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第3章:最初の異変

 翌朝、エミリーが写本室に向かうと、そこには通常と異なる緊張した空気が漂っていた。修道士たちが小声で話し合い、アンセルム書記長は青ざめた顔で何かの報告書を読んでいた。


「何事でしょうか?」


 エミリーがリシャールに尋ねると、彼は震え声で答えた。


「フラテル・マルクスが……死んでいるのが発見されました」


「死んだ? 病気ですか?」


「いえ……殺されたようです」


 エミリーの血が凍りついた。中世の修道院で殺人事件——それは彼女の知る歴史上の記録にはない出来事だった。


「どこで発見されたのですか?」


「写本室です。今朝、アンセルム書記長が来てみると、マルクスが机に突っ伏して……首に絞められた痕がありました」


 エミリーは周囲を見回した。確かに奥の作業台の周りに、数人の修道士が集まっている。そして、その机の上には血痕のような染みがあった。


「マルクスは昨夜、何をしていたのでしょうか?」


「特別な写本の複写作業をしていたそうです。『聖ペトルスの黙示録』という古い文献でした」


 エミリーはその名前に記憶があった。確か、異端の疑いをかけられたことのある初期キリスト教の偽書の一つだったはずだ。


 その時、修道院長のペトルスが数人の修道士を伴って写本室に入ってきた。彼の威厳ある顔には、深い憂いが刻まれていた。


「修道士たちよ」


 ペトルス院長の声が室内に響いた。


「今朝、我らの兄弟マルクスが神のもとに召された。彼の死因については、悪魔の仕業としか考えられない」


 修道士たちがざわめいた。


「今後三日間、全員が祈りと断食に励み、この聖なる場所から悪霊を祓わなければならない」


 エミリーは内心で首を振った。科学的な捜査を行わずに、超自然的な原因で片付けてしまうつもりなのか。


 だが、その時、エミリーの頭に一つのアイデアが閃いた。危険な賭けだったが、真実を明らかにするための唯一の方法かもしれない。


「院長様、お待ちください!」


 エミリーは前に進み出て、ペトルス院長の前に跪いた。


「昨夜、私は神からの幻視を受けました」


 写本室が静まり返った。全ての視線がエミリーに注がれた。


「神が私に示されたことには、この哀れなマルクスの死は人間の手によるものです。そして、この修道院に隠された真実を明らかにせよとの、神の御命令でございます」


 修道士たちがどよめいた。ペトルス院長は眉をひそめて、エミリーを見つめた。


「エミリウス、お前は何を言っているのか?」


「院長様、私に調査をお許しください。神の導きにより、必ずや真実を明らかにいたします」


 エミリーは必死に訴えた。現代の科学的捜査手法を、この時代の人々に受け入れてもらうには、宗教的な権威を借りるしかなかった。


「神の啓示だと?」


 ブルーノ副院長が疑わしげな声を上げた。


「新参者が突然現れて、神の声を聞いたなどと……信用できるものか」


「ブルーノ副院長」


 意外なことに、アンセルム書記長がエミリーを擁護した。


「エミリウスの学識は既に証明されている。神が特別な使命を与えられた可能性もあるのではないか」


 ペトルス院長は長い間沈黙していたが、やがて重々しく口を開いた。


「エミリウスよ、もしお前の言うことが真実なら、それは大変なことだ。しかし、もし偽りであったなら……」


「私は神の御前で誓います。偽りは一切ございません」


 エミリーは固い決意を込めて答えた。


「では、三日間の猶予を与えよう。その間に真実を明らかにせよ。ただし、アンセルム書記長の監督のもとで行うこと」


「ありがとうございます、院長様」


 ペトルス院長が他の修道士たちと共に退室すると、エミリーは深く息を吐いた。とりあえず調査の許可は得られた。問題は、現代の捜査手法をどのように「神の啓示」として説明するかだった。


「エミリウス」


 アンセルムが近づいてきた。


「本当に神の啓示を受けたのか?」


「はい。昨夜、祈りの最中に鮮明な幻視を見ました」


 エミリーは嘘をつくことに罪悪感を覚えたが、真実を明らかにするためには必要なことだった。


「では、まず現場を詳しく調べてみよう」


 アンセルムと共に、エミリーはマルクスの作業台に近づいた。現代の法科学の知識を総動員して、慎重に観察を始めた。


 首の絞痕は明らかに人為的なものだった。しかし、縄ではなく、幅の広い布のようなもので絞められている。修道服の帯か、あるいは頭巾の紐のようなものかもしれない。


 机の上には『聖ペトルスの黙示録』の写本が開かれたままになっていた。エミリーは内容を確認したが、表面上は普通の宗教文書のように見えた。


「アンセルム書記長、この写本について教えてください」


「これは二百年ほど前に書かれた写本だが、原典はさらに古い。初期教会時代の文献とされているが、正典には含まれていない」


「異端の疑いがあると聞きましたが」


「一部にそう考える者もいる。内容が神秘的で、通常の神学とは異なる解釈が含まれているからだ」


 エミリーは写本をより詳しく調べた。古文書学者としての経験から、この写本には複数の時代の筆跡が混在していることが分かった。


「この部分は後から書き加えられたものですね」


 エミリーが指差したのは、ページの端に小さな文字で書かれた注釈だった。


「よく気がついたな。確かにその通りだ」


 アンセルムは感心したように頷いた。


「では、マルクスはなぜこの特定の写本を複写していたのでしょうか?」


「それは……私も詳しくは知らない。彼が自主的に選んだ作業だった」


 エミリーは眉をひそめた。何か重要な情報が隠されているような気がした。


 次に、エミリーは現場の状況を詳しく観察した。マルクスの爪の下に微細な皮膚片のようなものが残っていることに気づいた。これは犯人と格闘した際に相手を引っ掻いた痕跡かもしれない。


「神の啓示により、重要な手がかりを発見しました」


 エミリーはアンセルムに説明した。


「犯人の一部が、マルクスの爪の下に残されています。神が我々に証拠を示してくださったのです」


 アンセルムは興味深そうに身を乗り出した。


「どういう意味だ?」


「近日中に、修道院の全員の手を調べさせていただきたいのです。神が示された印を探すために」


 実際には、引っ掻き傷や擦り傷の痕跡を探すつもりだった。現代の法科学では常識的な手法だが、この時代では「神の啓示」として説明するしかない。


「なるほど……確かに神の御業ならば、不可能なことではないな」


 アンセルムは納得したようだった。


 その時、写本室の入り口に人影が現れた。昨夜、図書館で不審な行動をしていたベルナールだった。


「アンセルム書記長、マルクスの件について話を聞かせていただけませんか?」


 ベルナールの表情には、好奇心と何か別の感情が混じっていた。


「ベルナール兄弟、君もマルクスと親しかったな」


「ええ。彼とは時々、古い写本について議論していました」


 ベルナールはエミリーを見つめた。


「エミリウス殿が調査をされるとか。興味深いことですね」


 エミリーはベルナールの視線に、何か探るような意図を感じ取った。


「神の導きに従って、真実を明らかにするつもりです」


「神の導きですか……」


 ベルナールは意味深な笑みを浮かべた。


「では、お役に立てることがあれば、いつでもお声をかけてください」


 ベルナールが去った後、アンセルムが小声で言った。


「彼は貴族の出身で、多くの珍しい書物を寄進してくれた恩人だ。しかし、時として……常軌を逸した興味を示すことがある」


「どのような興味ですか?」


「古代の秘密の知識、錬金術、占星術……正統な神学からは外れた分野だ」


 エミリーは心の中で警戒心を強めた。ベルナールは確実に怪しい人物だった。昨夜の図書館での行動といい、今の会話といい、何か隠していることがあるのは明らかだった。


 午後になって、エミリーは修道院内の関係者への聞き込みを開始した。もちろん、「神の啓示による調査」という建前を維持しながらだった。


 まず、マルクスと親しかった修道士たちから話を聞いた。


「マルクスは最近、何か悩んでいるようでした」


 ひとりの年配の修道士が証言した。


「昼間の作業中も、時々ぼんやりとしていることがありました。何かを恐れているような様子でした」


「何を恐れていたのでしょうか?」


「それは分かりません。ただ、最近になって急に古い写本に興味を持ち始めたのは確かです」


 別の修道士からは、もう少し具体的な情報が得られた。


「一週間ほど前、マルクスが図書館で何かを探している姿を見かけました。かなり古い時代の文献を調べているようでした」


「どのような文献ですか?」


「グノーシス主義に関する文書だったと思います。正統派の神学とは異なる、古代の異端思想についての資料でした」


 エミリーは興味を抱いた。グノーシス主義——それは初期キリスト教の一派で、秘密の知識による救済を説く思想だった。正統派教会からは異端として排斥されたが、その神秘的な教えは後の時代まで密かに受け継がれていた。


 夕方の祈りの時間が近づく頃、エミリーは一人の修道士から決定的な証言を得た。


「昨夜、マルクスが誰かと話している声を聞きました」


「誰と話していたのですか?」


「それは分かりません。しかし、かなり激しい議論をしているようでした。『それは危険すぎる』とか『真実を知る権利がある』とか、そんな内容でした」


「時間は分かりますか?」


「終課の後、深夜だったと思います」


 エミリーは心の中で推理を組み立てていた。マルクスは何らかの秘密を知ってしまい、それが原因で殺されたのかもしれない。そして、その秘密はグノーシス主義や古代の異端思想と関係している可能性が高い。


 その夜、個室に戻ったエミリーは、得られた情報を整理していた。


 容疑者は絞られてきている。ベルナールは最も怪しいが、アンセルム書記長も完全に信用できるわけではない。そして、まだ接触していない人物もいる——ギヨーム医務長やブルーノ副院長だ。


 しかし、最も重要なのは動機だった。なぜマルクスは殺されなければならなかったのか。彼が発見した「危険な真実」とは何だったのか。


 エミリーは『聖ペトルスの黙示録』の内容を思い出そうとした。表面上は普通の宗教文書に見えたが、後から書き加えられた注釈に何か秘密が隠されているのかもしれない。


 明日は、その写本をより詳しく調べる必要がある。そして、修道院内の全員の手を検査して、引っ掻き傷の痕跡を探さなければならない。


 窓の外では、再び足音が聞こえてきた。昨夜と同じように、誰かが夜中に動き回っている。


 エミリーは立ち上がって窓に近づいた。今度は、黒い影がふたつ、中庭を横切っていくのが見えた。


 この修道院には、表面に現れない何かが確実に存在している。そして、それがマルクスの死と関係していることは間違いなかった。


 エミリーは決意を新たにした。現代の知識と技術を駆使して、必ずや真実を明らかにしてみせる。それが、この時代に送られた自分の使命なのかもしれない。



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