滲む過去の影
暗い市場の中心に、千尋とツクモの姿があった。
「行きなさい、千尋。これ以上、彼らの気を引かないうちに。」
千尋はツクモの言葉に頷き、日記帳を握りしめて市場の奥へと駆け出した。背後で響く亡者たちの呻き声と、ツクモの冷たい声が混ざり合う中、彼はただ前へ進むしかなかった。
一方で、ツクモは亡者たちを睨みつけ、冷然と微笑んだ。「さあ、みんな。私の相手をしてもらおうか。」
彼女が一歩前に出ると、その背中が闇の中でゆっくりと膨張し、死神としての本来の姿が現れ始めた。黒い羽のような霧が背中から広がり、辺りの空気が一瞬で凍りつく。
「さあ、お帰りなさい。」
ツクモが片手を振り上げると、周囲の闇が渦を巻き、亡者たちを包み込む。苦しげな叫び声が響く中、その霧は亡者たちを次々と飲み込んでいった。一瞬の静寂が訪れた後、霧が消えると、そこにはもう誰もいなかった。
彼女は軽く息を吐き、静かに呟いた。「これで少しは時間が稼げたかしら。」
千尋がたどり着いたのは、薄暗い市場の奥にある古い木製のテーブルだった。その上には、問題の日記帳が置かれている。手に取ると、表紙はひんやりとしており、どこか不気味な気配を感じさせた。
「これが……。」
千尋がページを開こうとすると、ツクモが傍らに現れた。「触れるだけじゃだめよ。これには特別な仕掛けがある。」
彼女の手が日記帳の上に置かれると、ページが自然にめくれ始めた。一枚一枚が風に吹かれるようにひらひらと動き、そのたびに薄暗い光が文字を浮かび上がらせた。
「見て、千尋。この日記帳が語ろうとしているのは、単なる記憶じゃない……もっと深いものよ。」
青年の日記、序章
「今日は取引の日だ。彼女を救うための唯一の手段だと信じたい。だが、代償については何も告げられなかった。」
最初のページに記されたその一文に、千尋の眉がぴくりと動いた。
「取引?」千尋が問いかけると、ツクモは視線を落としながら頷いた。
「呪いの起点ね。この青年は何かと契約を交わしているわ。それが彼の運命を変えてしまった。」
ページをめくるごとに、青年の言葉が徐々に不穏な空気を漂わせ始めた。彼は何者かと密かに接触し、「取引」に応じたことが記されている。しかし、具体的な内容や相手の正体には一切触れられていない。
「彼らは笑っていた。私の願いがいかに愚かであるか、気付いているかのように。」
「取引の相手……人間じゃないな。」千尋が低く呟いた。
「おそらくね。」ツクモが言葉を継いだ。「彼が何を願ったのかはまだ分からないけど、取引の代償がこの呪いに繋がっているのは間違いないわ。」
日記帳の異変
ツクモが次のページをめくろうとした瞬間、日記帳全体が激しく震え始めた。突如、闇の中から霧のような影が噴き出し、二人を取り囲んだ。千尋は身構えたが、その霧の中に浮かび上がったのは、ぼんやりとした人影だった。
「彼……だ。」千尋が呟いた。
日記帳の記憶が形を成し、青年の幻影が二人の前に現れた。その顔には深い苦悩が刻まれていた。
「なぜ……私を目覚めさせた?」幻影が重々しい声で問いかける。
ツクモが一歩前に出て、そのまなざしを幻影に向けた。「あなたが背負った呪いを解くためよ。取引の真実を知る必要がある。」
青年の幻影はしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。「取引の代償を知ったところで、何になる?すべては手遅れだ……」
「それでも、あなたの記憶には答えが残されているはず。」ツクモが毅然とした声で返した。「それを知ることで、私たちがあなたを救う道筋を見つける。」




