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第9章:正体の危機

 砦の地下にある石造りの牢房に閉じ込められたエミリーは、自分の置かれた状況の深刻さを理解していた。中世の異端審問は、拷問と処刑で悪名高い制度だった。魔女裁判や宗教裁判で、無数の無実の人々が命を失っていた。


 隣の牢房に入れられたリシャールは、恐怖で震えていた。


「エミリウス殿、一体なぜ我々が……」


「リシャール、落ち着いて聞いてくれ」


 エミリーは小声で話しかけた。


「恐らく、私の正体について疑いを持った者がいるのだ。そして、それを教皇庁に報告した」


「正体というと……」


「君も薄々感づいているだろう? 私は普通の人間ではない」


 リシャールは沈黙したが、やがて小さく頷いた。


「でも、それがなぜ悪いことなのでしょうか? あなたは善良で、正義のために戦っているのに」


「この時代の人々にとって、説明のつかない超自然的な力は、神の奇跡か悪魔の仕業かのどちらかでしかない。そして、教会の権威に従わない力は、悪魔の仕業と見なされがちなのだ」


 翌日、エミリーは審問室に連れて行かれた。


 広い石造りの部屋に、三人の高位聖職者が座っていた。中央にいるのはロベルトゥス特使、左右には見知らぬ枢機卿たちが控えている。


「エミリウス・ハンリクス」


 中央の枢機卿が厳かに宣言した。


「汝は神聖なる教会の審問を受ける」


 エミリーは膝をついて答えた。


「神の御前で、真実のみを語ることを誓います」


「では、まず汝の出生について述べよ」


「記憶にございません。気がついた時には、クリュニー修道院の門前に倒れておりました」


「記憶喪失は都合の良い言い訳だな」


 右の枢機卿が冷笑した。


「汝の知識は、一体どこで身につけたものか?」


「神の恵みによるものと信じております」


「神の恵みだと?」


 左の枢機卿が立ち上がった。


「ならば、なぜ汝は教会の正統な権威を通さず、独自に『啓示』を受けるのか?」


 これは難しい質問だった。確かに、カトリック教会では、神からの啓示は教皇を頂点とする聖職者階級を通して伝えられるべきものとされていた。個人が直接神から啓示を受けるという主張は、教会の権威を脅かす危険思想と見なされかねない。


「私は教会の権威を否定するつもりはありません」


 エミリーは慎重に答えた。


「ただ、神が特別な状況下で、特別な使命を与えてくださったのだと理解しております」


「特別な使命とは何か?」


「邪悪を暴き、正義を実現することです」


「それは全ての聖職者の使命だ」


 ロベルトゥスが指摘した。


「汝に特別な使命があるという根拠は何か?」


 エミリーは地下神殿での体験について語ろうかと迷ったが、それは自分の超自然的な能力をさらに際立たせることになりかねない。


「根拠は……結果です」


 エミリーは現実的な答えを選んだ。


「神の導きにより、秘密結社の陰謀を暴き、殺人犯を特定することができました」


「確かにそれは事実だ」


 ロベルトゥスが認めた。


「しかし、汝の調査手法は異常だった。まるで現代の法廷技術のようだったと報告されている」


 エミリーは冷や汗をかいた。現代の捜査手法を使ったことが、逆に疑いを深める結果になっていた。


「神が示された方法に従っただけです」


「では、その方法について詳しく説明せよ」


 エミリーは、できるだけ宗教的な説明になるよう努めながら、自分の調査過程を説明した。しかし、審問官たちの表情は次第に厳しくなっていった。


「汝の説明には矛盾がある」


 左の枢機卿が指摘した。


「神の啓示というには、あまりにも体系的で論理的すぎる」


「それは……」


「まるで、汝が最初から全てを知っていたかのようだ」


 右の枢機卿が鋭く追及した。


「汝は何者なのか? 本当の正体を明かせ!」


 エミリーは追い詰められた。このままでは、異端者として火刑に処される可能性が高い。


 しかし、その時、審問室の扉が開いて、意外な人物が現れた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、ペトルス院長だった。


「院長? なぜここに?」


 ロベルトゥスが驚いた。


「エミリウスの件について、重要な証言があります」


 院長は毅然として前に進み出た。


「彼の正体について、私は真実を知っています」


 審問室が静まり返った。


「彼は確かに、普通の人間ではありません」


 院長が宣言した。


「しかし、悪魔の手先でもありません。彼は神によって遣わされた、特別な使命を帯びた存在なのです」


「どのような証拠があるのか?」


「地下神殿での出来事を、私は直接目撃しました」


 院長が証言した。


「そこで起きた神的な現象は、決して人間の力では説明できません。エミリウスは間違いなく、神の選ばれし者です」


 しかし、審問官たちは納得していなかった。


「それは幻覚や錯覚の可能性もある」


 左の枢機卿が反論した。


「より客観的な証拠が必要だ」


 その時、エミリーは決断した。これ以上の隠蔽は無意味だった。


「私は、未来から来ました」


 審問室に衝撃が走った。


「未来? 何を言っているのか?」


「私は千年後の世界——1995年の世界から、神の力によってこの時代に送られたのです」


 審問官たちは困惑していた。このような主張は、彼らの想像を超えていた。


「千年後の世界とは、どのような世界なのか?」


 ロベルトゥスが興味深そうに尋ねた。


 エミリーは、現代世界について説明し始めた。科学技術の進歩、医学の発達、教育の普及、女性の社会進出——慎重に言葉を選びながら、彼らが理解できる範囲で説明した。


「その世界では、人々は空を飛び、遠く離れた人と瞬時に会話し、病気の多くは薬で治すことができます」


「まるで天国のようだ」


 右の枢機卿が息を漏らした。


「しかし、その世界は完璧ではありません」


 エミリーが続けた。


「戦争、貧困、環境破壊——多くの問題が残っています。そして、人々は物質的には豊かでも、精神的には必ずしも幸福ではありません」


「なぜ、汝はその世界からこの時代に送られたのか?」


「恐らく、この時代で起きている問題——知識の独占、権力の濫用、不正義——これらは未来の世界でも続いている問題だからです」


 エミリーは自分なりの理解を説明した。


「神は、異なる時代の知識と経験を組み合わせることで、これらの問題に新しい解決策を見出そうとされているのかもしれません」


 審問官たちは長い間沈黙していた。エミリーの説明は、あまりにも突飛で、しかし同時に説得力もあった。


「もし汝の言うことが真実ならば」


 ロベルトゥスがついに口を開いた。


「それは確かに神の奇跡だ。しかし、どうやってそれを証明するのか?」


「未来の知識を実証してみせましょう」


 エミリーは提案した。


「医学、工学、天文学——様々な分野で、この時代では知られていない知識を示すことができます」


 こうして、エミリーの審問は一時中断され、彼女の主張を検証する実証試験が行われることになった。


 しかし、エミリーは新たな不安を抱いていた。自分の正体を明かしたことで、さらに複雑な状況に陥ってしまったのではないか。


 未来人として認められたとしても、それが良い結果をもたらすとは限らない。教皇庁が自分を利用しようとする可能性もある。


 そして何より、この時代の歴史に与える影響を考えると、自分の行動には慎重になる必要があった。


 エミリーは、自分が歴史の分岐点に立っていることを痛感していた。



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