第12章:最終対決の準備
館の廊下を静かに進みながら、エミリーは中世の建築知識を総動員して建物の構造を把握していた。貴族の館らしく、居住区域と事務区域が明確に分かれており、重要な文書は恐らく主人の書斎か、地下の保管庫にあるはずだった。
一階を慎重に探索した結果、マルクス・デ・フィレンツェの書斎を発見した。厚い木の扉には鍵がかかっていたが、現代の知識で錠前を分析すると、比較的単純な構造だった。
髪留めの金属片を使って慎重に錠前を操作し、なんとか扉を開けることに成功した。
書斎の中は、おびただしい数の書物と文書で溢れていた。羊皮紙の巻物、革装丁の写本、そして石板に刻まれた古代文字——『永遠の叡智の守護者』が数百年にわたって収集してきた知識の集大成がここにあった。
エミリーは手当たり次第に文書を調べ始めた。大部分はラテン語、ギリシア語、アラビア語で書かれていたが、中には見たこともない古代文字もあった。
しかし、組織の現在の活動について記された文書を見つけた時、エミリーは戦慄した。
『最終計画——神聖帝国の建設』と題されたその文書には、恐るべき陰謀の全貌が記されていた。
『永遠の叡智の守護者』の最終目的は、第一回十字軍の成功を利用して、エルサレムに『新ソロモン王国』を建設することだった。そして、そこを拠点として全ヨーロッパに影響力を拡大し、最終的には世界を統一支配することを目指していた。
計画では、十字軍の主要指導者たちを秘密結社のメンバーが操り、戦争の混乱に乗じて古代の遺跡から『真の知識』を略奪する手はずになっていた。そして、その知識を使って民衆を支配し、『叡智による完璧な社会』を実現するというのだ。
さらに恐ろしいことに、この計画には具体的な期限が設定されていた。第一回十字軍がエルサレムを奪還する1099年までに、全ての準備を完了させるつもりだった。つまり、あと四年しか残されていない。
エミリーは急いで重要な文書を写し取ろうとしたが、その時、書斎の扉が開く音が聞こえた。
「なかなか勤勉ですね、エミリー様」
マルクス・デ・フィレンツェが、数名の護衛と共に現れた。
エミリーは観念した。逃走は不可能だった。
「私の書斎で何をしているのですか?」
マルクスが冷静に尋ねた。
「あなた方の計画を調べていました」
エミリーは正直に答えた。
「そして、それがいかに狂気じみているかを確認しました」
「狂気?」
マルクスが苦笑した。
「我々の理想が理解できないとは、所詮は未来人といえども視野が狭いのですね」
「あなた方は戦争を利用して権力を握ろうとしている」
エミリーは激しく非難した。
「それが『叡智』ですか?」
「戦争は手段に過ぎません」
マルクスが反論した。
「重要なのは、その後に築かれる理想社会です」
「理想社会?」
エミリーは嘲笑した。
「支配者と被支配者に分かれた社会のどこが理想的なのですか?」
「あなたには分からないでしょう」
マルクスの目が狂信的に輝いた。
「我々は神に選ばれた存在です。愚かな民衆を導く使命を帯びているのです」
エミリーは、彼らの思想の根深さを理解した。これは単なる権力欲ではなく、歪んだ選民思想に基づく確信犯的な行動だった。
「エミリー様」
マルクスが声音を変えた。
「最後にもう一度お聞きします。我々と協力する気はありませんか?」
「ありません」
エミリーは即座に答えた。
「私は自由と平等を信じています。特権階級による支配には絶対に反対です」
「残念です」
マルクスは本当に残念そうな表情を見せた。
「では、他の方法を考えなければなりませんね」
護衛たちがエミリーを取り囲んだ。
「殺すつもりですか?」
「いえいえ、そんなもったいないことはしません」
マルクスが手を振った。
「あなたの知識は貴重すぎます。ただ、もう少し『素直』になってもらう必要がありますが」
エミリーは嫌な予感がした。
「何をするつもりですか?」
「古代から伝わる『叡智の秘薬』があります」
マルクスが小さな瓶を取り出した。
「これを服用すると、心が穏やかになり、我々の理想をより深く理解できるようになります」
それは明らかに、意識を操作する薬物だった。
「薬物で人の心を操ることが、あなた方の『叡智』ですか?」
エミリーは軽蔑を込めて言った。
「必要な手段です」
マルクスが護衛に合図した。
その時、館の外から大きな騒音が聞こえてきた。何者かが襲撃を仕掛けているようだった。
「何事だ?」
マルクスが窓から外を見ると、松明を持った武装集団が館を包囲していた。
「教皇庁の騎士団です!」
護衛の一人が報告した。
エミリーは内心でほっとした。リシャールが無事に救援を呼んでくれたのだ。
しかし、マルクスは冷静だった。
「予想していたことです。この館には秘密の脱出路があります」
彼はエミリーの腕を掴んだ。
「あなたには、もう少しお付き合いいただきます」
書斎の奥の壁が回転し、隠し通路が現れた。マルクスはエミリーを引きずって、その暗い通路に向かった。
通路は館の地下深くに続いており、やがて広い地下室に出た。そこには、『永遠の叡智の守護者』の本当の秘密が隠されていた。
地下室の中央には、古代の祭壇があり、その周りには錬金術の器具や魔術的な道具が配置されていた。壁には、様々な時代の魔術的なシンボルが刻まれている。
「これが我々の真の聖域です」
マルクスが誇らしげに宣言した。
「ここで、古代から現代まで続く『真の知識』が保管されています」
エミリーは地下室を見回した。確かに、歴史的に貴重な文物が多数あった。しかし、それらは学術的な価値のあるものというより、迷信や疑似科学の産物のようだった。
「あなた方が『真の知識』と呼んでいるものは、実際には古代の迷信に過ぎません」
エミリーは冷静に指摘した。
「現代の科学は、これらの多くが間違いであることを証明しています」
「科学?」
マルクスが嘲笑した。
「あなたの時代の『科学』とやらも、所詮は物質的な現象を扱うだけの低次元な知識です。我々が扱っているのは、精神と物質を統合した高次元の叡智なのです」
エミリーは、彼らとの根本的な世界観の違いを理解した。これは、合理主義と神秘主義の対立だった。
その時、地下室の天井から土埃が落ちてきた。教皇庁の騎士団が、館の上層部で戦闘を行っているようだった。
「時間がありませんね」
マルクスが決断した。
「儀式を開始しましょう」
「儀式?」
「あなたの意識を我々の理想に同調させる、古代から伝わる秘儀です」
マルクスが祭壇に向かった。
エミリーは戦慄した。これは、洗脳儀式だった。
しかし、その時、地下室の入り口が爆破され、教皇庁の騎士たちが雪崩込んできた。
「エミリー様!」
先頭に立っていたのは、リシャールだった。彼の後ろに、ロベルトゥス特使と武装した騎士団が続いていた。
「よくぞ無事で!」
ロベルトゥスが安堵の表情を見せた。
しかし、マルクスは最後の抵抗を試みた。
「神聖なる叡智の名において、侵入者を排除せよ!」
地下室に隠れていた『永遠の叡智の守護者』のメンバーたちが、一斉に武器を取って立ち上がった。
激しい戦闘が始まった。
しかし、エミリーには別の心配があった。この地下室には、歴史的に貴重な文物が多数保管されている。戦闘で破壊されてしまえば、人類の文化的遺産が永久に失われてしまう。
「皆さん、戦闘を中止してください!」
エミリーが大声で叫んだ。
「ここには重要な歴史的文献があります!」
しかし、戦闘の騒音にかき消されて、声は届かなかった。
その時、エミリーは決断した。クリュニー修道院の地下神殿で体験したような、超自然的な力を再び使う時が来たのかもしれない。
エミリーは祭壇の前に立ち、心を集中させた。
そして、古代の言語で、平和を求める祈りの言葉を唱え始めた。