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第2章:修道院での適応

 翌朝、夜明け前の鐘の音で目を覚ましたエミリーは、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。石造りの小さな部屋、硬いわらのマットレス、そして重く異物感のある身体——全てが現実であることを改めて思い知らされた。


 急いで身支度を整えながら、エミリーは昨夜リシャールから教わった修道院の規則を思い出していた。朝課は夜明け前、遅刻は厳しく罰せられる。


 聖堂に駆け込むと、黒い修道服を着た修道士たちが既に整列していた。エミリーは端の方に滑り込み、周囲の動きを観察しながら祈りに参加した。


 ラテン語の聖歌が石造りの聖堂に響く。エミリーは歌詞を完璧に理解していたが、男性の低い声で歌うことに違和感を覚えた。自分の声ではないような感覚が、常に付きまとっていた。


 朝課の後は食事の時間だった。大きな食堂で、修道士たちが長いテーブルに向かい合って座る。食事は黒パンと薄い豆のスープ、それに少量のチーズだけだった。


 現代の豊かな食生活に慣れていたエミリーには、あまりにも質素な内容だった。しかし不平を言うわけにはいかない。周囲の修道士たちは皆、感謝の祈りを捧げてから静かに食事を摂っている。


「エミリウス」


 隣に座ったリシャールが小声で話しかけてきた。


「今日から写本室ですね。アンセルム書記長は厳格な方ですが、公平で知識豊富な方です。きっと多くのことを学べるでしょう」


「ありがとう、リシャール。君がいてくれて心強い」


 エミリーの言葉に、リシャールの顔が明るくなった。


「僕も嬉しいです。ここに来て三年になりますが、こんなに話が合う人は初めてです」


 食事の後、リシャールの案内で写本室に向かった。修道院の最も静かな区画にある、大きな窓から朝日が差し込む明るい部屋だった。


 室内には十数台の傾斜のついた書き台が並び、既に数人の修道士が作業に取り組んでいた。羊皮紙にペンで文字を写す音、インクを擦る音、ページをめくる音——知的な営みの音が静かに響いている。


「アンセルム書記長」


 リシャールが奥の席に座る中年の男性に声をかけた。


 振り返った男は、四十代半ばくらいの知的な容貌をしていた。深い茶色の瞳は鋭く、しかし冷静な印象を与える。黒髪は既に半分以上が白髪になっていた。


「君がエミリウスか」


 アンセルムは立ち上がってエミリーを見つめた。


「院長様から話は聞いている。古典語に通じているそうだな」


「はい。神の恵みにより、多少の知識を授かっております」


「では、これを読んでみてくれ」


 アンセルムが差し出したのは、古いギリシア語の写本だった。エミリーは一目見ただけで、それが初期キリスト教の神学文献であることを理解した。


「『神学大全』の一部ですね。『父なる神の本質について』の章のようです」


 エミリーは流暢にギリシア語で読み上げた。アンセルムの表情が驚きに変わった。


「驚いた……これほど正確にギリシア語を読める者に会ったのは久しぶりだ」


 周囲の修道士たちも作業の手を止めて、エミリーを見つめていた。


「それでは、こちらの作業台を使ってくれ」


 アンセルムが案内したのは、窓際の最も良い席だった。


「当面は『詩篇注解』の複写を担当してもらう。文字は読めるが、正確性と美しさが要求される重要な仕事だ」


 エミリーは作業台に座り、羊皮紙とペンを手に取った。現代でも古文書の修復作業で似たような道具を使ったことがあったが、これほど原始的な環境は初めてだった。


 しかし、一度ペンを走らせ始めると、手は自然に動いた。現代で身につけた古文書学の技術と、この身体に宿る何らかの技能が融合したかのように、美しいラテン語の文字が羊皮紙に躍った。


「素晴らしい」


 作業を見守っていたアンセルムが息を漏らした。


「その筆跡……まるで古代の写字生のようだ。一体どこでそのような技術を身につけたのか」


「私にも分からないのです」


 エミリーは正直に答えた。


「気がつくと、手が勝手に動いているような感覚で……」


「神の賜物だな」


 アンセルムは頷いた。


「お前のような人材を求めていたのだ。近いうちに、より重要な仕事を任せることになるかもしれない」


 午前中の作業が終わると、昼の祈りの時間となった。エミリーは他の修道士たちと共に聖堂に向かったが、歩きながら自分の身体の変化を感じていた。


 朝よりも男性の身体に慣れてきているようだった。歩幅や重心の取り方が、徐々に自然になってきている。しかし、それと同時に複雑な感情も湧いてきた。


 この身体に慣れることは、エミリー・ハートウェルとしての自分を失うことなのだろうか。


 昼の祈りの後は自由時間だった。リシャールが修道院の庭を案内してくれることになった。


「この庭では薬草を栽培しています」


 リシャールが指差したのは、整然と区画分けされた畑だった。


「ギヨーム医務長が管理されています。ここで育てた薬草で、病気や怪我の治療を行うんです」


 エミリーは興味深そうに薬草畑を眺めた。現代の薬学知識と中世の薬草学を比較すると、確かに効果のある植物も多く含まれていた。


「あそこにいるのがベルナール兄弟です」


 リシャールが示したのは、庭の奥で一人作業している修道士だった。三十代前半の貴族的な容貌をした男性で、他の修道士たちとは微妙に距離を置いているように見えた。


「彼は貴族の出身で、多くの書物を寄進してくださった方です。ただ、少し……近寄りがたい雰囲気がありますね」


 エミリーはベルナールを観察した。確かに他の修道士たちとは違う、何か秘密を抱えているような印象を受けた。


「それから、あちらにいるのがブルーノ副院長です」


 回廊を歩いているのは、痩せて背の高い男だった。五十代前半くらいで、鋭い目つきをしている。彼がエミリーたちを見ると、じっと視線を向けてきた。


「副院長は規律に厳しい方です。特に新参者には」


 リシャールの声に緊張が混じった。


「何か問題でもあるのですか?」


「いえ、ただ……最近、修道院の雰囲気が少し変わってきているような気がするんです」


 リシャールは声を潜めた。


「古い決まりを重視する人たちと、新しい考えを受け入れようとする人たちの間で、微妙な対立があるような……」


 エミリーは心の中で頷いた。十一世紀のクリュニー修道院は、まさに改革の時代にあった。保守派と革新派の対立は、史料にも記録されている。


「エミリウス殿のような方が来られたことで、また新しい変化が起きるかもしれません」


 リシャールの言葉に、エミリーは一抹の不安を覚えた。自分の存在が、この修道院に何らかの影響を与えることは避けられないだろう。問題は、それが良い方向に向かうかどうかだった。


 午後の作業時間が始まると、エミリーは再び写本室に向かった。『詩篇注解』の複写作業を続けながら、同時に周囲の修道士たちの会話に耳を傾けていた。


「最近、奇妙な噂を聞くんだ」


 隣の作業台の修道士が、小声で話していた。


「夜中に、誰かが図書室を歩き回っているという話だ」


「また幽霊の話か?」


 別の修道士が苦笑した。


「いや、違う。人間の足音だという証言もある。それに、いくつかの古い写本の配置が変わっていることもあった」


 エミリーは手を止めずに聞いていた。修道院内で何か不審な動きがあることは確かなようだった。


「アンセルム書記長は何と言っておられるのか?」


「書記長は何も言わない。ただ、最近は夜遅くまで図書室にいることが多いようだ」


 エミリーは視線を上げて、アンセルムの席を見た。書記長は集中して作業をしているように見えたが、時折、深い思索にふけるような表情を見せていた。


 夕方の祈りの時間が近づくと、アンセルムがエミリーの席にやってきた。


「エミリウス、少し話がある」


「はい」


 エミリーは作業道具を片付けて立ち上がった。


「君の技術は期待以上だ。明日からは、より貴重な写本の複写を任せたいと思う」


「ありがとうございます」


「ただし、注意してほしいことがある」


 アンセルムの表情が真剣になった。


「この修道院には、表に出せない古い写本もある。そういったものを扱う際は、絶対に一人で作業しないこと。そして、内容について他人と議論しないこと」


「分かりました。しかし、それはなぜでしょうか?」


「古い知識の中には、誤解を招きやすいものもある。特に信仰の浅い者が読めば、異端の道に迷い込む可能性もあるのだ」


 エミリーは頷いたが、内心では疑問を感じていた。アンセルムの説明には、何か隠していることがあるような印象を受けた。


 その夜、個室で一人になったエミリーは、改めて自分の状況を整理しようとした。


 転生してから二日が過ぎたが、まだ多くの謎が残っていた。なぜ自分がこの時代に送られたのか。この身体の元の持ち主は何者だったのか。そして、修道院内で起きている不審な出来事は何を意味するのか。


 しかし、最も深刻な問題は、自分自身のアイデンティティだった。


 エミリーは鏡の代わりに磨かれた金属の板に映る自分の顔を見つめた。そこにあるのは、見知らぬ男の顔だった。精悍で、知的な印象を与える顔だが、エミリー・ハートウェルではない。


 この顔で笑い、この声で話し、この身体で生きていくことに、果たして慣れることができるのだろうか。


 そんな時、窓の外から微かな足音が聞こえてきた。夜も更けているのに、誰かが回廊を歩いている。


 エミリーは静かに窓に近づき、外を覗いた。月明かりの中を、黒い影がひとつ、図書館の方向に向かって歩いていくのが見えた。


 修道士たちが話していた、夜中の不審者だろうか。


 エミリーは迷った。一人で調査に出かけるのは危険だ。しかし、このまま見過ごすわけにもいかない。


 結局、彼女は部屋を出ることにした。現代の探偵小説を読み尽くした経験と、古文書学者としての好奇心が、危険よりも勝ったのだ。


 回廊を静かに歩きながら、エミリーは図書館に向かった。石造りの床は冷たく、足音が響かないよう細心の注意を払った。


 図書館の扉は僅かに開いていた。中からは、かすかな明かりが漏れている。


 エミリーは息を殺して扉の隙間から中を覗いた。


 そこには、ひとりの修道士がランプの明かりで古い写本を読んでいる姿があった。


 それは、昼間に庭で見かけたベルナールだった。


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