第一章3 北瀬真冬
二人とも息を切らしながら学校に着く。
ギリギリホームルームには間に合う時間だった。
もう殆どの生徒が登校し終えているのか、下駄箱に他の生徒は見当たらない。
先に足を止めたのは、真冬。
「じゃあ、ここで。ありがとう。楽しかった」
四季は自殺しようと思っていて真冬を助けた。真冬はそれを誤魔化したが、それはあながち嘘でも無かった。だって、あのまま魔が差したらどうなっていたか分からない。
学校に来る事が億劫になっていた真冬の心を、四季が変えてくれた。ここで別れるのは少し寂しいが仕方が無い。今日一日耐えられるだけの元気は分けて貰った――それだけで充分だ。
「うん――俺も、楽しかったよ!」
四季も真冬と離れがたいと思っていた――ので、彼女とまた会う為の口実を一つ思いつき、一か八か言ってみた。
「俺さ、文芸部に入ってるんだ! 今日は始業式だから活動するかどうか分からないけど……いつも、旧校舎の一階の一番隅っこのスペースを勝手に使って活動してるから、良かったら来てよ!」
「文芸部……」
呟いた後、真冬の顔が綻ぶ。
「うん、行ってみる」
その反応に満足したのか、四季は満面の笑みを見せてくれた。
「ほんと!? 絶対に絶対だよ!?」
「うん。絶対に絶対」
四季はまた真冬の手を取って、しっかりと約束する――そして、手を放した。
「じゃあ――また後で!」
四季は真冬と笑顔で別れて、足取り軽く二年生の下駄箱へと向かう。
そんな様子を見送って、静かに息を呑む真冬。微笑みから――真顔へと表情が変わった。
――下駄箱。
いじめの対象になった者は、ここが地獄の第一関門になる。下駄箱の中にゴミを詰め込まれていたり、酷い時は動物や虫の死骸が入っていたりする事もある。鉄板中の鉄板は上履きを隠される事だが、今日は二学期初日の為、上履きは真冬の手元にある手提げ袋に入っている。その考えはどうやっても実行出来無いだろう――という事は、前者。
さすがに死骸は嫌だなぁと呑気に考えながら開けた。中学の時からずっとなので、二年近くは同じ事をされ続けている。もう大分慣れて来た。
「――こんな事、良く考えたわね」
下駄箱を開けると、透明な物がだらりと姿を現した――生卵だ。下駄箱の中に直接投げ入れられたのか、割れた殻も小さな四角い中に散乱している。
「勿体無い」
とりあえず、動物の死骸は今回も回避出来た様でひと安心。一つ息を吐く。
下駄箱を閉じ、手提げ袋から上履きを出してその中にローファーを入れる。さすがにあの生卵まみれの中に入れる訳にはいかない。
誰が何をやろうと自分の下駄箱。掃除するのは面倒だと思いつつ、いつも放課後の誰もいない時間に自分で綺麗にしている。今日もまた放課後、人目を忍んで掃除しなければならない。
放課後といえば――四季の言葉を思い出した。
「文芸部……」
高校では部活に入らないと決めていた。人と関わると碌な事にならない。
噂だってそうだ。全ては出鱈目。真冬を陥れる為に、いじめっ子達が笑いながら考えた、いかれた内容だ。真冬は何もしていないが、勝手に広められてしまった。
そういう、汚い人間ばかりしかいないと思っていた――。
でも、四季は今までの人達とは違う――ように思えた。
自分を真っ直ぐに見てくれて――真冬の噂を知らないからかもしれないが――普通の女の子と同じように接してくれた。それが、とても嬉しかった。そんな人が所属しているのなら文芸部には他にも自分を理解してくれる人がいるかもしれない。
助けを求めようとは考えていない。そんな事、もう無駄だととっくに諦めている。親も、教師も、自分のいじめに一切関与しなかった。それどころか、噂を鵜呑みにして逆に真冬が悪いと決めつけた。大人は信用出来無い――誰も自分の言う事を信じてくれない。直ぐに『期待』なんてものは消えた。一つずつ諦めていくと、徐々に感情が消えていくのが分かった。
――期待すると傷ついてしまう。
それに比べて、諦めてしまえば傷つかなくて済む。楽だった。
感情があると傷ついてしまう。感情がある事が煩わしくて、自ら感情を殺しながら過ごした。
――なのに。
四季と登校した時間を思い出す。思いっきり笑う、猫に和む、誰かと話す――この二年、封印して来た事を、たった三十分の間に幾つしただろうか。
「ふふっ」
ほらまた。
もう一度会いたい。
今度は何を話そう?
彼が飼っている猫の話を振ったら、嬉しそうにずっと話していそうだな。
私は何を話せるかな?
碌な会話が思いつかない、
でも、きっとあの人ならどんな話でも笑って聞いてくれるんだろうな。
四季を思い出すと、心が弾んだ。
久しく忘れていた――いや、押し殺していた。
何度も何度も失敗して、その度に心に傷を負ったから。
――でも、もしかしたら四季は違うかもしれない。
彼なら、友達に――本当の意味での友達になってくれるかもしれない。
真冬の中で考えは纏まって、何事も無かったかの様に教室へと向かった。