWORK のような都会的サウンド。
B'乙 のような圧倒的存在感。
そして何より、女子からの人気。
そこが重要だった。
中二男子の夢というのは、だいたい最後は女子人気へ着地するようにできている。
その夜、私は母の鏡台の前に立った。
顎を少し引く。
目線を斜め下へ。
アンニュイな感じ。
売れ始めたアーティスト特有の「世間にまだ心を開いてません」感。
何度も角度を変えて試した。
途中で母が入ってきて、
「あんた何やってんの」
と真顔で言った。
私は「別に」とだけ答えた。
思春期の男子は、自分の夢について説明する能力が著しく低い。
数週間後、私は親に頼み込み、PC-9801 用の音楽制作セットを買ってもらった。
多少の罪悪感はあった。
でも私は、
「芸術っていうのは、最初は周囲の理解を得られないものだから」
という、どこで覚えたのかわからない理論で自分を納得させた。
たぶん雑誌かなにかの受け売りだったと思う。
毎晩、私はコンピューターに向かった。
作曲理論は知らなかった。
コードもわからなかった。
シンセの仕組みも理解していなかった。
でも、自信だけは驚くほどあった。
思春期の自信って、不思議だ。
能力とはほとんど関係なく発生する。
しかも大量に。
私はフレーズを作っては並べ、並べてはうっとりした。
「これは売れる」
まだ誰にも聴かせていない段階で、私はすでに紅白出場後のコメントまで考えていた。
だが、問題が起きた。
タイムトゥコメットダウン のギターの音が、どうしても出ないのだ。
私は焦った。
ツマミを回す。
波形を変える。
エフェクトをかける。
でも違う。
どう頑張っても、
「近未来」
ではなく、
「町内会の夏祭り」
みたいな音になる。
レディーナビネーション のドラムも駄目だった。
こっちはもう、
「空き缶を蹴飛ばした音」
にかなり近かった。
私は混乱した。
「どんな音でも出せる」はずではなかったのか。
それから私は毎晩、深夜までシンセと格闘した。
女子にモテる未来を信じて。
でも現実には、クラスの女子と目が合うだけで緊張していた。
むしろ、
「消しゴム貸して」
と言われただけで、
「あれ、この子おれのこと好きなのかな」
と数日悩むタイプだった。
中二男子とは、そういう生き物である。
ある日の帰り道、私はついにHへ詰め寄った。
「シンセ、どんな音でも出せるって言ったじゃん!」
Hは少し困った顔をした。
「いや、理論上は出せるって話で」
理論上。
私はその言葉にものすごく腹が立った。
理論上、人は努力すれば夢を叶えられる。
理論上、腹筋は割れる。
理論上、私は武道館にいた。
しかし現実には、ジャージ姿で自転車を押しながらキレていた。
私は「ちくしょう!」と叫び、Hにつかみかかりそうになった。
それをTが止めた。
夕焼けがやけに赤かった。
中二の夏だった。
今になって思えば、Hは間違っていなかった。
ただ私は、「理論上」という言葉の意味を理解していなかったのだ。
もっとも、四十を過ぎた今でも、完全には理解していない気もするけれど。




