3 宿敵
次の日、月曜日。
講義があるので大学へ出向いた。
教室の最後列窓際に腰かけて、窓の外を意味もなく意味深に眺めてみる。
時計台の針が四時四四分を示しているが、今はまだ午前中である。時計台の時計は三ヶ月ほど前から壊れている。しかし修理される気配はなく、いよいよ秘密結社の陰謀を疑わずにはいられない。勉強熱心な学生たちの時間感覚を狂わせ、いち早く家へ帰そうという魂胆だろう。やがて我が国は、勉強したつもりでじっさいは全く勉強できていない人間で溢れかえり、緩やかに滅亡へと向かうだろう。しかし俺がそうはさせない。
「おはよう」
とつぜん声をかけられた。俺の体は反射的にこわばる。
「お、おはよう……」
声をかけてきたのは八ツ崎薫。
小、中、高、そして大学も一緒になってしまった腐れ縁だ。
みんなは俺らのことを「幼馴染のアツアツカップルだねぇ」とか言うのだが、 俺たちは付き合っていないし、そんな感情もない。むしろ俺はこの人物が苦手なのだ。いや、苦手なんて表現じゃ生ぬるい。
俺はこの人物が怖いのだ。
そりゃあルックスはバツグンさ。俺なんかが軽々しく喋っていいのか疑問に思うほどに。
薫は、大きな吊り目が特徴的な美女である。髪は短めで、麗しき首筋を無料で公開している。慢性的な寝不足なのか、いつでも目元には少しクマがあるが、それすらも彼女の美しさを引き立てるために拵えられた装飾と思えてしまう。
どこかアンニュイな雰囲気があって、ニーチェとかハイデガーを愛読してそうな感じ。たぶんしてないけど。
彼女を見て、恐怖を覚える者なんて本来いてはならないのだ。
事実、彼女に寄ってくるスケベ野郎どもは後を絶たない。
でも、よく見てみると、薫の目は普通じゃないのである。
なにもかもを見透かして、やる気になれば目で相手を殺せるような――比喩的な意味じゃなくて、本当に目からビームを出して相手を焼き殺してしまうような――そんな、そんな目をしている。
「隣いい?」
「お、おう……」
薫は俺の隣の席に腰かける。
「五月さぁ、最近付き合い悪いよね」
「え?」
「聞こえなかった? 最近付き合い悪いよね、そう言ったの」
「つ、付き合いですか?」
「一緒に帰ろうって誘っても、断るじゃない」
「ああ、そうかな? ごめん……」
薫はやたら俺と帰宅したがる。
これを普通の人間なら、気があるとでも思うだろう。しかしそれは違う。
「最近ほねほね公園でよく遊んでるあの子、誰?」
見られていたか。
でも当たり前だ。だって、俺と薫はご近所さんだし、 ほねほね公園も家からほど近い距離にあるのだから。
「親戚の子だよ。家が近いんだ」
「ふぅん」
マズイ。
彼女の「ふぅん」は「ダウト」と同義なのだ。つまり俺の嘘がばれている可能性がある、ということ……。
額から汗が噴き出るのを感じる。
「そんな暑い? 今日は涼しいと思うけど」
「いやぁ、朝飯の激辛カレーが今になって効いてきちゃってさぁ……」
「ふぅん」
薫の邪眼が俺を捉える。
いよいよ俺は死を覚悟する。
薫の邪眼がどれほど恐ろしいか――。
邪眼に睨まれたある学生は、三日三晩高熱にうなされ、その後体中にハチミツを塗りたくって「僕プーさん」とわめき散らしながら町中を駆け回ることになった。という夢を見たという。
俺は動悸を鎮めるために、ポケットからメントス(ミント味)を取り出し、食べる。
やはり心を落ち着かせるにはメントスが一番だ……。
ほら、ごらん? 僕の心臓がみるみる静まっていくだろう? 二個食いなんてしたら、きっと心臓が止まってしまうよ――。
けっきょく動悸が静まらないまま講義を受けることになった。
薫は講義終了まで一言も喋らなかった。
しかしノートをバッグにしまって席を立ったあと、「なにか悩みがあるなら、相談しなよ」と冷たく言い放った。
これはつまり、「私に隠し事は通用しない。黙っていても無駄なことだ。 無駄なんだから素直に報告したまえ低脳野郎」という意味だ。
「イエッサー……」
俺は力なく敬礼する。
薫は怪訝そうな表情の残像を置いて、教室を出て行った。
それにしても、と俺は思う。
薫とは長い付き合いなのに、慣れない。実に慣れない。
いったいなぜだろう?
なぜ俺は、彼女をここまで恐れるのだろう?
答えは単純だ。
薫の内なる悪魔を見たあの日から、俺は彼女に対して恐怖を覚えるようになったのだ。
そう、あの日――。