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とある伯爵令嬢の諦念とそれから。

作者: 藤野


「……は?」

 それは鋭利な拒絶だった。

 ダニエルは「やっぱりね」と思った胸中を取り繕うようにへらりと笑う。

 胡乱気な友人の視線が更に鋭さを増した。

「なんて言いました?」

「来月の僕の誕生日に恋人のふりしてほしいって言った。女装で」

「女装で」

「うん。女の子のふりで恋人のふりをしてほしい」

「バカですか」

 再度の拒絶。

 取り付く島もないが、ダニエルは諦めるつもりはなかった。

 踵を返して去ろうとする友人の進路を両手を広げて塞ぐ。

 不機嫌そうな唇がへの字に結ばれた。長い睫毛に縁取られた金の双眸がギッとダニエルを見据える。

「母方の祖母が訪ねて来るんだよ。少し視力も落ちてらっしゃるし、夜だから多少の違和感は誤魔化せると思う。君はいつも通り僕と仲良くおしゃべりしてくれてたらそれでいいんだ。頼むよ、ジョシュ」

「……どうして恋人役が必要なんです」

「僕がこの学園に留学してるのはお祖母様の意向なんだ。祖父母はここで出会って結婚したから、僕にもそうしてほしいらしい。もうすぐ三年生になるのに恋人の一人もいないなんて知られたら、勝手に決めた婚約者とか連れて来かねないんだよ」

「いっそ勝手に決めてもらってください」

「ジョシュぅ、そんなこと言わずに助けてよぉ」

「泣き真似をするな鬱陶しい」

 追い縋るダニエルを無視してジョシュアは歩き出した。

 苛立ちを隠さず打ち鳴らされる靴音さえも整って聞こえる。

 金髪金眼の、ダニエルから見れば線が細く中性的なこの友人は、すらりと伸びた手足のその美しい体躯を維持するのにさほど難儀していない。

 むしろこれっぽっちも糖分やら脂質やらを気に留めることがない。

 そしてかなりの甘党である。

 この二年。ジョシュアを一番近くで見て来たのは己だと自負するダニエルは、袖の下という名の攻撃を遠慮なく展開することにした。

「――プリマヴェーラのケーキ。食べ放題」

 案の定、ジョシュアの足がぴたりと止まる。

 初撃は成功のようだ。休むことなく追撃を開始する。

「カフェ・ド・ランウェイのランチ。半年……いや、一年分。ベーカリー・ハナの限定デザートボックス。毎週買ってあげる。店名なんだっけ。君の好きな定食屋の大盛りパフェ。好きなだけ食べて。近所のパティスリーのチョコも好きだよね。用意する」

 ゆっくりと振り返る友人の瞳から鋭さが消えている。

 不愉快そうな口元は怒りよりも呆れが勝っていると見た。

 よし。この調子で最終防衛線も突破する。オーバー。

「ウチのシェフのクリームチーズケーキ。褒めてくれたでしょ? ロバートが喜んじゃって。君が来るときは絶対お出しするって、はりきってたよ」

 ここ最近でこの友人に一番ヒットしたのはこれだ。

 ウチのシェフ、ロバートのクリームチーズケーキ。

 これ一本で店が出せると珍しくジョシュアが褒めちぎっていたので本人に伝えたところいたく感動していた。

「……一度だけなら」

「よっしゃ!」

 難攻不落の砦を攻略したダニエルが拳を握る。

 やれやれと溜息を吐くジョシュアは非常に面倒臭そうにしながらも苦笑してくれた。なんだかんだ言いつつ優しいし、困った時には助けてくれる良い友人なのである。

 ダニエルはにまにまと笑いながら「ドレスは何色かなー」とさっそく友人を着飾る算段を始めた。

「君なら恋人役を募ればそれこそ掃いて捨てるほど集まるでしょうに」

「外灯に群がる蛾なんてお断りだよ。一度の演技でそれ以降も恋人面されそうじゃん。面倒臭い」

「君はそこそこ性格が悪いのにどうしてモテるんでしょうね」

「ははは。ジョシュは冷たいふりして実は優しいよね」

「お祖母さんを騙すなんて心が痛まないんですか」

「大丈夫、大丈夫。ジョシュなら完璧。おばあちゃんも気に入ってくれる」

「ご年配の方にはもっと小さくて可愛い方が好まれるのでは?」

「確かにジョシュはその辺の女の子よりは背が高いけど、言うほどガッチリもしてないし。なんなら僕と並べばすんごいお似合いじゃない?」

 ほら、と肩を抱いて窓ガラスに映る二人を指差す。

 ダニエルには似合いのカップルに見えたが、ジョシュアは嫌そうな顔をしてぺっと肩の腕を払い落とした。

「……――必要な一式を揃えたらウチに届けてください。支度はこちらで」

「ウチで着替えても大丈夫だよ? メイドたちだっているし」

「結構です」

「そう、分かった。じゃ、すぐ準備するね。諸々の設定とかも考えなきゃ」

「……絶対、一度きりですよ」

「はいはい。分かってるよ」

 ジョシュア・マーカス・バーンスタイン。

 当代バーンスタイン伯爵の甥であるジョシュアは、男児に恵まれなかった伯爵の後を継ぐため、伯爵の娘と結婚して婿入りすることが決まっている。

 貴族のみならず血筋を存続させる必要のある家には「よくある話」だが、入り婿にとっては妻や義両親に生涯頭が上がらない結婚になる可能性が高い。

 それでもいいから爵位を継ぎたいという貴族生まれの男は山ほどいるが、ダニエルの友人はそうではなかった。

 ――結婚後は領地運営のみに注力します。政界や社交界に顔を出す予定は皆無です。

 座学は学年首席。

 剣術や魔術の実技も常にトップクラスの成績を誇るジョシュア・バーンスタインは早々に「卒業後は領地に引きこもる宣言」をして周囲を驚かせ、落胆させた。

 容姿端麗で頭脳も明晰な彼は必ずや社交界を賑わせる存在になるだろうと期待されていたのだ。

 彼は「ちょっとくらい遊べば?」という友人らの誘いを「面倒臭い」と一蹴してしまう冷めた人物だった。敷かれたレールの上を歩くだけの人生において「将来への夢や希望なんて語るだけ無駄だ」と吐き捨てる始末である。

「名前はどうしようか。できれば実在するけどおばあちゃんには絶対会わないご令嬢がいいんだけど」

「なんですかそれ。死人?」

「別にそれでもいいけどねえ。君の婚約者は? 学園に入学しないってことは王都には来ないってことだよね?」

「さあ。気まぐれですから」

「やっぱり行くことにした、とか言い出す可能性があるわけか。んー……それじゃあそのお姉さんは? 婚約者もいないし、ずっと家に引きこもってるって話じゃなかった?」

「……君はどうやって引きこもりと出会うんですか」

「実際にどう暮らしてようが構わないんだよ。ちょっと調べられたときに“確かに存在するお嬢さんだ”って分かるなら」

「調べられる可能性が?」

「あくまで可能性の話。そこまではしないと思うけど」

「面倒臭いな」

「そんなこと言わないでよジョシュ。ほらほら。そのお姉さんの名前は?」

「……ガートルード」

「じゃあ、ガーダ。ガーディのほうが可愛いかな。バーンスタイン伯爵令嬢だね。出会いは僕とジョシュのそのままで行こう。できるだけ嘘は少ないほうがボロが出ないし。変声魔導具は持ってる?」

「……あります」

「意外。あるんだ。実は女装趣味とか」

「お祖母さんに手紙を書いて差し上げましょうか。お宅のお孫さんアホなこと企んでますよと」


「ごめんなさいお願いやめてジョシュぅ」



***



 女神が舞い降りたのだと、本気でそう思った。

 ため息交じりの「迎えに来なくていいと言ったのに」というジョシュアのぼやきなど耳に入らない。

 少し裾の絞られた流行のドレスは長身の彼に似合うはずだと思っていたが、こうも着こなしてくれるとは嬉しい驚きだ。変声用の魔導具を仕込むための喉周りを隠すデザインはお堅い印象ではあるが、それも凛とした彼の佇まいに良く映えていた。

 控え目な赤の乗った唇も、艶やかに塗られた爪先も、何もかもが輝いて見える。

「……選んだのは君です。似合っていなくても文句は言わないでくださいよ」

「はっ! いや、いやいやいや。ごめん。意識がどっか宇宙を彷徨ってた」

「宇宙」

「すごく似合ってる。世界一の美女は君だって時計塔のてっぺんから叫びたいくらいキレイだ」

「かなり複雑ですが、まあいいです。今夜はお誕生日様の言う通りにしましょう」

「――……っ」

「なにか」

「声も、可愛い……!!」

 こいつ情緒大丈夫か。

 ジョシュアの声なき視線がダニエルの頬に突き刺さる。

 気を取り直すように咳払いしたダニエルは、後方に控えていた執事からベルベットの貼られた箱を受け取って開く。

 ドレスに合わせて大急ぎで作らせた品の良いイヤリングが並んでいた。

 見るからに高級そうなそれに金の瞳が不機嫌そうに細められたが、ダニエルは無言の抗議を笑顔で受け流した。

「こういう耳飾りは持ってないだろうと思って」

「……茶番相手にやりすぎでは?」

「やるならとことんやらなきゃ」

「はあ。そうでした。君はそういう人ですね」

 ちょっと持ってて、と箱を渡されたジョシュアは諦めてされるがままとなった。

 慎重な手つきで友人の耳を飾る男は鼻歌交じりで実に楽しそうだ。

 まあ、年に一度のお誕生日様だからなー。

 胸中でもう一度諦めの言葉を吐くジョシュアの耳に、不穏な足音が聞こえた。

 近付くそれはやや小走りしており、さほど体重のない人物の履く踵のある靴だということが分かる。

 出発前に面倒なことになりそうだ。

「ちょっと! どういうこと?!」

 金切り声に近い少女の怒声が玄関ホールに響き渡る。

 階段を駆け下りて来た彼女は、今まさにデートに出かけますと言わんばかりの二人の姿に思い切り眉根を寄せた。

「お友達と夕食を食べるだけって言ってたわよね?!」

「その予定に変更はありませんが」

「じゃあなによ、その格好!」

「一言で言えば、茶番……?」

「冗談でそんな高そうなドレスを着てるって言うの」

「ええ、まあ」

「それにこんなに素敵なお友達がいるだなんて聞いてないわ。どうして紹介してくれないの!」

「……必要ですか?」

「本当に使えない人。気が利かないんだから!」

 使用人を叱責するかのような態度を一変させ、少女はころりと笑顔でダニエルを見上げる。

 だから迎えには来るなと言ったのに。

 ジョシュアは今度こそ深々と溜息を吐いた。

 何もかもが面倒くさい。まだ何もしていないがドレスを脱いで髪を解いて化粧を落とし風呂に入ってベッドに飛び込みたかった。

「はじめまして。わたくしバーンスタイン伯爵の次女でオリーヴィアと申します。久しぶりに王都へ来てあなた様のような素敵な方にお目にかかれて光栄ですわ。ぜひわたくしとも親しくお付き合いくださいませ」

 猫なで声で微笑んでオリーヴィアはすっと手を差し出す。

 好意的な言葉が返って来ると信じて疑わない彼女を、ダニエルは冴え冴えとした目で見下ろした。

 ジョシュアの「頼むから穏便に」という意図の視線に気付いているだろうに、変なところで子どもじみた性格を発揮する友人はオリーヴィアから顔をふいと逸らす。

 挨拶をしたくない、言葉を交わしたくない。そんな拒絶の態度にオリーヴィアは驚いて目を丸くする。

「あの……よろしければお名前を」

「バーンスタイン伯爵の次女殿はジョシュアの婚約者だと記憶しておりますが、違いましたか」

「え。ええ、はい。その通りですが」

「ではなぜジョシュアの友人相手にその婚約者だと名乗らないのですか。身軽であるふりをして初対面の独身男性に“親しく”なさろうとするとは。あまり褒められたことではありませんね」

「っ、そ、のような誤解を招く態度だったとしたら、申し訳ございません。わたくしが至りませんでしたわ」

「誤解――ならば良いのですが。失礼だが話している暇はない。本日のゲストは時間に厳しい方でね。行くよ、ジョシュ」

 外に出た二人は閉じられた扉の向こうからヒステリックな罵声と、何か陶器のようなものが割れる音を聞いた。

 きっと花瓶だな。床に傷が付いてないといいけど。

 ああ、面倒臭い。

 ジョシュアはげんなりと肩を落とした。

「話には聞いてたけど、色々すごいね、君の従妹」

「分かっているなら煽るようなまねをしないでほしかったです」

「だーって。普段は君しかいない屋敷に件の婚約者が遊びに来てるなんて聞いたら、そりゃ見てみたくもなるでしょ」

「口を尖らせるな鬱陶しい」

「たまの君の辛辣なツッコミが実は好きなんだよ僕」

「……被虐趣味が?」

「え。そこは引くんだ。ないよ。そんなんないから!」

 走り出した馬車の中でジョシュアは隣に座ったメイドから包みを受け取る。

 形や厚みから本だろうなとあたりを付けたダニエルに「お誕生日おめでとうございます」とその包みが渡された。

 これといったラッピングもなくリボンすらかけられていない。

 ジョシュアらしいシンプルなプレゼントにダニエルは思わずくすりと笑いをこぼした。

「開けていい?」

「どうぞ」

「なにかなー…って、お? これは、もしや! ララ・ゾーの絶版本じゃないか。しかも初版! よく手に入ったね」

「私の古書店巡りも中々バカにできないでしょう?」

「散歩がてらっておじいちゃんかよとか言ったけど、謝罪して訂正します」

「よろしい。謝罪を受け入れます」

「嬉しいなあ。ありがとう。大切に読むね」

「ふふ。――はい」

 ああ可愛い。

 ジョシュの含みのない微笑み。超レア。

 ダニエルの何かに耐えるかのような呟きはジョシュアの耳には届かず、その隣に座ったメイドのメルだけが不憫そうな視線を寄越した。

 その視線に気付いたダニエルはやや小首を傾ぐ。

 ジョシュアはダニエルの家を度々訪れているが、同行者がいるのは初めてのことだった。

「メルはお目付け役?」

「“お嬢様”をお一人で未婚の男性宅に向かわせるわけにはまいりません」

「なるほど。そうだね」

「ごめんねメル。私が阿呆な友人の阿呆な誘いに乗ったばかりに」

「いいえ、ガーダお嬢様。久しぶりに腕が振るえてメルは嬉しゅうございました。たまの阿呆にお付き合いなさるのも良いかと存じます」


「……君たちアホアホ言い過ぎじゃない?」



***



「それで、ガートルードさん。貴女バーンスタイン伯爵の長女なのでしょう? けれど次期伯爵は妹婿だとか。それはなぜ? 差し支えなければ教えていただけるかしら」

 フォークとナイフで優雅に白身魚にソースを絡めた老婦人がなんでもないことのように問う。

 それはつまり、おまえの血筋は確かなのかという不躾な質問だ。

 普通の会食の場であればまず間違いなく憚られる類の話題である。

「お祖母様」

「お黙りなさいダニエル。私は今あなたの恋人と話をしています」

「ですが」

「ダニエル様。アルムグレーン侯爵夫人のご心配は当然のことです。わたくしは伯爵の長女でありながら他に嫁ぐ予定もないのに家督相続の候補から外されているわけですから」

「ガーディ……」

 フォークを置いて果実酒で喉を潤わせたガートルードは真っ直ぐに老婦人の視線を受け止めた。

 言えません、では納得してくれないだろう。

 恋人がいると分かればいいとダニエルは言っていたが、この老婦人はその恋人が可愛い孫に相応しいか否か見定めようとしている。

 面倒臭いことこの上ない。

 デザートのケーキは是非ホールで提供してほしい。

「単刀直入に申し上げれば、わたくしが可愛くないからです」

「あら。それはおかしいわ。貴女の容姿はとても優れているもの」

「ありがとうございます。ですが両親にとっては表に出さず生涯飼い殺しにしようとする程度には可愛くない娘なのです。両親が人に話すわたくしの評判をご存知でしょうか」

「いいえ」

「長女は醜女でありながら、天使のように愛らしい次女に嫉妬し虐げる悪魔のような娘なのだそうです。まともに読み書きもできぬ上に何をやらせても満足に覚えることがないので、他所様のご迷惑にならぬよう一生屋敷から出すことはない、と吹聴しております」

「……貴女のご実家に問題があることは分かったわ。それで、貴女は卒業したらどうなさるおつもりかしら。まさか孫と結婚できるとお思い?」

「お祖母様!」

「わたくしはどなたとも結婚は考えてはおりませんし、家に帰る気もありません。卒業後はバーンスタインの名を捨て、いずこかの地で細々と暮らすつもりです。幸いにもある程度の才は持ち合わせておりますので、なんとかやっていけると思います」

「ご両親はそれを許すかしら」

「成人と同時に実家との絶縁を申し立てる準備は整っています。伯爵領に報せが届くころにはわたくしはこの国にはおりません」

「……そう。孫との恋人関係は遊びということね」

「ダニエル様にはお目にかけていただき感謝こそすれご迷惑をおかけすることはないと誓って申し上げます。侯爵夫人のご心配には及びません」

「いいわ。その言葉信じましょう」

 私は先に休ませてもらいます。と老婦人が席を立つ。

 食堂の扉が閉まるのを待って、ダニエルは深々と溜息を吐いた。

 話が違う。

 祝いに行くついでに恋人に会わせろと言うから従えばこれだ。

「ごめんジョシュ。気にしないでいいから」

「とりあえず君がお祖母さんについて何も分かっていないことが分かりました。なにが“ジョシュなら完璧。おばあちゃんも気に入る”ですか」

「ごめんてば」

「……君を愛しているんでしょう。だから心配なんです。良いお祖母さんじゃないですか。大事にしてください」

「はああぁぁ。ほんと良い子」

「……何目線?」

「恋人」

「うわ。即答した」

「うわって何。ねえ、なんでそこ引くの。ねえ」

 すんすんと鼻をすするまねをするダニエルを無視して、友人は食事を再開する。

 もぐもぐと口を動かす横顔は可愛らしいが本当に泣きたくなってきた。

 ダニエルは気を取り直すように別の話題を振る。

「君、ガートルード嬢の解像度がいやに高くない?」

「……全部本当のことですよ。ガートルードは飼い殺される未来を厭って国も家も捨てるつもりでいます」

「ふうん。どうしてバーンスタイン伯爵夫妻はそんなにガーディが憎いのかねえ」

「自分より娘の方が剣も弓も上手く領地運営の才に長けているなんておもしろくないでしょう。夫人も彼女を見ていると劣等感に駆られるそうで」

「ええぇ。優秀過ぎて気に入らないってこと? なにそれ」

「懐かず愛嬌もなく世辞も言わない。可愛げがないのは確かです。男であればそれも良かったが女なら最悪だとは夫妻の口癖でした」

「うーん。女性への偏見と固定観念の凝り固まったご夫婦のようだ」

「……彼女を助けてやれとは言わないんですね」

「言わないよそんなこと。ジョシュアの立場は分かっているつもりだ。どちらかと言うと僕は大切な友人である君のほうを助けたい」

「お気になさらず。私は一人でも大丈夫です」

「まあ、そうなんだろうけどねえ」

「……?」

「ふふ。なんでもないよ。いっぱい食べて」

 デザートはシェフであるロバートが満を持して運んで来た。

 ジョシュア坊ちゃ、おっと、今宵はガートルードお嬢様でしたねとにっこり微笑んだロバートが、テーブルにそっと皿を置く。

 お気に入りのクリームチーズケーキがホールで提供されたガートルードは金の双眸をきらきらと輝かせていた。

 あー可愛い。めっちゃ可愛い。マジで可愛い。

 ダニエルの呟きはやはり友人の耳には届かず、ロバートがこっそり苦笑する。

「ああ、そうでした。ダニエル」

「うん。なあに」

「十五分ほどで構わないのでどこか部屋を貸してもらえませんか」

 ご満悦の様子でケーキを頬張る友人をガン見していたダニエルは軽く小首を傾いだ。

 十五分と言わずなんなら泊って行けばいいと言いかけて、今の友人は伯爵令嬢だったと思い出す。

 未婚の令嬢を朝帰りさせたなどと知られれば祖母からどんな鉄槌が下されるか考えただけでも恐ろしいので慌てて口を噤んだ。

「着替えたいのですが」

「……えっ。もしかしてそのドレス僕に返すつもりでいる?!」

「こんなドレスや耳飾りを持ち帰ればオリーヴィアに強奪されて二度と戻りません。私は彼女に貢ぎたくないので、できれば引き取ってもらいたいです」

「なるほど。メルの大荷物はそういうことか。オーケー分かった、預かるよ。ウチに君のクローゼットを作るね」

 それは要りません。

 即答した友人は食事を終えるとあっという間にシンプルなドレスに着替えてしまった。

 ロバートに土産を渡されこれまた嬉しそうに笑う顔が可愛い。

 お菓子作りを習うべきだろうか。ダニエルは真剣に考え始めた。

「それではダニエル様。今宵はありがとうございました」

 玄関に見慣れぬ使用人がいることに気付いた友人が令嬢然と膝を折る。

 正解だ。あれは祖母の侍女なので、見聞きしたままを彼女に伝えるだろう。

「こちらこそありがとうガーディ。また学園で」

「はい」

 にこりと微笑むガートルードの頬に軽くキスをする。

 焦る様子もなく彼女もまたダニエルの頬にキスをした。

 どこからどう見ても“恋人”でしたよ坊ちゃんと執事に褒められ、その夜のダニエルは満面の笑みで眠りについた。



***



「ジョシュア。休みの日まで勉強か? みんなで泳ごうぜ」

 ダニエルの誕生日から数か月。

 季節は夏になっていた。

 この夏季休業が明ければジョシュアたちは三年生、進学予定のない者にとっては学生最後の年が始まる。

 ひりつく日差しを避けて木陰で本を読んでいたジョシュアは、川辺ですでに半裸になっている友人たちに目を遣って首を横に振った。

「悪いけど」

「こんなクソ暑いのにかっちり着こんじゃって。どこのご令嬢だよ」

「エリック」

「お。ダニエル。おまえも泳がないか? ジョシュアのやつ付き合いが悪くてさ」

「エリック。ここだけの話だけどねえ」

「おう」

「運動神経抜群のジョシュア君にも不得手の一つや二つはあるんだよ」

「え。まさか」

「そう。そのまさかさ」

 うひゃー、とどこか嬉しそうな声を上げてエリックは仲間たちのところへ駆けて行く。「みんな聞いてくれー。あのジョシュアがなんとカナヅチなんだって!」大声で叫ばれたジョシュアは眉間にしわを寄せるが、友人たちはそんなまさかとやはり嬉しそうに騒いでいる。

 ここだけの話って言ったのにねえ。やれやれと肩をすくめるダニエルをジョシュアはぎろりと見据えた。

「泳げないなんて言ってません」

「泳げるの?」

「……泳いだことがないだけです」

「ふふ。まあまあ。パーフェクトな学年首席様にもできないことの一つくらいあったほうが親しみやすいって。ところで――」

 ダニエルが視線だけで後方を示す。

 見慣れない人影がこちらの様子を窺っているようだった。

 年頃は同じくらいに見える。

「知り合い?」

「いいえ」

「さっきからずっと君を見てるんだよね、彼」

 やや凄みのある笑みを浮かべてダニエルは振り返った。

 目が合った瞬間にびくりと肩を揺らした不審者はどうしようかと逡巡したらしいが、観念したように意を決して近付いて来る。

 額に汗をにじませた小柄な男だった。

 年はダニエルと一つ二つしか違わないだろうが、身長差のせいで大人と子供のようにさえ見える。

「け、ケン・ペベレルといいます。ジョシュア・バーンスタイン殿にお目にかかりたく……」

「ここ学園の所有地なんだけど、許可はあるの? ない? どーせ制服に似せた格好して潜り込んだんでしょ。はいアウト。警備員さん呼びまーす」

「ちょ、ちょっと待てよ。あんたには関係ないだろ!」

「ジョシュは優しいからね。おまえみたいな不審者相手でも話を聞くくらいはしてあげちゃうんだよ。ありえないでしょ。だから僕が露払いすんの。ちなみにだけど僕これでも伯爵だから。君の家が貴族じゃないなら普通に不敬罪で処すよ?」

「ボクはガートルード・バーンスタインの婚約者です! ジョシュア殿と話す権利くらいあるはずだ!」

 ケンと名乗った男は気は弱そうだが甘やかされて育った子ども特有の不遜さが見え隠れする態度でダニエルを睨み上げた。

 見れば質の良い服を着ている。

 裕福な一般家庭の箱入り世間知らず。

 ダニエルは一目でその男をそう評したが、おそらく間違ってはいないだろう。

 親の七光りに頼りきりの小物感が全身から滲み出ている。

「だってさ。ジョシュ、知ってる?」

「知りません。ですがペベレルという名には覚えがあります。違法すれすれの怪しい家業で財を成したとか。おおかた貴族の娘を嫁にするというステータス欲しさに親御さんが大枚を叩いたのでしょう」

 つまりバーンスタイン伯爵夫妻は大金欲しさに怪しい家に娘を売ったということだ。結婚相手を宛がうことで、ガートルードが他所へ行けないようにする目的もあるのだろう。

 食うに困った貴族ならばそうせざるを得ないこともあるだろうが、バーンスタイン伯爵家にはある程度の余裕があるはずだ。ダニエルは内心で見も知らぬ伯爵夫妻に舌打ちをした。

「何を言われようとガートルードはボクの正式な婚約者です。ジョシュア殿と二人で話をしたいのですが」

「そんなの許すわけないでしょ。言いたいことがあるならここで言いなよ」

「チッ。……バーンスタイン伯爵からの伝言です。――おまえの企みなどお見通しだ。死ぬまで我が家のために働いてもらう――だそうです」

「……すごい。物語中盤で消える小悪党みたいなセリフ」

「喚くだけ喚いてあっけなく死ぬ役ですね」

「そうそう。今時そんな脅しをこんなか弱そうなメッセンジャーに託す? もしかして何か裏があったりしない?」

「ミステリ小説の読み過ぎでは?」

「事実は小説より奇なりって言うじゃない」

「まあ、どなたもご存知ないのでしょうね」

 何を? というダニエルの視線を受けてジョシュアがゆっくりと立ち上がる。

 だいぶ上から見下ろされ、ケンは二、三歩後退った。

「いざとなれば“ガートルードは”バーンスタイン領を更地にできる程度の魔術と覚悟の持ち主である、と」

 金色の双眸に冷たく見据えられたケンは更に数歩後退る。

 ケンにとっては大役だった。

 ガートルードという名の女と、ただ“貴族の家から娶った”と自慢するためだけに結婚する。大役だが、容易い役だとも思っていた。

 醜女で悪魔のような女と噂されていたが、実際は優秀だがつまらない女らしい。家も立場も何もかもを愛らしい妹に奪われた惨めな女だ。御するは容易いと言われたし、そう思っていた。

 だが今、ケンを見下ろす美しい金色は告げている。

 ――おまえにその役は務まらない、と。

「ぼ、ぼ、ボクを脅迫するのか! ボクはおまえの秘密を知っているんだぞ!」

「それは私の秘密ではなくバーンスタイン伯爵の(はかりごと)でしょう。今ここで暴露されたところで私自身は痛くも痒くもありませんが、あなたは相応の罰を受けることになるのでは?」

「は、伯爵に報告するからな!」

「どうぞご自由に。ちなみにこの人。先ほど伯爵と言いましたが、後々は隣国の公爵位を継ぐ人です。バーンスタイン伯爵家では庇い立てできませんから、本当に首が飛びますよ。あまり囀らないほうが身のためです」

「なっ?!」

「もー。ほんとジョシュは優しいねえ。そんなこと教えてあげなくていいんだよ。こんなの勝手に喚き散らして勝手に消えてく小悪党なんだから」

「う、わあぁぁぁ」

 情けない悲鳴を上げながら逃げて行く背を見送るでもなく、ダニエルとジョシュアは溜息を吐いた。

 生温い風が吹いている。

 遠くの川で水遊びをしている友人たちが恨めしかった。

「秘密って?」

「さあ。どれのことやら」

「そんなにあるの?」

「君にはないんですか?」

「そりゃまあ、多少はあるけど」

 歩き出したジョシュアに続いてダニエルも足を踏み出す。

 眩しそうな友人の(ひさし)になろうと位置を入れ替われば「どうも」と少々不機嫌そうなお礼の言葉が聞こえた。他人に親切にされ慣れていないこの友人の照れ隠しだと知ってるダニエルはにんまりと笑って「どういたしまして」と応える。

「オリーヴィアの耳にも入るでしょうね」

「ん?」

「君が後の公爵様だと。また煩くなるかもしれません。先に謝っておきます」

「あんまり頭の回る子じゃなさそうだったし。どうとでもなるでしょ」

「念のため言っておきますが殺さないでくださいね。修道院送りもなしです」

「え。なんで。別に好きじゃないでしょ?」

「あの子は嫌いですがいてもらわなければ困ります」

「それはガートルードのため?」

「私のためです。せめて卒業するまでは現状維持でお願いします」

「……ねえジョシュ。僕を頼ってはくれないの」

「……迷惑をかけない約束ですから」

「それは……――寂しいね」

 ふと立ち止まったジョシュアに合わせてダニエルも立ち止まる。

 どうしたのと振り返れば、金の双眸が少しの驚きを乗せてダニエルを見上げていた。

 夏の日差しが暑い。

 建物の影を通り抜けて来た風はほんのわずかに冷たかった。

 鍛練の行き届いているジョシュアは体温の変化で顔色など変えないし、汗もかかない。

 だからダニエルの気のせいではなかったと思う。

 ジョシュアの頬がほんのり朱に染まっていたのは。


「あー可愛い。ほんと可愛い。ほっぺにチューしても眉一つ動かさなかったくせに寂しいの一言で照れちゃうなんて。もー絶対連れて帰る。抵抗されても掻っ攫う。これ決定。確定事項。爺や、本家にもそう伝えといて」

 ソファでクッションを抱きしめながらダニエルが上機嫌にはしゃいでいる。

 誘拐は犯罪ですといちいち窘めていたがまったく聞く耳を持たないので、今やもう使用人全員が完全にスルーしている状態だ。

 本日帰宅してから何度となく繰り返されるダニエルの惚気話は微笑ましい気もするが、拐かされる予定のご友人には申し訳ない。

 ――変われば変わるものだ。

 長くダニエルに仕えている老執事は内心で独り言ちた。

 二年前からすると別人のように明るく笑うようになった。

 かのご友人には申し訳ないが、好物であるクリームチーズケーキをいつでも作れるように準備しておくので、ぜひ拐かされてもらえないだろうか。

 老執事は苦笑して小さく頷いた。



***



 季節は晩夏。

 秋に差し掛かろうという頃。

 ダニエルたちは三年生に進級していた。

「……――最近やたら不機嫌だと思えば」

 ダニエルはジョシュアの持参した手紙を読み終え、もう一度繰り返し読んで、長い足をゆったりと組み直した。

 その手紙はバーンスタイン伯爵令嬢ガートルード宛て。

 差出人はダニエルの祖母、アルムグレーン侯爵夫人だ。

 文章自体は当たり障りのない内容だが「孫抜きでお話ししたいわ。いつでも我が家へいらっしゃい」というアルムグレーン侯爵領への招待状が兼ねられたものであった。

 隣国の侯爵夫人がガートルードを気に入り招いている。

 バーンスタイン伯爵家がにわかに騒がしくなっただろうことは想像に易かった。

「これ、バーンスタイン領のご実家に届いたってことだよね?」

「はい」

「伯爵夫妻もオリーヴィアも読んじゃったわけだ」

「はい」

「それで、君の家に三人が押しかけて来た、と」

「はい」

「なるほど。君が最高に不機嫌な理由は分かった」

 眉間にしわを寄せ口をへの字に曲げたまま、友人は無言で頷く。

 その金の双眸には確かに静かな怒りが滲んでいた。

 彼は大抵のことは「へえ」「そうですか」と流して気にしない人だが、おそらく「面倒臭い」が積もりに積もってついに怒りに達してしまったのだろう。

「三人はなんて?」

「オリーヴィアがガートルードを名乗ってお伺いするそうです」

「いや、無理でしょ。身長も体格も声も、何もかも違いすぎる。おばあちゃんだってそこまで耄碌(もうろく)してないよ」

「おそらく私の正体をバラした上で自分が本当のガートルードだと言い出すつもりでしょう。君に会わせろと煩いので、先に侯爵夫人へ渡りをつけてほしいのだと思います」

「僕がそんなこと了承すると思ってんのかな」

「知りませんよ。侯爵夫人と何を話したのあの時のドレスを寄越せだの未来の公爵閣下にオリーヴィアを売り込めだの、本当に、ありえないくらい、鬱陶しい! 身の程を知れと何度手袋を叩きつけてやろうと思ったことか」

 カチャンとやや乱暴にティーカップがソーサーに戻される。

 これは相当に鬱憤が溜まっているようだ。

 普段から歯に衣着せぬ物言いをする友人ではあるが、基本的にあまり強い言葉は使わない。親しい友人たちに対し苦笑交じりに鋭利なツッコミをくれることはあっても、まさか決闘を申し込む(手袋を叩き付ける)なんて冗談でも言う子ではないのだ。それが「身の程を知れ」とは。

「どうやって三人を追い返したの」

「何も知らぬ素振りをすべきだと諭しました。私がここでガートルードとして夫人と会食したことを知らないことにしたほうが得策だと」

「ははあ。招待状を持ったオリーヴィアが何食わぬ顔で“初めましてガートルードです”と名乗るワケか。そのほうがお祖母様に偽ガートルードを紹介した僕の弱みを握れる可能性もあるね」

「ガートルードとして侯爵夫人に取り入るつもりなら、先にペベレルのことをどうにかすべきだと言ったら慌てて帰って行きました」

「例の小悪党か。金で売られたり買い戻されたり。ガーディはほんとかわいそうな子だね。オリーヴィアの演技が上手く行ったら、今度は彼女がオリーヴィアのふりをしてジョシュの婚約者になるってこと?」

「そうなるでしょうね」

「君も大変だ」

「アルムグレーン侯爵夫人は君と私の悪戯が露見したところでさほどお怒りにはならないでしょうが」

「まあ、すんごい呆れられはするだろうけどね」

「問題は“婚約を破棄してまで招きに応じたのに別人だから帰れとは無礼が過ぎる”と厚顔にも抗議するだろうバーンスタイン伯爵家のバカ共です。どうしたものかと悩んでいましたが、私、気付いたんです」

「うん?」

「私はダニエルには迷惑をかけないと約束しましたが、アルムグレーン侯爵夫人については明言していません。諸悪の根源は夫人の手紙なわけですから、もう別に、いいかなって。夫人にちょっとくらい、迷惑かけても」

「……君、相当疲れてるね」

 ちなみにあの時のドレスはダニエルが借りて来たもので今はどこにあるか不明だしそもそもおまえには色もサイズも丈も合わないから諦めろと伝えてあります。

 一息に言ったジョシュアがクッションを抱きしめて項垂れる。

 ぺしょっとしおれた猫耳の幻影が見えてうっかりなでなでしそうになり、慌ててダニエルは手を引っ込めた。

 ここで対応を間違えば本気で怒られる。

「ジョシュはどうしたいの」

「……自由になりたい」

「それはバーンスタイン伯爵家からの解放? それとも、本当に何もかも捨ててしまいたい?」

「……ロバートのチーズケーキは、また食べたい、です」

「んっふふ。そうか。分かった。ねえ、ジョシュ。君は嫌がるかもしれないけど、僕も大切な友人が傷付く姿を見ていたくないんだよ。だからね。僕に任せてくれない?」

「何をですか」


「――全部」



***



 冬の始め。

 朝夕の風は冷たく外気を冷やす。

 そんな季節の昼下がり。

 ジョシュアは知らない屋敷の手入れの行き届いた庭に佇んでいた。

「というわけで! こちらウィルフレッド殿下です。今年八つになるよ」

 何が「というわけで!」なのかさっぱり分からない。

 ジョシュアはとりあえず女性騎士の要領で敬礼を執りながら、にまにまと笑うばかりの友人を心の中から射殺さんばかりに睨んだ。

 ほんの数十分前のことだ。

 授業が終わると同時にダニエルに馬車に放り込まれた。

 そこには見知った顔のメイドが二人待ち構えており、驚くジョシュアをよそに「失礼します。できるだけお動きになりませんよう」と勝手に前髪をピンで留め、制服が汚れぬよう胸元にケープを引っかけ、そうしてずらりとメイク道具を取り出して、にっこりと微笑んだ。

 今回は制服姿でいいけどちょっと化粧させてね。髪もいじろうかな。

 なんて最後に乗り込んだ友人が軽薄に言うものだから「もう君とは友達を辞めます!」と叫んでも仕方のないことだったと思う。

 すぐさまメイドたちに「お顔を動かさないで!」と叱られたが本当に解せない。

 揺れる馬車を物ともしない有能なメイドたちにより薄化粧が施され、ただのひっつめ髪だった頭もいつの間にか可愛くアレンジなどされていた。

 最後に胸元のタイをリボンに換えれば、ズボンをはいた女子生徒の完成である。

 変声魔導具を「後で付けといてね」とダニエルに渡されたときには思わずその脛を革靴の先で蹴ってしまったが悪いのはお前だと声を大にして叫びたかった。

 連行された先は知らない屋敷。

 少し開けた庭先に通された。

 立派で洗練された佇まいは、おそらくそれなりに高位の人物の住まいなのだろうと予想していれば、紹介されたのは茶色い巻き毛の愛らしい男児。

 ウィルフレッド。今の国王の孫にあたる王子様である。

 王族に会わせるのなら事前にそう言え! 脳内で罵声を送れば「だってジョシュにこんなの事前に言ったら絶対逃げるでしょ」とやはり脳内で友人がへらりと笑った。

 いつか本気であの整った顔を殴ってやろうと思う。

「ウィル。彼女はガーディ。僕の友達」

「確かに剣の先生は女性がいいって言ったけど。思ってたよりずいぶん若いね」

「僕と同い年だからね。十七歳。でも僕よりずっと強いよ」

「……本当に? 大柄でもないし、頑丈そうでもないけど」

 ウィルフレッドは国王の三男の三男だ。

 王位継承権の順位は限りなく低いが無いわけではないし、日帰りで行き来できる近場に住んでいることもあって、祖父、つまり国王も利発なこの王子を可愛がっていると聞く。

 会話の流れ的に「剣の先生」として連れて来られたようだとジョシュアは察した。王子が「女性がいい」と希望したから女装させられたのだとも。

 バカなのか。ジョシュアは脳内ダニエルを蹴飛ばしながら罵った。

 指導者の資格は持ってないし、そも人に剣を教える教育を受けていない。

 子どもに、それも王子様に、何をどう教えろというのか。

 王子はミントグリーンにチョコチップを散らしたような清涼感のある瞳で目の前の女子学生をしげしげと観察している。

 愛らしくはあるが不躾であり、無礼である。値踏みする視線も隠さなくてはならない。子どもとて王族。この年齢ならば剣より先に礼儀作法を教えるべきではなかろうか。

「それで早速だけどガーディ」

「つい先ほど貴殿とは友人関係を終了させましたので気安く呼ばないでもらえますかその無意味に高い鼻へし折るぞ」

「怖っ」

「……友達終わらせたって。ダニー。何したの」

「僕が悪い前提なの」

「え。だってそれ以外ありえないでしょ」

「曇りなき眼ですごい刺さること言う」

「ほら、謝って。悪いことしたら自分から謝らなきゃダメなんだよ。できれば相手の好きな花とかプレゼント持って」

「ド正論。……ガーディ。攫うように連れて来てごめん。君以外適任が思いつかなくて。後で甘いものてんこ盛り用意するよ。そんでできれば僕が帰国するときにも同じように攫われてくれると嬉しい」

「「…………」」

「何言ってんだこいつって視線が痛い! 君らのそういうとこが似てると思ったんだよ! 絶対仲良くなれるって!」

「……ええと、ガーディ嬢」

「はい殿下」

 無視しないでー、と泣き真似をするダニエルを無視してウィルフレッドはガーディに向き直った。

 真っ直ぐな視線は初対面の相手に物怖じする様子がない。

 そんなところはちゃんと王子様だなと感心していると「ごめんね」と頭をぺこりと下げられた。茶色い巻き毛がぴこんと跳ねる様が愛らしい。

「たぶんダニーが無理を強いたんだよね。僕が大人の男の騎士はちょっと怖いって言っちゃったから。正式な打診ではないから、ダメならダメって言ってくれて大丈夫だからね」

 何この子すごい良い子。

 口元に手をやって感動していると、王子の少し後方で「良い子でしょー」とにこにこ笑顔の元友人と視線がぶつかる。

 元友人のことはどうでも良いが、七歳児に気を遣われて我慢させるのは年上の矜恃に関わる。

 ひとまずは互いに納得のできる着地点を模索すべきだと、ガーディは小さく溜息を吐いた。

「……殿下。剣は初めてですか?」

「ううん。一年くらい前から」

「では、まずはこれまでの指導で学んだことをご披露いただけますか。そちらを拝見した上で私にお手伝いできることがあるようでしたら、僭越ながらご一緒させていただきたく存じます」

「ガーディはホントにダニーの友達? すごいしっかりしてる。そんなに畏まらないでよ。僕が教えを乞う側なんだから」

 僕がしっかりしてないみたいな言い方やめて。

 ダニエルがぼやきながら子ども用の木剣をウィルフレッドに差し出す。

 日頃の行いだよね。

 これまたド正論を叩きつけられて撃沈する男を放置し、ウィルフレッドは今までの指導係に教わった通りに剣を構えた。

 握る手に力を込め過ぎず、真っ直ぐ前を見据えて。

 振り上げる。振り下ろす。

 おそらく素振りと思われる動作を数度繰り返してふうと溜息を吐いた王子様が「どう?」と新しい先生候補を見上げた。

 薄っすら弧を描いているように見える口元以外、ほとんど無表情に近い顔の彼女は一度何かを言いかけて口を閉ざした。

 少し冷たくも見える金色の美しい双眸がダニエルに向けられ、そして役に立たないと判じてか、ウィルフレッドに視線が戻ってくる。

 女性にしてはやや上背のある学生が、ゆっくりと膝を折った。

「……殿下」

「うん」

「おそらく私がこれから申し上げる内容は殿下の意に沿うものではないでしょう。お心を傷付けてしまうかもしれません。それでもお聞きになりますか」

「聞く」

「分かりました、では。――現段階において殿下に剣の才はないと申し上げる他ございません」

「根拠は」

「これは今までの指導者にも問題があるのでしょうが、まず剣の持ち方、立ち方からなっていません。殿下が振るにはその木剣は軽すぎるのではと見ておりましたが、どうやら重いと感じてらっしゃるご様子。たった数度の腕の上げ下げで息が上がるようでは到底この次の段階へは進めません。まずは剣を置き、身体作りから始めることを強く進言いたします」

「……僕は剣を学びたいんだけど」

「無駄です」

「無駄」

「今の殿下にどのような剣をお教えしても、上達は見込めません」

「…………。やっぱり君、ダニーの友達だね。そこまで言わないよ普通」

「そこでダニエルの友人認定されるのは甚だ遺憾ですが、嘘や忖度を申し上げることは殿下の御為に一切なりませんので」

「ふふ。うん。まあ、分かってたよ。僕が運動音痴だってことくらい」

 馬には乗れないし弓も真っ直ぐ飛ばないんだ。口笛だって吹けないしね。

 ウィルフレッドは思いの外さっぱりした笑顔で口を尖らせて吹いて見せた。空気が漏れるばかりで音は少しも鳴らない。

「おまえには向いてないってはっきり言ってくれたのはガーディだけだよ」

 口笛って運動神経関係あるんだろうか。

 頭の片隅で真剣に考えていたガーディに、どこか吹っ切れたような王子様が右手を差し出す。

 その小さな手をそっと握りながら「殿下。草笛ってご存知ですか」と問えば、巻き毛の可愛いミントグリーンがきょとりと瞬いた。



***



 ウィルフレッドがあんなに楽しそうに笑うのを久しぶりに見たよ。

 あの子は“できない”ことをあの子なりに悩んでいたみたいだからね。

 また遊びに来てちょうだい。いつでも歓迎するわ。

 ありがとうガーディ嬢。これからも息子をよろしく頼む。


 ウィルフレッドの家族、つまり国王の三男夫妻とその子どもたちに見送られながら、ダニエルとガーディは家路に着いた。

「いやー。ウィルとはすぐ仲良くなるだろうと思ってたけど。まさかファミリー全員を数時間で絆しちゃうなんて。さっすがガーディ」

「うるさいですよ元友人。私は君を許してはいませんからね」

「えー。またお友達になってくださいから始めないといけないの? 君すごいガード硬かったからなあ」

「始めなければいいのでは?」

「始めるに決まってるでしょ」

 揺れる馬車の中でダニエルがやや背筋を伸ばした。

 まさか本当に「お友達になってください」から始めるつもりだろうか。

 ジョシュアは少し疲れていた。

 子どもと遊んだことなどほぼなかったし、何と言ってもウィルフレッドは王族だ。些細な粗相で首が飛んでもおかしくない相手だった。

 普段から些末事を気にしないタイプだが、おまえに剣は無理だと言ってしまった後で「あれ。これ大丈夫か」と不安に思った程度には動揺していたのだ。

 口笛の代わりに教えた草笛は大層喜ばれたが、蓄積された精神的疲労は減ることはなかった。

 バーンスタイン伯爵家のバカ共のこと。

 これからの自分のこと。

 何一つ確かなことなどない。

「まずは自己紹介だね」

「本当にやるんだ」

「僕はダニエル。ダニエル・リーヴァイ・サンダール。東隣の国ギジェガルド出身で、今はサンダール伯爵領を任されている。父親はギジェ国王の実弟マクミラン公爵ライオネル。母親はアルムグレーン侯爵長女エメライン。君も会ったことのある母方の祖母アルムグレーン侯爵夫人フィリッパはここアーデンガルドの国王の実妹だ。ウィルフレッドは僕の母親の従兄の子どもってことだね。このまま何事もなければ、僕は父の後を継いで十三代目マクミラン公爵になる。何かご質問は?」

「……ややこしい」

「あっはは。今度家系図を見せてあげるよ」

「えー…つまり、君はギジェガルド王の甥で、アーデンガルド王の姪孫?」

「はい正解」

「……つまり?」

「ああ、うん。ウチのパパは王室から離脱してるし王位の継承権も持ってない。おばあちゃんも王籍を返上して他国に嫁いでるからね。僕はどこの王室にも属してないよ」

「はあ。ではなぜここでご両親の御名を?」

「君の名が知りたいから」

「――……はい?」

「君の、本当の名前を、教えて」

 沈黙が流れた。

 馬蹄と車輪が地面を蹴る音だけがしばし鼓膜を揺らす。

 ダニエルはこの友人が最終的に自分を頼ってくれるのを待つつもりでいた。

 いくら一人で生きられる才があろうと、法的手段を取れる年齢になろうと、貴族として生まれて役目を持つ者が真に自由になることなどおそらく不可能だ。

 それこそこの友人がいつか小者を脅して言ったように、領地を更地にするという非人道的な大罪を犯すくらいでなければ、逃げおおせるものではないだろう。

 優しいこの友人は理不尽をよしとはしない。

 己が身勝手のために他人を傷つけることなど、自分に許しはしない。

 だからダニエルは待っていた。

 この友人が自由になるための最後の決め手に欠けた時。振り返って誰かに助けを求めようとする時。独りに耐え兼ねて泣いてしまいそうになるその時に。

 その手の触れる一番近い場所で、両腕を広げて、抱きしめてあげるために。

 いつまでも待つつもりでいたが「そんな暢気なことでどうするのです。手を拱いている間に横から搔っ攫われますよ。自ら得に行く気概を見せなさい!」と焚き付けたのは祖母だった。

 彼女は今でこそ立派な侯爵夫人だが、学生時代に出会った異国の貴族令息に恋をして、両親、つまり自国の当時の国王夫妻を相手に大喧嘩をして家どころか国すら飛び出して結婚した苛烈なお姫様だった人である。

 祖母は言った。「待つは一見スマートですが、臆病者とも言えます」と。

 臆病者と謗られ煽られたダニエルはそれならばと自ら動くことに決めた。

 最近、友人の周囲が何かときな臭くなっていることも気になっていたので、この際に一切の妥協なく全力で獲りに行こうと決意する。

 長いこと口を閉ざしていた金髪金眼の友人が小さく溜息を吐いた。

「……なぜ」

「君にお願いがあるんだよ」

「それはジョシュアではいけませんか」

「そうだね。ジョシュには頼めない」


「…………――私は、」



***



 お前が男なら――。


 ため息交じりに呟かれる台詞はもう耳タコだった。

 どれだけ学問を修めようと、乗馬や剣術が上達しようと、父の第一声は同じ。

 お前が男なら良かったのに。

 どんなに優秀でも爵位の相続権のない女では意味がないと、首を横に振る。

 幼い頃はその心無い言葉にいちいち落ち込んだりしていたが、何年も聞き続ければ慣れもする。そして気にも留めなくなる。

 実の娘を体の良い駒扱いする両親のことも、そんな両親に猫可愛がりされて育った二つ下の妹にも、年を負うごとに関心を失くして行った。

「ガートルード。ジョシュアを知っているな」

「オリーヴィアと結婚してバーンスタイン伯爵家を継ぐ従兄のことですか」

「そうだ。おまえ、ジョシュアを名乗って王都の学園へ行け」

「……は?」

「ジョシュアにもオリーヴィアにも学が無い。それではバーンスタイン伯爵家の沽券に関わる。おまえは勉強だけはできるし、その辺の娘より上背もある。三年くらい男のふりをしても罷り通るだろう。ジョシュアの名でバーンスタイン領に学園首席卒業の栄を持ち帰るんだ」

「まあ、さすがお父様! 私より不出来なジョシュアを王都へなんてやって大丈夫かしらと心配していたの。お勉強はお姉様が得意でらっしゃるんだもの。お姉様に任せるのが一番ね!」

「相変わらず不愛想な子ね。おまえは女として褒められるところなんて一つもないのだから、家のために役に立てることを少しは喜んだらどうなの。顔は悪くないのにここまで愛嬌がない娘なんて、縁談を持ち込むのも恥ずかしいわ」

「あら、大丈夫よお母様。貰い手がなくても、私とジョシュアがこの家でちゃーんとお姉様の面倒を見て差し上げるわ」

「まあ。オリーヴィアは優しい子ね」

「姉もおまえのように可憐で気の利いた女であればな」

 何言ってんのこいつら。

 思わず飛び出しそうになったその声を呑み込んで、ガートルードは立ち尽くしていた。

 見栄っ張りもここまで来ると異常である。

 己より優秀な娘が気に入らぬと冷遇しておきながら、虚偽の栄光のため男のふりをして学校に通えとは。

 縁談を持ち込むのが恥ずかしい? 悪評を流布させているのは他でもない両親と妹だし、結婚できなくても面倒を見るって、面倒を見させるの間違いでしかない。領地の運営も、子どもができたら子どもたちの世話も。何もかも押し付けられる未来しか見えなかった。

 ふざけるな。

 誰がこんな家のために働くものか。

「――……というわけで、王都にいる三年の間に、可能ならば他所様に迷惑をかけないよう行方を眩ませるつもりだった……の、ですが」

 パチパチと木の爆ぜる音が響く。

 屋敷のあちこちからこぼれ出る煙が如実に異常事態を示していた。

 馬車を降りた瞬間に複数の人影が散り散りと去って行くのを見たので、おそらく彼らが、屋敷の住人の不在中に準備を整えたのだろうと思う。

 何の準備かって。火災だ。

 これまで三年近く住んで来た家が、目の前で燃えている。

「ダニエル」

「いやあ、ね。これが一番手っ取り早いかなって」

「ダニエル」

「大丈夫だよ。メルと他の使用人二人はウチで預かってる。みんな無事。人数分の遺体を用意したから全員死んだことになるけど、三人とも構わないって。君サイズの女性が中々見つからなくてね、ちょっと苦労したっぽいけど。あ! 僕らが殺したんじゃないよ。そこは誓って、ちゃんと死人から集めたから」

「ダニエル。そういうことではなくて」

「ガーディ。君にお願いがあるって言ったでしょ?」

 そっと手を握られた。

 パリン。どこかで窓ガラスが割れる音がした。

 おそらく“火元”なのだろう。東側の壁からオレンジの炎が見え隠れしている。

「ガートルード・オーレリア・バーンスタイン嬢」

 燃える屋敷を呆然と見上げる友人の横で、ダニエルがすっと片膝をつく。

 不安と困惑に揺れていた金の双眸が驚いてその様を見ていた。

 先ほど知ったばかりの本名を淀みなく紡ぐ声に、迷いはない。

「君を愛してる。僕と結婚してほしい」

 ほぼ木材で建てられた屋敷は火の回りが速い。

 天気の良い日が続いていたので、乾燥気味の壁や紙類も良く燃えるだろう。

 屋内で何かが焼け落ちたのか、ひと際大きな音が響いた。

 夕暮れ時の薄暗い空を煙が立ち上り、炎がオレンジに染める。

 ここをプロポーズの舞台に選んだダニエルの心境が分かるような、分からないような、分かってしまってはいけないような心地でガートルードは小さく息を呑んだ。

「……人の家を燃やしておいて?」

「君の全てを引き受ける。僕の覚悟を示したんだよ。分かり易いでしょ?」

「君は死人と結婚するつもりですか。バーンスタイン伯爵はジョシュアを殺しはしません。提出される死亡届はガートルードのものです」

「それでいい。どうせ君は全てを捨てるつもりだった。なら、それ全部僕がもらっても良くない? ちょうだいよ。大事にするから」

「……卒業までは現状維持でと言ったのに」

「それはごめん。でも、僕の傍にいてくれるなら、いつでも好きなことしていいよ。好きなだけ勉強すればいいし、鍛練もすればいい。甘いものだっていくらでも用意する。ねえ、ガーディ。独りで生きるなんて寂しいよ。一緒にいようよ」

「……、……、知りませんよ、どうなっても」

「いいよ。言ったろ。僕が君の全てを引き受ける」

「物好き」

「そうかな。でも仕方がない。君が好きなんだ。君もそろそろ諦めてよ」

「――ふふ。諦めて、結婚、ですか」

「そう。色んなことを放り出して、君は僕を選ぶ。そして僕と結婚する。僕も君もハッピーだよ。素敵でしょ?」

 お願いと言いつつダニエルはこの手を放すつもりは微塵もない。

 その強い眼差しに、ガートルードは意地を張り続けるのは無駄だと悟った。

 ダニエルは時折どうしようもないほど度し難く軽薄な面もあるが、基本的に優しく素直な男だ。ジョシュアには一度たりとも嘘を吐いたことなどなく、いつも隣にいて味方でい続けてくれていた。

 ガートルードは自力で自由を得ることを諦めた。

 諦めて、物好きな男の手をきゅっと握り返した。

「それは……素敵ですね」

 それがプロポーズの返事だった。

 ダニエルは心底嬉しそうに笑い、ガートルードも笑う。

 燃える屋敷を背景に二人は長いこと微笑み合っていた。



***



「……どうしてこうなった?」

 春がもうすぐそこまで来ている冬の終わり。

 ほのぼのとした陽の光の温かいテラスで、ダニエルは唸るように言って首を傾いだ。

「ウチの両親がペベレルとの交渉に失敗したんでしょう。ざまあないです」

「ガーディのちょっと口の悪いとこ僕は大好きだけど、おばあちゃんの前ではやめてね。あの人の説教めっちゃ長いよ」

「気を付けます」

「うん」

 ソファで寄り添う二人の手には新聞があった。

 一面に大きく『バーンスタイン伯爵一家の悲劇』と報じている。

 ――曰く。

 バーンスタイン伯爵夫妻がギジェガルドのアルムグレーン侯爵領へ向かう途中、賊に襲われ帰らぬ人となった。

 同乗していた娘が救出されるも気が激しく動転しており聴取は困難。辛うじてガートルードと名乗ったため、婚約者であるペベレル氏の証言を得て彼女を夫妻の長女ガートルード嬢であると断定した。

 この事件の数か月前、王都の同伯爵屋敷が火災にて全焼し、焼け跡から四人の遺体が発見された。

 遺体の内三人は使用人と見られているが、一人の身元が不明であった。

 関係者の話では伯爵の次女オリーヴィア嬢の婚約者ジョシュア卿が住んでいたとされるが、卿はバーンスタイン領にて健在。オリーヴィア嬢の行方が不明であり、身元不明の遺体が女性であることから遺体はオリーヴィア嬢であると目されている。

 ガートルード嬢はペベレル氏が保護。療養中である。

 この冬の間に両親と妹を亡くしてしまったガートルード嬢の回復と幸運が願われる。

 ――だそうだ。

「一方的に婚約破棄されて怒ったペベレルが馬車を襲って娘を攫ったってことだろうけど。でも、ペベレルは君がガートルードだって知ってたよね?」

「“私”が火事で死んでしまったので、オリーヴィアをガートルードに仕立てることにしたのでは?」

「あー、なるほど。おばあちゃんに招かれてたのはガートルードだし、オリーヴィアも演技のために“私はガートルード”ってずっと唱えてただろうしね。正体を失ったオリーヴィアなら、まあ、ありえない話じゃないか」

「死にませんでしたね、この小悪党」

「だねえ。伯爵夫妻の方がいなくなるとは。やっぱり事実は小説より奇なりだ。馬車を襲った証拠を探して摘発してやってもいいけど……ま、オリーヴィアで満足するなら放っておいてもいいかな。ジョシュアの両親――君の叔父さん夫婦はどんな人たち?」

「叔父夫妻は喜んでペベレルの策に乗ったんじゃないでしょうか。私の両親が死ねば爵位が転がり込んで来ますし、一人息子を養子に取られずに済みます」

「後々ペベレルに強請られるネタにはなるけど、そこはお互い様ってワケか」

 ふうん。

 ぼやくように言って新聞を放り投げる。

 恋人の細い腰を引き寄せこめかみの辺りにキスをすると、猫がするようにするりと首筋に頬を寄せて来た。金色の毛並みの美しい猫だ。

 ジョシュアのときはあんなにクールでツンツンしていたのに、本来のガートルードは表情こそあまり動かないものの、意外にも甘えたでハグもキスも喜んで受け入れてくれる。これは嬉しい誤算だった。

 ぎゅっと抱きしめるときゅっとシャツを握ってくれる。

 はあ、可愛い。

「……ガーディ、大丈夫? まさかご両親が死んでしまうなんて思ってもいなかったでしょ?」

「それはまあ、身から出た錆といいますか、自業自得といいますか。同情はしますが少しも悲しくはないのです。……薄情な娘だと思いますか?」

「そんなことはないよ。ただほら、血は水よりも濃いって言うじゃない。君は優しいから。心のどこかで傷付いてやしないか心配で」

「……それよりも。アルムグレーン侯爵夫人からの手紙。あれ、あなた知ってましたよね? むしろ何か諮ってたんじゃないですか? 旦那様が私に平気で嘘を吐く方だということのほうが問題なんですが?」

「え゛っ?! な、何の話かなー」

「…………」

「ごめん。上目遣いに睨まないで。超可愛い」

「は?」

 こんこん。ドアがノックされ、返事を待つことなく押し開かれた。

 メイドが会釈をしてドアの脇にすっと下がるので、客人はこの屋敷で“どの部屋に入るにも遠慮の要らない”人物ということだ。

 案の定、屋敷の主人――アーデンガルド国王の第三王子が「やあ」とにこやかに片手を上げた。その背からひょっこりとウィルフレッドも顔を覗かせる。

 ノックの時点でダニエルから離れて姿勢を正していたガートルードは、「姉上!」と飛び込んで来た少年を柔らかい笑みで出迎えた。

 あぁーなにそれくっそかわいい。ダニエルの呟きは今日も恋人の耳には届かない。

「ウィルフレッド殿下」

「違うでしょ。僕は姉上の弟だよ」

「……ウィル」

「うん! ねえ、姉上。父上が馬を買いに行こうって!」

 馬? と首を傾ぐガートルードに大きく頷き、ウィルフレッドは「ね!」と父親を見上げる。はしゃぐ末っ子の頭を撫でて第三王子もまた首肯した。

「ガーディは乗馬が得意だと聞いてね。君の馬と、ウィルフレッドにもポニーをどうかなと思って」

「殿下。わたくしにそのような、」

「ガーディ。私は君のお父さんだよね?」

「は…はい。お義父様(とうさま)

「うんうん。ウチは兄弟も子どもたちもみんな男ばっかりでね。女の子が欲しかったと妻も事あるごとに嘆いていたんだよ。アルムグレーン侯爵夫(叔母上)人からダニエルの嫁を養女にしないかという打診が来た時には夫婦してイエスと即答したものだ。ガーディ。些末事は全て私とダニエルに任せて、安心して“家族”になってほしい」

「ええ? 違うよ父上。姉上はもう僕らの家族でしょ?」

「ん? ふふ。ああ、そうだね。その通りだ」

「ダニーのお嫁さんになるっていうのがちょっと腑に落ちないところだけど」

「お前は本当、僕にトゲを刺しまくるよね」

「「日頃の行いだね」」

「はあ?! そこ親子でハモる?! ガーディ、真に受けないでよこんなの。僕は君に言えないことなんて何もしてないからね!」

「はあ。真に受けるも何も、ダニエルの素行は存じておりますが」

「君の! そういうとこ!」

「お嫌ですか」

「大好きだよ!!」

「あっはは。あのダニエルがこうも骨抜きとはね。面白い」

 ふふふと笑うガートルードをダニエルが愛おし気に見詰める。

 国王の第三王子がとある貴族令嬢を養女としたニュースは新聞の一面で報じられはしたが、さほど大きな扱いではなかった。

 貴族界隈ではやんごとなき家へ嫁ぐための縁組など良くある話だ。

 誰もがこの令嬢もそうなのだろうと思い、疑いもせず、話題にもならなかった。

「ねえ、姉上。ギジェに行くのやめてずっとウチにいようよ。ダニーより僕のほうがきっと良い旦那さんになるよ?」

「おや」

「まあ」

「なんだって?」

「だってダニーはすぐ浮気とかしそう」

「するかっ!」

 このマセガキがっと立ち上がったダニエルにきゃあと声を上げてウィルフレッドが庭へ逃げ出す。

 追いかけっこの楽しそうな声が響く中、ガートルードは生まれて初めて心の底から微笑んだ。


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