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呪われた取引

千尋は市場の異様な空気に圧倒されながらも、ツクモに続いて歩みを進めた。屋台に並ぶ品々はどれも古びていて、どこか懐かしい雰囲気を纏っている。古い写真、錆びた楽器、擦り切れたぬいぐるみ——いずれも誰かにとってかつて大切だったものだと直感できた。


「誰も手を出そうとしない……」千尋は周囲を見回した。透けた人影たちは屋台を眺めるだけで、実際に物を手に取ることはなかった。


「この市場で物を買うことには、対価が必要なのよ。」ツクモが答える。


「対価?」千尋は眉をひそめた。


「ここではお金は通用しないわ。代わりに、あなたの大切な『何か』を差し出す必要があるの。」


千尋は息を呑んだ。その説明には一抹の恐ろしさを感じずにはいられなかった。


「でも、どうしてそんな取引を……?」


「理由なんて誰も知らない。ただ一つ確かなのは、この市場での取引が、迷える者たちにとっての救済であるということ。」


ツクモの声には、どこか感慨深い響きがあった。彼女自身もこの市場に何らかの思い入れがあるのだろうか。千尋は言葉を呑み込んだ。


そのとき、一つの屋台が千尋の目を引いた。そこには、使い込まれた日記帳が無造作に置かれていた。何の変哲もないそれだが、不思議と千尋は目を離せなくなった。


「気になるの?」ツクモが静かに問いかけた。


「ああ……でも、なんでだろう。」千尋は日記帳を見つめながら答えた。


「近づいてみなさい。その理由がわかるかもしれない。」ツクモが軽く促す。


千尋は屋台に近づき、日記帳を手に取ろうとした。しかし、指先が触れる瞬間、屋台の奥から低い声が響いた。


「それはお前に何を求めるか、わかっているのか?」


千尋は驚いて顔を上げた。そこには、薄暗いフードを被った店主の姿があった。透けた体の一部がかすかに光を放っている。


「求めるって、どういう意味だ?」千尋は声を震わせながら尋ねた。


「その日記帳は、持ち主のすべての記憶が刻まれている。もしお前がそれを手に入れたければ、自分の記憶の一部を差し出すことになるだろう。」


「記憶の一部……?」千尋は理解に苦しむ表情を浮かべた。


ツクモが彼の肩に手を置く。「ここでの取引はそういうものよ。取引の対価は物理的なものではなく、魂や感情に関わる何か。慎重に選ばないと後悔するわ。」


千尋は息を詰めたまま、手を引っ込めた。だが、日記帳が発する不思議な魅力に抗うのは簡単ではなかった。


「どうする?」ツクモが静かに尋ねた。


千尋は短く息を吐き、目を閉じた。「この市場で何が起きているのか、少しでも知る必要がある。だから、取引してみる。」


ツクモは少し驚いたようだったが、すぐに微笑みを浮かべた。「いいわ。その覚悟、見せてもらいましょう。」


千尋は日記帳を再び手に取るために手を伸ばした。その瞬間、日記帳の表面がかすかに光り始め、周囲の空気が揺れるような感覚が襲った。


千尋が日記帳に触れた瞬間、眩い光が彼の周囲を包み込んだ。思わず目を閉じたが、次の瞬間、頭の中に奇妙な感覚が広がった。幼少期の記憶、初めて自転車に乗った瞬間、妹と笑い合った日々……その中のいくつかが霧のように薄れていく。


「これは……俺の記憶が……?」千尋は目を見開き、恐怖を感じた。


「そうよ。取引は成立した。あなたが差し出したのは『一番鮮明だった記憶の一部』。」ツクモが冷静に説明する。


「一番鮮明だった記憶……?」千尋は呆然とした。確かに、何かが欠けた感覚がする。だが、それが何だったのかすら、今や思い出せない。


「大丈夫よ。それはあなたが本当に必要としているものではなかったはず。」ツクモは少し優しく微笑みながら、彼の肩を叩いた。「さあ、手に入れた日記帳を開いてみて。」


千尋は震える手で日記帳を開いた。中には、古びたインクでびっしりと文字が記されていた。内容は読み取れるものの、どこか現実感がなく、霧がかった夢を見ているようだった。


「これ……誰の記憶なんだ?」千尋が尋ねる。


「この市場に存在する品物の多くは、亡者たちの未練や記憶の一部が具現化したものよ。」ツクモが説明する。「その日記帳も例外じゃない。けれど、あなただけがその記憶を読み解ける。」


千尋はページをめくり始めた。そこには、ある青年が小さな田舎町で過ごした日々の出来事が綴られていた。友人との些細な喧嘩、恋人との別れ、そして最後のページには、不可解な出来事が記されていた。


「『市場で取引したその夜、すべてが終わった』……?」千尋は首をかしげた。


「どうやら、この日記帳には『幽霊市場』に関わる何かが記されているみたいね。」ツクモの目が鋭く光った。


「でも、『すべてが終わった』ってどういうことなんだ?」千尋はその言葉が引っかかり、ページをさらにめくった。しかし、それ以上の情報はどこにも書かれていなかった。


そのとき、不意に市場全体がざわめき始めた。客や店主たちが一斉に千尋とツクモを見つめ、その目には不吉な光が宿っていた。


「どうやら、日記帳を手にしたことが彼らを刺激したようね。」ツクモが苦笑いを浮かべる。


「刺激って、どういうことだよ?」千尋は困惑した。


「この市場にある品物は、ただの記憶の断片じゃない。それを手に入れた者は、その持ち主が抱えていた呪いをも引き継ぐことになるのよ。」ツクモの声は冷静だったが、その言葉の意味するところは明らかに危険だった。


「呪いって……!」千尋が動揺する間にも、周囲のざわめきは次第に大きくなり、亡者たちがゆっくりと二人の方へ歩み寄ってきた。


「さて、どうする?」ツクモが冷静に千尋を見つめた。「ここから抜け出したければ、その日記帳の秘密を解き明かすしかない。」


千尋は日記帳を握りしめ、意を決した。「わかった。やるしかないんだな。」


「その意気よ。」ツクモは微笑むと、周囲の亡者たちに向き直った。「じゃあ、少し時間を稼ぎましょうか。」


ツクモが一歩前に出ると、その背中が闇の中でゆっくりと膨張し、死神としての本来の姿が現れ始めた。


「行きなさい、千尋。これ以上、彼らの気を引かないうちに。」


千尋はツクモの言葉に頷き、日記帳を握りしめて市場の奥へと駆け出した。背後で響く亡者たちの呻き声と、ツクモの冷たい声が混ざり合う中、彼はただ前へ進むしかなかった。

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