生贄
その頃、鏡の外ではツクモが鏡の周囲に刻まれた文字をさらに調べていた。彼女の指先は装飾の一つ一つを丹念になぞり、その目は隠された真実を見逃すまいと鋭く光っている。
「どうやら、この鏡は村を救おうとした者――影の主の力と想いを封じ込めたもののようね。」
ツクモの声には冷静な分析が込められていた。その背後には、黒い霧が再び蠢き始めている。
「邪魔をするなら……容赦はしないわ。」
彼女は着物の袖を軽く振り、紅い霧を周囲にまとわせる。その霧は黒い霧を切り裂き、ツクモの艶やかな姿をより際立たせた。
「千尋、あの少女の言葉の意味を理解して、道を切り開いてみなさい。」
ツクモの視線が鏡に戻る。そこに映る千尋の姿は、少女とともに暗闇の中を進みながら、何かを掴み取ろうとしているように見えた。
「さあ、もう少しよ。あなたならできるはず。」
ツクモの声は、鏡を通じて千尋に届くことはない。しかし、その声には確かな信頼が込められていた。
千尋が暗い回廊を進む中、ふと昔の記憶が蘇った。妹が重い病を患い始めたのは彼がまだ中学生の頃だった。その日から千尋は「救える方法」を探し始めた。医療の限界を悟った彼は、図書館やインターネットで代替医療や民間療法、そして怪しげな呪術にまで手を伸ばした。都市伝説の中には、病気や災厄を退けるとされる儀式や物語が数多く語られていた。
彼が特に興味を持ったのは「生贄の村」という都市伝説だった。
「ある村では、豊作を願って一人の少女を生贄に捧げた。だが、その少女の無念は村全体を呪い、霧が立ち込める村は消え去ったと言われている。」
この話を調べていくうちに、千尋は日本各地に似た伝承があることを知った。特に影村と呼ばれる村がかつて存在したという記録に出会い、その内容が妹を救うために自分が今追い求めている「呪いの呪文」に関連していると感じた。
少女と共に廊下を進む千尋は、古びた扉にたどり着いた。扉には奇妙な文字が刻まれており、それは彼が過去に調べた都市伝説で目にしたものと酷似していた。
「この文字……『贖罪』と読めるのか?」
千尋が声に出すと、少女が静かに頷いた。
「これは、村を救おうとした主が最後に残した呪いの核。あなたがそれを解けば、この村も呪いから解放される。」
扉を開くと、その先には影の主が佇んでいた。黒い霧に包まれたその姿は人の形をしているが、顔ははっきりと見えない。主は低い声で千尋に語りかけた。
「私の力を使い、村を救おうとした愚か者だ。だが、力を誤った結果、この村を呪いで覆い尽くしてしまった。」
千尋は主の話を聞きながら、これが「生贄の村」の都市伝説そのものだと直感した。
「なら、どうすればこの呪いを解ける? 俺は妹を救うためにここに来たんだ!」
主はしばし黙り込んだが、やがて千尋を見据えて言った。
「呪いを解くには、私が残した力の全てを受け入れること。それは、お前自身が新たな主になることを意味する。」
その頃、鏡の外ではツクモが千尋の選択を見守っていた。彼女は鏡越しに千尋の叫びを聞きながら、小さく微笑む。
「千尋、都市伝説というものは、ただの噂話ではないわ。それは人々の恐怖と願いが凝縮された記憶のようなもの。あなたなら、その真実を見抜けるはず。」
ツクモは手元の装飾品に触れ、それを鏡にかざした。その瞬間、鏡の表面が輝き、千尋の視界にもそれが映り込む。
「これは……ツクモさん?」
彼女の声が届いたように感じた千尋は、深く息を吸い込んだ。
「俺がやるべきことはわかったよ。この呪いを終わらせる。そして……妹を救う。」
千尋は幽霊市場で手に入れた日記帳を手にしていた。
「この日記帳……影村の呪いと関係しているんだろう?」
日記帳のあるページが自動的に開き、おそらくこの村で最後に犠牲になったものについて書かれていた。
「不作の年が続き、やはり今年も誰か生贄に捧げる必要がありそうだ。きっと私が生贄となるだろう。死にたくない。過去に生贄になった少女たちは何を思い、どんな気持ちで生贄として生涯を終えたのだろう。生贄になった後も不作の年が続き、作物が増える様子がない現状を見たらどんな気持ちだろうか。生贄などで神に頼らず、村全体で協力して乗り切れば良いではないか。私はとにかく死にたくない。もし生贄となり、火に炙られて死んでいくのを待つのであれば、禁止された呪文でこの村を救えないだろうか。」
千尋は震えた。だが、妹を救うため、そして影村を解放するため、続きを読んだ
そのあとは、不可解な文字列が並んでいたが、それが呪文であることに気づいた彼は、息を深く吸い込みながら唱え始めた。
「この力をもって……村の呪いを解き放つ……!」
すると、日記帳が強烈な光を放ち始め、影の主から黒い霧のような怨念が吹き出した。それは村全体を覆い尽くし、悲鳴や恨みの声が響き渡る。
ツクモが叫ぶ。
「気を抜いちゃダメ! 日記帳が全部受け止められるように、最後まで唱え続けて!」
だが、怨念は日記帳に封じられる途中で千尋に逆流し、彼の頭に無数の声が響いた。
「許さない……」 「逃げられない……」 「お前も呪われろ……!」
千尋は必死に意識を保とうとした。日記帳が彼の手から滑り落ちそうになるが、彼は力を振り絞り、それを抱きしめるように握り締めた。
「俺は……俺はお前たちの苦しみを無駄にしない!」
その言葉に応えるように、日記帳が再び強い光を放ち、すべての怨念を吸収した。
映し出されたのは、生贄の少女の記憶だった。雨の降らない不作の年が続く中、村は次第に疲弊し、人々の心にも余裕がなくなっていた。村の中心では、生贄の選定を行う会議が行われ、泣き崩れる少女の母親と、冷淡な顔つきの村長が対峙していた。
「どうか……娘だけは……」
「他に選択肢がないのだ。このままでは村全体が飢えて死ぬ。」
母親の必死の嘆願にも関わらず、村長の声には迷いがなかった。父親は俯いたまま何も言えず、部屋の隅で震える少女を一瞥してまた視線を落とした。
少女は恐怖と怒りを覚えながらも、かすかな希望を胸に抱いていた。伝え聞いた「禁じられた呪文」によって村を救えるかもしれない。もしそれが成功すれば、自分は生贄にならずに済むだけでなく、家族も村も救えるのだ。
深夜、村人たちが眠りにつく頃、少女は一冊の古びた書物を手に、神社の奥にある祠へと向かった。書物には昔の巫女が使ったという呪文が記されていたが、それは村の禁忌とされるものであり、使う者は神の怒りを買うと言い伝えられていた。
祠の中で、彼女は震える手で蝋燭を灯し、呪文の一節を読み上げた。
「我が命をもって……雨を降らせたまえ……」
言葉を紡ぐたび、空気が重くなり、蝋燭の火が激しく揺れた。次第に地面が震え出し、彼女の足元から黒い霧のようなものが立ち昇った。その霧は彼女の身体に絡みつき、締め付けるような痛みを与えた。
「だめ……まだ、やめられない……」
苦痛に耐えながらも呪文を唱え続ける少女。しかし、呪文の最後の言葉を言い終えた瞬間、祠の扉が激しく開き、村の男たちが怒鳴り声を上げながら駆け込んできた。
「何をしている! お前のせいで村が呪われる!」
少女は捕らえられ、祠から引きずり出された。霧は消え去ったものの、呪文の効果は何も現れなかった。雨は降らず、むしろ空気はさらに乾き、村の不作は続くのだと村人たちは確信した。
村人たちの怒りと裏切り
少女は村人たちの中心に立たされ、非難の声を浴びた。
「お前が神を冒涜したから、村は更なる災いに見舞われるのだ!」
「すぐにこの娘を生贄にしろ! 神の怒りを鎮めるために!」
母親は少女をかばおうとしたが、村人たちの手によって遠ざけられた。父親は沈黙を続け、ついには背を向けて立ち去った。
少女は絶望しながらも叫んだ。
「私は村を救いたかっただけ! 私のせいじゃない、私は……!」
だが、その言葉は誰にも届かず、彼女は生贄の運命を避けられないまま、神に捧げられることになった。
火に炙られる直前、少女は心の中で叫んだ。
「こんな村、救う価値なんてない……私は、私を裏切った全員を呪ってやる……!」
その瞬間、少女の身体を覆う黒い霧が渦巻き、彼女の姿は人ではない、異形のものへと変貌を遂げた。村人たちは恐怖し、彼女を神の裁きだと言って更に憎悪を向けた。だが、呪われた少女が解き放った力によって、村全体は霧に包まれ、その姿を世界から消してしまった。
千尋はその映像に飲み込まれそうになるが、ツクモの声が彼を現実へ引き戻す。
「千尋! 怖がることはないわ。その日記帳は、あなた自身が呪いを封じる意志を持てば、それに応えてくれる!」
千尋は覚悟を決め、怨念を受け入れることを宣言した。
「俺がすべて背負う! この村の呪いも、痛みも、全部だ!」
最後の呪文を唱え終えると、日記帳が静かになり、その表紙には新たな刻印が現れていた。
「影村の記憶、ここに封じる。」
同時に村を覆っていた霧が晴れ、影の主の姿も消え去った。影村は長い時を経て、ようやくその呪縛から解き放たれた。
千尋は膝をつき、息を整えながら日記帳を見つめた。それは今や、影村のすべての怨念と記憶を内包する器となっていた。
その時、千尋の耳にかすかな声が響いた。
「ありがとう……」
どこか幼い少女の声だった。顔を上げると、霧が晴れる空にぼんやりと浮かぶ影があった。それはこの村で生贄となった少女の姿だった。彼女の瞳は穏やかに輝き、かすかな微笑みを浮かべていた。
「私の声が届く日が来るなんて……この苦しみを終わらせてくれて、本当にありがとう。」
千尋は彼女の視線を受け止めたが、同時にその背後にうごめく黒い影が一瞬だけ見えた。それは憎しみの残滓だったのかもしれない。
「まだ……完全に終わったわけじゃないのね。」
少女は消えゆく中で続けた。
「呪いは誰かが引き継がなきゃいけない。でも、あなたならきっと大丈夫。さようなら……」
その声は徐々に薄れていき、完全に消えた時、影村は静寂に包まれた。
その瞬間、空が重く垂れ込めたかと思うと、一筋の雨粒が頬に落ちた。続いて、村全体に優しい雨が降り注ぎ始めた。
その雨は、長い間この地を覆っていた苦しみを洗い流すかのようだった。
地面に溜まった雨水が、まるで新しい命の息吹を育むかのように、静かに広がっていく。
千尋は雨の中で空を見上げ、肩に降り注ぐ冷たい滴を受け入れた。
「千尋、その日記帳を持ち続けるなら、これから先も呪いと共に歩むことになる。それでもいいの?」
ツクモが心配そうに問いかけると、千尋は微笑んだ。
「大丈夫さ。これは俺の責任だ。だけど、これをただの呪いの器にするつもりはない。この日記帳を使って、次の謎を解いてみせる。」
千尋がそう言うと、ふと手の中の日記帳がかすかに震えた。まるで中に眠る少女の想いが何かを伝えようとしているかのようだった。
「行こう、ツクモ。次の場所へ。」
そう言って千尋は日記帳を胸に抱き、妹を救うための新たな旅へと歩き出した。
雨は静かに降り続けていたが、それはどこか温かさを感じさせるもので、影村にとって新しい時代の幕開けを告げるようだった。
「生贄となった少女が唱えた昔の巫女が使ったという呪文、、、」千尋が呟き、ツクモと目があう。
お互いに何かを察したようで、自分たちの目的に一歩前進したことを確信した。