第15章:新たな始まり
古代遺跡での会合から三か月が過ぎた。エミリーたちの改革活動は、着実に成果を上げ始めていた。
クリュニー修道院は、新しい教育制度の実験場となっていた。エミリーの指導のもと、修道士たちだけでなく、近隣の農民の子どもたちにも読み書きを教える学校が開設された。
「エミリウス先生!」
十歳ほどの少年が駆け寄ってきた。
「今日習った数字の計算、全部できました!」
「よくできました、ピエール」
エミリーは優しく微笑んだ。
「勉強は楽しいですか?」
「はい! 文字が読めるようになったら、お父さんの商売の帳簿も手伝えるようになりました」
子どもたちの向学心は、エミリーの期待を上回っていた。知識への渇望は、身分や性別に関係なく、人間の本能だった。
学校を見回った後、エミリーは修道院の新しい図書館に向かった。『永遠の叡智の守護者』から寄贈された古代の文献と、各地の修道院から集められた写本が、整然と配架されている。
図書館では、リシャールが若い修道士たちに古典語を教えていた。
「ラテン語は、知識の扉を開く鍵です」
リシャールが熱心に説明していた。
「この言語を習得すれば、古代ローマの知恵に触れることができます」
エミリーは、友人の成長を誇らしく思った。リシャールは今や、優秀な教師として尊敬を集めていた。
図書館の奥で、一人の青年が熱心に古い写本を読んでいる姿が目に入った。南イタリアから最近やってきた修道士で、レオナルドという名前だった。
「何を読んでいるのですか?」
エミリーが声をかけると、青年は目を輝かせて振り向いた。
「古代ギリシアの数学書です! この幾何学の理論は素晴らしい!」
レオナルドの瞳には、知識への純粋な情熱が宿っていた。
「私は信じているのです」
彼は興奮して語った。
「人間は神の最高傑作です。我々は学び、創造し、この世界をより美しくすることができるのです!」
エミリーは、この青年の将来を知っていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ——芸術、科学、工学の全てにおいて天才的な才能を発揮し、後に「万能の天才」と呼ばれることになる人物だった。
「レオナルド、あなたの情熱は素晴らしいものです」
エミリーは慎重に言葉を選んだ。
「その探求心を大切にしてください。きっと、誰も見たことのない美しい世界を発見できるでしょう」
「エミリウス先生」
レオナルドが真剣な表情を見せた。
「先生の教える新しい知識は、まるで魔法のようです。どこでそのような叡智を身につけられたのですか?」
「神の恵みです」
エミリーは微笑んだ。
「そして、多くの人との出会いから学んだことです」
実際、この三か月間でエミリーは多くを学んでいた。教育の難しさ、社会変革の複雑さ、そして人間関係の大切さ。
現代の知識だけでは解決できない問題も多かった。この時代の人々の価値観、慣習、信念を理解し、それに合わせて知識を伝える技術が必要だった。
夕方、エミリーは修道院の庭で一人の時間を過ごしていた。薬草園では、ギヨーム元医務長が栽培していた薬草が青々と育っている。
この三か月間の活動を振り返ると、確実に変化が起きていた。教育制度の改革、医療技術の向上、農業技術の改善——小さな変化だが、着実に人々の生活を向上させていた。
しかし、エミリーには一つの懸念があった。自分の行動が歴史に与える長期的な影響が、完全には予測できないことだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチとの出会いは、歴史上記録されていない。彼の天才性に、自分の現代知識がどのような影響を与えるのか。それが良い結果をもたらすのか、それとも歴史を歪めてしまうのか。
その時、背後から足音が聞こえた。振り返ると、ペトルス院長が歩いてきた。
「エミリウス、考え事ですか?」
「はい、院長様。これからのことについて」
ペトルス院長は隣に座った。
「あなたの活動により、この修道院は大きく変わりました。そして、その変化は確実に良いものです」
「ありがとうございます。しかし、時々不安になります」
エミリーは正直に打ち明けた。
「自分の行動が正しいのかどうか」
「それは、誰にでもある不安です」
院長が温かく答えた。
「しかし、あなたは常に他人の幸福を考えて行動している。それが最も重要なことです」
院長の言葉に、エミリーは慰められた。
「院長様、一つお聞きしたいことがあります」
「何でしょうか?」
「もし、あなたが未来を知ることができるとしたら、その知識をどう使いますか?」
院長は長い間考えていた。
「難しい質問ですね。恐らく、私は未来を変えようとするでしょう。悪いことを防ぎ、良いことを促進しようと」
「それは正しいことでしょうか?」
「分かりません」
院長が正直に答えた。
「しかし、愛と慈悲に基づいて行動するなら、きっと神が正しい道に導いてくださるでしょう」
エミリーは、院長の言葉に深い真理を感じた。完璧な判断は不可能だが、善意に基づいて行動することが最も重要だった。
その夜、エミリーは個室で日記を書いていた。現代に戻れなくなった今、この記録が未来への唯一のメッセージになるかもしれなかった。
*「1095年12月25日 クリスマス*
*この世界に来てから、既に一年が過ぎた。最初は戸惑いと困惑しかなかったが、今では心から感謝している。*
*この体験により、私は人間として、そして研究者として大きく成長することができた。性別、時代、文化の違いを超えて、人間の本質的な価値を理解することができた。*
*リシャール、ペトルス院長、マルクス、ロベルトゥス特使——素晴らしい人々との出会いに恵まれた。そして、レオナルドのような若い才能と触れ合うことで、未来への希望を感じている。*
*私の使命は、知識を独占から解放し、全ての人に学びの機会を提供することだった。その使命は、まだ始まったばかりだ。*
*現代の世界がどうなっているかは分からない。しかし、この時代で蒔いた種が、いつか美しい花を咲かせることを信じている。*
*エミリー・ハートウェル改めエミリウス・ハンリクス」*
日記を書き終えると、エミリーは窓から外を見た。雪が降り始めており、修道院の庭は静寂に包まれている。
遠くから鐘の音が聞こえてきた。クリスマスの深夜ミサの時間だった。
エミリーは修道服を整えて、聖堂に向かった。そこには、修道士たちと近隣の住民たちが集まっている。子どもたちの澄んだ歌声が、石造りの聖堂に響いていた。
ミサの最中、エミリーは深い平安を感じていた。ここが自分の居場所だった。この時代、この人々と共に、新しい未来を築いていくことが、自分の真の使命だった。
ミサが終わった後、リシャールが近づいてきた。
「エミリウス、新年の計画について話し合いませんか?」
「もちろんです」
エミリーは微笑んだ。
「来年は、さらに多くの学校を開設したいと思います」
「それから、レオナルドの才能を伸ばすための特別な指導も必要ですね」
リシャールが提案した。
「彼は将来、きっと素晴らしい作品を生み出すでしょう」
エミリーは、友人の洞察力に感心した。リシャールにも、レオナルドの特別な才能が見えているのだ。
「そうですね。彼には、絵画や彫刻だけでなく、工学や解剖学も学ばせてあげたいと思います」
「工学や解剖学?」
リシャールが興味深そうに尋ねた。
「なぜ芸術家にそのような知識が必要なのですか?」
「真の芸術は、美しさだけでなく真理も表現するものです」
エミリーは現代の美術史知識を踏まえて説明した。
「自然の法則を理解することで、より深い作品を創造できるのです」
二人は深夜まで、教育と芸術について語り合った。
翌日から、エミリーたちの新しい活動が始まった。レオナルドのための特別講座、農村部での巡回教育、女性たちのための読み書き教室——革新的な試みが次々と実施されていった。
特に女性教育については、当初は強い反対があった。しかし、エミリー自身の体験——女性の心を持ちながら男性として活動することの意味——を踏まえて、粘り強く説得を続けた。
「知識に性別は関係ありません」
エミリーは村の長老たちに訴えた。
「女性もまた、神から知恵を授かった存在です」
やがて、女性たちの学習能力の高さが実証されると、反対意見も次第に収まっていった。
春になると、各地から見学者が訪れるようになった。エミリーたちの教育改革の評判が、ヨーロッパ各地に広まっていたのだ。
ある日、遠くドイツから来た司教が、エミリーと面会を求めた。
「エミリウス殿、あなたの教育理念について詳しくお聞かせください」
「知識は神からの贈り物です」
エミリーは簡潔に答えた。
「その贈り物を、一部の人だけが独占するべきではありません」
「しかし、無秩序に知識を広めることで、社会の安定が脅かされる危険性は?」
「確かにリスクはあります」
エミリーは認めた。
「しかし、無知による害の方がはるかに大きいのです」
司教との議論は一日中続いた。最終的に、司教はエミリーの理念に賛同し、自分の司教区でも同様の改革を実施することを約束した。
夏の終わり頃、エミリーは一通の手紙を受け取った。差出人は、遠くスペインで活動している元『永遠の叡智の守護者』のメンバーだった。
*「エミリウス様 *
*貴方の指導により、我々の組織は完全に生まれ変わりました。今では、知識の普及と人類の福祉のみを目的として活動しています。*
*スペインでも、イスラム教徒とキリスト教徒の学者が協力して、古代の文献を翻訳する事業が始まりました。異なる文化の知識を統合することで、新たな発見が生まれています。*
*これも全て、貴方が示してくださった理想のおかげです。心から感謝申し上げます。*
*神の祝福がありますように *
*元守護者一同」*
エミリーは手紙を読みながら、深い満足感を覚えた。自分の行動が、確実に良い方向に広がっている。
その年の秋、レオナルドが最初の大作を完成させた。それは、修道院の聖堂に飾られた聖母子像だった。
しかし、その絵画は従来の宗教画とは明らかに異なっていた。聖母の表情には深い人間性があり、幼子イエスの仕草は驚くほど自然だった。背景の風景も、精密な観察に基づいて描かれている。
「レオナルド、素晴らしい作品ですね」
エミリーが賞賛すると、青年は嬉しそうに答えた。
「エミリウス先生から学んだ観察の技術を活用しました。自然をよく見ることで、神の創造の美しさがより深く理解できるのです」
エミリーは、この青年がやがて『モナ・リザ』や『最後の晩餐』を描くことになることを知っていた。そして、自分の指導が、その天才性の開花に少しでも貢献していることを誇らしく思った。
1096年の年末、エミリーは修道院の屋上から星空を見上げていた。第一回十字軍の準備が各地で進んでおり、来年には大きな歴史の流れが始まることになる。
しかし、もはやエミリーに不安はなかった。『永遠の叡智の守護者』の陰謀は阻止され、真の知識の価値が人々に理解されている。歴史は正しい方向に向かっているはずだった。
「エミリウス」
背後からリシャールの声がした。
「こんなところにいたのですね」
「星を見ていました」
エミリーは振り返った。
「この美しい夜空も、知識があることでより深く理解できますね」
「そうですね」
リシャールが隣に立った。
「あなたと出会えて、僕の人生は本当に豊かになりました」
「私も同じです」
エミリーは心から答えた。
「この時代に来て、あなたという友人に出会えたことが、最大の幸福です」
二人は静かに星空を見上げた。
遠い未来のことは分からない。しかし、今この瞬間の友情と、築き上げてきた理想は、確実に存在していた。
それで充分だった。
エミリーは、時を越える旅路の終着点で、真の幸福を見つけていた。新しい時代の扉が、静かに開かれようとしていた。
(了)