第11章:罠と脱出
教皇庁との協力関係が始まって一週間後、エミリーは『永遠の叡智の守護者』についての詳細な情報を得た。
この秘密結社は、古代エジプトの神官団に起源を持つとされる組織で、アレクサンドリア図書館の焼失以前から、重要な知識を密かに保存し続けていた。メンバーには、各時代の知識人、貴族、聖職者、商人が含まれ、彼らは表社会での地位を利用して影響力を行使していた。
「彼らの組織図を見てください」
ロベルトゥス特使が、複雑な系統図を広げた。
「各国の主要都市に支部があり、修道院、大学、商業ギルドに潜り込んでいます」
エミリーは系統図を詳しく調べた。確かに、ヨーロッパ全域にわたる巨大なネットワークが形成されていた。
「クリュニー修道院の秘密結社は、この組織の末端支部だったということですね」
「その通りです。そして、彼らは汝の存在を既に把握しています」
左の枢機卿が警告した。
「我々の情報によると、汝を捕獲するための作戦が準備されているようです」
「捕獲?」
「彼らは汝の未来知識を利用したいのです」
ロベルトゥスが説明した。
「特に、錬金術や占星術の分野で、汝の知識があれば大きな利益を得られると考えているようです」
エミリーは苦笑した。現代の科学知識を錬金術と混同するとは、いかにもこの時代らしい誤解だった。
「彼らの計画について、具体的な情報はありますか?」
「近々、汝を修道院から連れ出そうとするでしょう」
右の枢機卿が答えた。
「偽の教皇庁命令を使って、別の場所に移送するという手口が予想されます」
その時、急いで駆け込んできた修道士が、緊急報告をもたらした。
「院長様! 教皇庁からの特使が到着し、エミリウス殿の移送命令を持参されました!」
エミリーとロベルトゥスは視線を交わした。
「予想より早い動きです」
ロベルトゥスが緊張した表情を見せた。
「どうしますか?」
「罠だと分かっていても、拒否すれば疑われます」
エミリーは決断した。
「移送に応じましょう。ただし、十分な護衛をつけてください」
「危険すぎます」
リシャールが反対した。
「相手の正体が分からない以上、何をしてくるか予測できません」
「でも、これは彼らの組織を逆探知する絶好の機会でもあります」
エミリーは戦略的な判断を下した。
「私を追跡できる体制を整えておけば、敵のアジトを突き止められるかもしれません」
ロベルトゥスは熟考の末、エミリーの提案に同意した。
「分かりました。しかし、万が一の場合に備えて、救出部隊を待機させておきます」
午後、偽の教皇特使一行がクリュニー修道院に到着した。彼らは本物の教皇庁文書を巧妙に偽造しており、ペトルス院長でさえ真偽を判定することは困難だった。
「エミリウス殿」
偽特使の指揮官が丁寧に挨拶した。
「教皇猊下が汝の報告を直接お聞きになりたいとのことです。すぐにローマに出発していただきたい」
「承知いたしました」
エミリーは従順を装った。
「準備に少し時間をいただけますか?」
「もちろんです。しかし、日暮れまでには出発したいと思います」
エミリーは個室に戻ると、秘密の手段でロベルトゥスに連絡を取った。合図は、窓に掛ける布の色で伝える手はずになっていた。
夕方、エミリーは偽特使一行と共に修道院を後にした。リシャールも同行を許可され、表面上は通常の移送のように見えた。
しかし、馬車で一時間ほど進んだところで、一行は予定のルートから外れ始めた。
「失礼ですが」
エミリーが指揮官に尋ねた。
「この道はローマに向かうルートではないようですが」
「少し寄り道をします」
指揮官の表情が冷たくなった。
「重要な会合があるのです」
エミリーは心の中で警戒心を強めた。やはり、これは罠だった。
さらに二時間進むと、深い森の中に立派な館が現れた。明らかに貴族の別邸のような建物で、周囲は高い塀で囲まれていた。
「到着しました」
指揮官が宣言した。
「こちらでお待ちください」
館の中に案内されたエミリーとリシャールは、豪華な客間に通された。しかし、扉は外から鍵をかけられ、事実上の監禁状態だった。
「エミリー様」
リシャールが不安そうに呟いた。
「ここは一体どこなのでしょうか?」
「恐らく、『永遠の叡智の守護者』の秘密基地の一つでしょう」
エミリーは部屋を詳しく調べた。窓は鉄格子で覆われ、壁は厚い石造りだった。しかし、暖炉の煙突から外に通じる可能性があるかもしれない。
夜になって、館の主人らしき人物が現れた。
「ようこそ、エミリー・ハートウェル様」
その男は、エミリーの本名を知っていた。
「私はマルクス・デ・フィレンツェと申します。『永遠の叡智の守護者』の一員です」
彼は五十代半ばの貴族で、知的な印象を与える男だった。
「あなたの未来からの知識に、我々は大変興味を持っております」
「私を誘拐して、何をするつもりですか?」
エミリーは毅然として尋ねた。
「誘拐などと物騒な」
マルクスが苦笑した。
「我々はあなたを招待したのです。素晴らしい知識を共有し、共に新しい世界を築くために」
「共に、ですって?」
「そうです。我々は、愚かな民衆を啓蒙し、真の叡智に基づく理想社会を創造しようとしています。あなたの未来知識があれば、その実現が早まるでしょう」
エミリーは彼らの思想に既視感を覚えた。これは、現代でもしばしば見られる選民思想だった。
「私は、特定の人々だけが知識を独占することには反対です」
エミリーは明確に拒否した。
「知識は全ての人に開かれるべきものです」
「それは理想論です」
マルクスが首を振った。
「民衆は愚かすぎて、高度な知識を理解することはできません。だからこそ、賢明な指導者が必要なのです」
「その『賢明な指導者』を決めるのは誰ですか? あなた方自身ですか?」
エミリーの鋭い質問に、マルクスは一瞬言葉に詰まった。
「我々は長い歴史の中で、その資格を証明してきました」
「クリュニー修道院での殺人も、その『資格』の証明だったのですか?」
マルクスの表情が硬くなった。
「あれは……必要な犠牲でした」
「必要な犠牲?」
エミリーは憤りを込めて反論した。
「無実の人々の命を、あなた方の野望のために奪うことが正当化されるとでも?」
「あなたには分からないでしょう」
マルクスが立ち上がった。
「より大きな善のためには、時として小さな犠牲が必要なのです」
「その理屈は、あらゆる独裁者が使ってきた言い訳です」
エミリーは現代の歴史知識を踏まえて反駁した。
「結局のところ、あなた方は自分たちの権力欲を正当化しているだけです」
マルクスは怒りを露わにした。
「愚かな……あなたは自分の置かれた状況を理解していない」
彼は部屋を出る際、警備を厳重にするよう命じた。
その夜、エミリーとリシャールは脱出計画を練った。
「暖炉の煙突を使って屋根に出られれば、何とか逃げられるかもしれません」
エミリーが提案した。
「でも、エミリー様一人では危険すぎます」
リシャールが心配した。
「私も一緒に行きます」
「リシャール……」
エミリーは友人の勇気に感動した。
「ありがとう。でも、君は修道院に戻って、ロベルトゥス特使に状況を報告してほしい」
「そんな、あなたを一人で置いていくわけには」
「これは命令です」
エミリーは厳しく言った。
「君の安全の方が重要です」
深夜、二人は実行に移した。まず、暖炉の煙突を登ってリシャールを屋根に送り出した。彼は森を抜けて最寄りの町まで行き、救援を要請することになった。
リシャールを見送った後、エミリーは別の脱出ルートを探した。彼女の目的は単純な逃亡ではなく、この秘密基地の情報収集だった。
夜中に館内を探索し、『永遠の叡智の守護者』の重要な文書を発見することができれば、組織の全容を把握できるかもしれない。
エミリーは、現代で培ったセキュリティ知識を駆使して、静かに館内の探索を開始した。
この夜が、彼女にとって最も危険で、そして最も重要な夜になることを、まだ知る由もなかった。