ラ・ヨローナの嘆き
影村での事件を解決した千尋とツクモは、わずかな休息を取るために隣町の宿屋に滞在していた。だが、安らぎは長く続かなかった。
「また次の場所ね。」
ツクモが地図を眺めながら呟く。その横顔は艶やかでありながら、どこか影を帯びている。
「本当にずっとこうして巡り続けるのか?」
千尋は疲れを隠せない様子で肩をすくめた。
「それが契約よ。」
ツクモの言葉は淡々としていたが、その声には不思議な力が宿っていた。
その夜、二人は古びた宿屋の一室で休んでいたが、突如として激しい泣き声が聞こえた。まるで誰かが失った何かを嘆き悲しんでいるような声だった。
「聞こえるか?」
千尋が布団から起き上がり、耳を澄ませる。
「ええ、これは…ただの泣き声じゃないわ。」
ツクモは立ち上がり、外を見つめた。その瞳には奇妙な光が宿っている。
翌朝、二人は宿の主人に昨夜の出来事について尋ねた。主人は一瞬顔を曇らせると、小さな声で言った。
「このあたりでは有名な話です。ラ・ヨローナ…子どもを失った母親の霊が、夜な夜な嘆き悲しむ声を上げるんです。」
「ラ・ヨローナ?」
千尋が眉をひそめる。
「そう呼ばれています。彼女は生前、自分の子どもを川に投げ入れて殺したとされていて、その罪悪感に囚われて成仏できずにいるのです。」
「興味深いわね。」
ツクモが微笑む。その笑みは、美しさの中に冷たい影を含んでいた。
二人は伝説の舞台となった川へ向かった。道中、ツクモは静かに口を開いた。
「ラ・ヨローナは、ただ嘆いているだけじゃないのよ。彼女の声に引き寄せられた者は、二度と戻らない。」
「そんなことが…あり得るのか?」
千尋は疑念を抱きつつも、ツクモの言葉の重みを感じていた。
川辺に到着すると、周囲には不気味な静けさが漂っていた。水面は黒く淀み、風が通り抜けるたびに木々が不吉な音を立てる。
「ここが彼女の舞台ね。」
ツクモが歩みを止め、静かに目を閉じた。
千尋が川のほとりを見渡していると、どこからともなく女性の泣き声が聞こえてきた。それは昨夜のものと同じ、胸を締め付けるような悲痛な声だった。
「ツクモ、聞こえるか?」
「ええ…始まるわよ。」
ツクモは妖艶な笑みを浮かべ、ゆっくりと千尋の前に立った。
泣き声は次第に大きくなり、水面に波紋が広がった。千尋は警戒しながら一歩後ずさる。
「何かが来る…」
ツクモが低く呟いたその瞬間、川面が突如として大きく泡立ち、一人の女性の姿が現れた。
濡れそぼった黒髪、虚ろな瞳、そして白いローブのような衣装。彼女の口元は震え、途切れ途切れに何かを呟いている。
「わたしの…子どもを…返して…」
その言葉を聞いた瞬間、千尋は背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
「これが…ラ・ヨローナ?」
千尋がツクモに振り返ると、彼女は真剣な眼差しで川の女性を見つめていた。
「ええ。でも、これはただの霊じゃない。」
ツクモの声には、普段の冷静さに隠された緊張が滲んでいた。
「彼女の悲しみが、周囲の人々を引きずり込む力に変わっている。気をつけなさい、千尋。」
千尋がもう一度女性に目を向けると、彼女はふと顔を上げ、まっすぐこちらを見つめた。目と目が合った瞬間、千尋の頭に鋭い痛みが走る。
「うっ…!」
千尋は頭を抱え、膝をついた。まるで女性の悲しみや絶望が直接流れ込んできたかのようだった。
「千尋!」
ツクモが駆け寄り、千尋の肩に手を置く。その手の温かさが、かろうじて千尋を現実に引き戻した。
「大丈夫か?」
「…ああ、なんとか。」
だが、その間にも女性の姿はどんどん近づいてくる。彼女の周囲には黒い霧のようなものが立ち込め、地面に触れた水草が次々と枯れていった。
「ツクモ、どうするんだ?」
「泣き声の正体を探るしかないわ。彼女を解放するためにね。」
ツクモは川のほとりに立ち、女性を見つめながら何かを呟き始めた。すると、ツクモの足元から淡い光が広がり、霧が一瞬だけ薄れる。
「彼女の声は、ただの嘆きじゃないわ。苦しみの中に、何か重要な手がかりが隠されている。」
千尋は震える手で録音機を取り出し、女性の声を記録し始めた。
女性の泣き声を解析しようとする中、千尋はふと気づいた。泣き声の中に混じるかすかな言葉、それは「リオ」「子ども」「罪」という単語だった。
「リオ…?」
千尋が呟くと、ツクモが意味深な笑みを浮かべた。
「それが次への扉を開く鍵よ。」
ツクモは妖艶な仕草で髪をかき上げ、女性の霊に向かって一歩踏み出した。
「さあ、私たちに真実を教えなさい。あなたが嘆き続ける理由を――。」
その瞬間、女性の姿が激しく揺らぎ、川面がさらに大きく波打った。そして次の瞬間、二人の前に新たな映像のような幻影が現れた。それは彼女がまだ生きていた頃の記憶の断片だった。