第4章:聖なる幻視の始まり
翌朝、エミリーは写本室でマルクスが最後に作業していた『聖ペトルスの黙示録』を詳細に調べることから始めた。アンセルム書記長が見守る中、彼女は古文書学者としての専門知識を総動員して写本を分析した。
羊皮紙の質、インクの成分、筆跡の特徴——全てが物語る情報があった。この写本は確かに複数の時代に渡って書き継がれており、最新の部分は十一世紀に入ってから、つまりごく最近追加されたものだった。
「アンセルム書記長」
エミリーは慎重に尋ねた。
「この写本の最新部分を書いたのは誰でしょうか?」
「それは……」
アンセルムは躊躇した。
「書記長として記録は管理しているが、この部分については記録が曖昧なのだ」
エミリーは眉をひそめた。修道院の書記長が写本の来歴を把握していないとは考えにくい。何かを隠しているのは明らかだった。
しかし、追及する前に、エミリーは写本の内容そのものに注目した。表面的には初期キリスト教の黙示録文学だったが、よく読むと奇妙な箇所がいくつもあった。
特に、最近追加されたと思われる部分には、一見意味不明な文字列が羅列されていた。
*「CLVNIACENSIS SVBTERRANEA SALOMONIS HEREDITAS. SANGVINIS CALIX NOMINATVS SAPIENTIAE VAS. CVSTODES TEMPORIS TRANSGRESSORES. STELLA SCIENTIA ORIENTEM VENTVRVM...」*
エミリーは息を呑んだ。これは暗号だった。古典ラテン語の知識と、現代の言語学的手法を組み合わせれば、解読は不可能ではない。
「神が私に新たな啓示を与えてくださいました」
エミリーはアンセルムに向かって宣言した。
「この文書には隠された意味があります。表面の文字の裏に、神が我々に伝えようとされるメッセージが」
アンセルムの目が見開かれた。
「どのようなメッセージだ?」
エミリーは心の中で暗号の解読を進めながら、慎重に答えた。
「まだ完全には理解できませんが……この修道院に関する古い秘密について語られているようです」
実際、「CLVNIACENSIS SVBTERRANEA」は「クリュニーの地下」を意味していた。そして「SALOMONIS HEREDITAS」は「ソロモンの遺産」——古代の叡智や宝物を指す隠語だった。
「神よ……」
アンセルムが息を漏らした。
「それは一体何を意味するのか?」
「今はまだ分かりません。しかし、マルクスの死と何らかの関係があることは確実です」
エミリーは立ち上がった。
「神の啓示に従い、この修道院の古い記録を調べる必要があります。建設当時の文書や、地下構造についての資料があれば」
「地下構造?」
アンセルムの表情が微妙に変わった。
「なぜそのようなものを?」
「神が示された幻視の中に、地下の空間が現れたのです。そこに何かが隠されている、と」
これは完全な推測だったが、暗号の内容から判断して、クリュニー修道院の地下に何かの秘密が隠されている可能性は高かった。
「分かった。午後に図書館で古い記録を調べよう」
アンセルムは頷いたが、その表情には複雑な感情が浮かんでいた。
昼の祈りの時間、エミリーは修道士たちの中に混じりながら、周囲を観察していた。昨夜、夜中に動き回っていた人物を特定する必要があった。
祈りの最中、彼女はそれとなく修道士たちの手を観察した。引っ掻き傷や擦り傷があれば、マルクスとの格闘の痕跡かもしれない。
しかし、多くの修道士が日常的な労働で手に小さな傷を負っているため、それだけでは判断が困難だった。より詳細な検査が必要だった。
祈りが終わると、ペトルス院長がエミリーを呼び止めた。
「エミリウス、調査の進捗はいかがか?」
「院長様、神の導きにより、重要な手がかりを得ております」
エミリーは謙虚に答えた。
「しかし、真実を明らかにするためには、全ての修道士の方々に検査を受けていただく必要があります」
「検査とは?」
「神が犯人の身体に印を刻まれているはずです。その印を見つけるための、神聖な儀式でございます」
ペトルス院長は考え込んだ。
「それは……受け入れがたい要求だな。修道士の身体を検査するなど」
「院長様」
エミリーは必死に説得した。
「これは神の御命令です。真実を明らかにし、マルクスの魂を安らかにするためには避けて通れません」
しばらくの沈黙の後、院長は重々しく頷いた。
「分かった。しかし、アンセルム書記長とギヨーム医務長の立会いのもとで行うこと」
「ありがとうございます」
午後、エミリーはアンセルムと共に図書館の古い記録を調べ始めた。クリュニー修道院の建設記録、寄進目録、そして古代からこの地にあった建造物についての記述を探した。
数時間の調査の後、エミリーは重要な発見をした。
「アンセルム書記長、これをご覧ください」
彼女が指差したのは、修道院建設前のこの土地についての記述だった。
「ここには古代ローマ時代の建造物があったと書かれています。『ミトラ神殿』……太陽神ミトラスを祀る地下神殿です」
「ミトラ神殿? 異教の神殿がこの聖なる土地に?」
「ローマ時代には珍しいことではありませんでした。そして、この記録によると、修道院建設時にその地下構造は完全には破壊されず、一部が保存されたようです」
エミリーは興奮を抑えながら続けた。
「神の啓示で見た地下空間とは、この古代神殿のことかもしれません」
アンセルムは古い地図を取り出した。
「確かに、図書館の地下には立ち入り禁止の区域がある。建設当時から封印されているとされていたが……」
「そこに『ソロモンの遺産』が隠されている可能性があります」
エミリーは暗号解読の結果を、神の啓示として説明した。
「古代の叡智、もしくは何らかの宝物が」
その時、図書館の扉が開いて、ベルナールが入ってきた。
「お二人とも、熱心に調査されているようですね」
ベルナールの表情には、好奇心と警戒心が混じっていた。
「ベルナール兄弟」
アンセルムが振り返った。
「君も何か調べ物があるのか?」
「ええ、古代の文献について少し」
ベルナールはエミリーたちが調べていた資料を横目で見た。
「ミトラ神殿について調べておられるとは。興味深いテーマですね」
エミリーは心の中で警戒心を強めた。ベルナールが何を知っているのか、探る必要があった。
「ベルナール兄弟は古代宗教についてお詳しいのですか?」
「多少は。貴族の家系には、古い時代から伝わる書物がありますから」
「どのような書物ですか?」
「グノーシス文書、ヘルメス文書、錬金術の書……正統派の神学とは異なる知識体系です」
ベルナールの答えに、エミリーとアンセルムは視線を交わした。マルクスが最近調べていたのも、まさにそのような文献だった。
「それらの書物は、現在どちらに?」
「もちろん、この修道院に寄進いたしました。アンセルム書記長が適切に管理してくださっています」
アンセルムが咳払いをした。
「ベルナール兄弟が寄進してくださった書物は、確かに貴重なものです。ただし、一般の修道士には公開していません」
「なぜですか?」
エミリーの質問に、アンセルムは困ったような表情を見せた。
「内容が……誤解を招きやすいものだからです。信仰の浅い者が読めば、異端の道に迷い込む可能性もあります」
「しかし」
ベルナールが口を挟んだ。
「知識そのものに罪はないはずです。真理を探求することは、神の御心にかなうことではないでしょうか」
「それは詭弁だ」
突然、厳しい声が響いた。振り返ると、ブルーノ副院長が立っていた。
「異端の書物は、魂を堕落させる悪魔の道具に他ならない」
ブルーノはエミリーたちを鋭い視線で見つめた。
「エミリウス、お前の調査とやらも、適切な範囲に留めておくべきだ。古い秘密を暴き立てることが、常に善とは限らない」
「副院長様」
エミリーは毅然として答えた。
「私は神の啓示に従って行動しているだけです。真実を明らかにすることで、マルクスの魂を救うことができるのです」
「神の啓示?」
ブルーノの目が細くなった。
「新参者が軽々しく神を語るものではない。お前の正体がいまだ不明である以上、その言葉を信用することはできない」
緊張した空気が図書館に流れた。ブルーノ副院長は明らかにエミリーを敵視している。そして、ベルナールとアンセルムの間にも、微妙な対立があるようだった。
「副院長様」
アンセルムが仲裁に入った。
「エミリウスの学識は既に証明されています。神が特別な使命を与えられた可能性を否定すべきではありません」
「アンセルム、お前もまた惑わされているのか」
ブルーノは失望したような表情を見せた。
「この修道院に、余計な混乱を持ち込むことは許されない」
そう言い残して、ブルーノは図書館を出て行った。
彼が去った後、ベルナールが小声で言った。
「副院長は古いものの考え方をされる方です。新しい知識や思想を受け入れることができないのです」
「しかし、彼の懸念も理解できます」
アンセルムが答えた。
「古い知識の中には、危険なものも確かに存在します」
エミリーは二人の会話を聞きながら、修道院内の派閥対立について考えていた。保守派のブルーノと、より開明的なアンセルム、そして異端的な知識に興味を持つベルナール。マルクスの死は、このような思想的対立と関係があるのかもしれない。
夕方、エミリーは約束通り修道士たちの身体検査を開始した。ギヨーム医務長とアンセルム書記長の立会いのもと、神の印を探すという名目で、全員の手と腕を調べることになった。
「神よ、犯人を示したまえ」
エミリーは祈りの言葉を唱えながら、ひとりずつ修道士の手を取って詳しく観察した。
大部分の修道士は、労働による軽微な傷しか負っていなかった。しかし、何人かの修道士には、より新しく、深い傷があった。
特に、ギヨーム医務長の左手首に、爪で引っ掻かれたような傷痕があることに気づいた。
「ギヨーム医務長」
エミリーは慎重に尋ねた。
「この傷はいつできたものですか?」
「ああ、これですか」
ギヨームは傷を見つめた。
「薬草の調合中に、猫に引っ掻かれたのです。三日ほど前だったでしょうか」
三日前——それはマルクスが殺された夜に近い時期だった。しかし、猫による傷だという説明が本当かどうかは分からない。
検査を続けていくと、ベルナールの手にも小さな擦り傷があることが分かった。
「これは写本の作業中にできた傷です」
ベルナールは淡々と説明した。
「古い羊皮紙は時として鋭利になることがありますから」
エミリーは頷いたが、心の中では疑念を深めていた。現在のところ、ギヨームとベルナールが最も怪しい容疑者だった。
しかし、決定的な証拠はまだ得られていない。さらなる調査が必要だった。
その夜、エミリーは個室で調査結果をまとめていた。暗号の解読、地下神殿の存在、容疑者の絞り込み——確実に真実に近づいている実感があった。
しかし、まだ最も重要な疑問が残っていた。マルクスが発見した「危険な真実」とは何だったのか。そして、なぜそれが彼の命を奪うほど重要だったのか。
窓の外で、またしても足音が聞こえた。今夜こそ、その正体を確かめなければならない。
エミリーは静かに部屋を出て、音を立てないよう回廊を歩いた。足音は図書館の方向に向かっているようだった。
図書館に近づくと、中から微かな話し声が聞こえてきた。複数の人物が、何かについて議論している。
エミリーは扉の隙間から中を覗いた。
そこには、ベルナール、ギヨーム、そして驚いたことに、あの厳格なブルーノ副院長の姿があった。
三人は古い書物を囲んで、熱心に何かを話し合っていた。その表情は、昼間に見せる敬虔な修道士のものとは全く異なっていた。
エミリーは息を殺して、彼らの会話に耳を傾けた。




