第一章2 西塔四季
いつもは妹が一緒に付き合ってくれるのだが、始業式の日ぐらいはバスで行きたいと時間差で家を出る事になり、兄である四季は一人寂しくとぼとぼと早めに家を出て、いつものように徒歩で学校へ向かっていた。
――ふと、思いつく。
どうせなら妹がいると怒られて出来無い冒険をしながら学校へ行こう――と。ちょっと回り道になるかもしれないが、そんな事はどうでもいい。それよりもどんな場所があるのか、どんな生き物と触れ合えるのか――そんなワクワク感が勝った。
いつもは曲がらない角で曲がって、ちっちゃい野良猫を見つけた。三毛猫の子猫だ。触ろうとしたら近くにいた親猫に思いっきり威嚇されて触れず、気持ちを切り替えて先へ進むと、初めて見た駄菓子屋さんが目に入る。前を通ると、店番中の見知らぬ優しそうな笑顔のおばあちゃんに手を振られて、恥ずかしく思いながらも振り替えし、今度は何も無い空き地を見付けてその横を通り過ぎた――所で迷いそうになったが、運良く知っている風景を見付けたので、その道へ。
見知らぬ道が見知った道に続いているという大発見に心躍らせ、機会があればまた冒険をしようと固く誓った。
いつもの川沿いに出ると、バスが通り過ぎて行く――。
暫く堤防から顔を出し、大河を眺めつつ歩くと風が髪を攫った。
――そして、気付く。
少し先の大橋の欄干に立って、川を見下ろしている少女に。
黒髪ロングヘアと制服のスカートが風に揺れている――その光景にやけに心を奪われて、暫く見惚れていた。
――だが、彼女に異変が。
その少女が前のめりになったのだ。ある考えが浮かんだ四季は、カバンを放り投げて走り出す。
「ダメだああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
全力で手を伸ばしながら、必死で足を動かす。
「え?」
彼女が四季に気が付いた瞬間、腰に四季が抱き着き、思いっきり叫んだ。
「自殺なんてしちゃダメだ!!!!」
「え?」
驚いた瞬間――呆気に取られて足から力が抜け、立っていられなくなり、腰を引っ張られている事で背中から四季の上に落ちた。さっきまで立っていた欄干が足元に見えた。
四季も一緒に勢い良く倒れ、当然の如く背中を強打。今まで感じた事の無い痛みを背中に受けながら激しく悶えた。
「――大丈夫?」
急いで四季の上から降りると、顔を覗き込んで心配する――その瞬間両肩に重みが加わり、苦痛に歪んだままの顔が間近に迫ってきた。
「ダメだよ! 何か悩みがあるのなら俺が聞く! だから考え直して! 大丈夫! 君を一人になんてしないから!!!」
四季の必死の訴えに、少女は驚いた様で暫く目を丸くしながら黙っていたが、「ぷっ」と噴き出した。
「ふふっ、ふふふっ」
四季は疑問符を浮かべながら少女の顔を見る。彼女は目に涙を溜めながら笑っていた。
「お、お腹、お腹痛い……ふふふっ」
ずっと笑い続ける少女を四季は不思議に思っていた――もっと思い詰めているものだと思ったのに、意外にも明るい反応を見せたから。
「え? 何でそんなに笑ってるの? 俺何か変な事言った?」
「――うん。凄く変」
「えー?」
カバンすら投げ出して、全力疾走して、背中を強打までしたのに、この仕打ちは一体何なんだ? 痛みよりも疑問が勝って呆気に取られる。
「ところで、いつ放してくれるの?」
しなやかな人差し指が肩にある四季の手を示すと「え?」とまた不思議そうな顔――だったが、その指の先を辿ってやっと気付く。
「あ! ごめん! ――痛かった?」
バッと慌てて放し、おずおずと少女の様子を伺う。
「大丈夫。痛い思いをしたのは貴方だと思うし」
ひと通り笑い終えてスッキリしたのか、さっきまでとは打って変わって冷静な声が返って来る。
「俺は全然平気! え、えっと、セクハラとかじゃないから!」
四季は自分がした事を思い出して顔を真っ赤にしながら身振り手振りを使って一生懸命説明する。
「唯、橋の上で身を乗り出そうとしている様に見えたから……」
「それで、自殺するって勘違いしたんだ?」
「はい……」
「違うよ。唯、川に映る自分の顔が気になっただけ」
少女は切なげに瞳を伏せていて、その顔が妙に気になった。
「何か、変な顔してるなって」
少女は顔を上げて笑ったが、さっき大笑いしていた顔とは明らかに違う。
「可愛いよ! 全然変な顔じゃない!」
「え?」
少女の顔がほんのり赤くなる。その事に気が付いて、自分が何を言ったのか思い出した。
「あ! いや! だから、そのぉ……」
「ふふっ」
少女はまた笑った。そんな少女をやっぱり可愛いと思う。思ったから、顔を真っ赤にして黙ったまま俯いた。
少女は逆に四季へ視線を向ける。
「――その制服、うちの高校でしょ?」
「え?」
急に話題を変えられたが、四季は素直に自分の制服と少女の制服を交互に見る。校章が一緒だ。
「あ! ほんとだ!」
「私の名前、北瀬真冬っていうの」
四季は絶句した。
北瀬真冬は学校では悪名高い事で有名で、良い噂は全く無い。校内で煙草を吸っているとか、大麻をやっているとか――さすがにそれはデマだろうが――複数人の男子生徒や男性教師と肉体関係があるとかないとか……言い出したらキリがない程。
四季は二年生で真冬は一年生なので直接面識は無かったが、名前だけは聞いた事があった。
「そうなんだ――宜しく、真冬ちゃん!」
「え?」
四季の反応が予想外過ぎて、真冬の思考が追い付かない。
実は、四季が絶句していたのは、聞いた事のある名前だったので、知り合いかどうか思い出そうとフリーズしていただけだった。
「あ! 俺の名前は西塔四季! 西塔は西に塔って書く、ちょっと珍しい西塔なんだ。二年生で文芸部所属!」
真冬の様子がおかしいのは自分が名乗っていないからだと勘違いして、急いで自己紹介する。
「そ、そう……」
何だか気負っていた自分が可笑しくなった。
「――ふふっ」
学校中の人は自分の姿を目に留める度コソコソと話し始める――嫌な意味での有名人。
だけど、今目の前にいるこの人は、自分の事を真っ直ぐ見てくれた。
真冬は、さっきまで学校に行きたくなくて足を止めていた。気を紛らわせる為に欄干に乗って川に映る自分を見下ろしていた。笑ってみても、眉間に皺を寄せてみても、どんな顔を作っても嘘に見えて――なのに、今は沈んでいた表情が、重たかった気持ちが嘘のよう。
立ち上がってスカートを叩き、カバンを持って学校の方を向く。一歩踏み出してみて、もう一歩踏み出してみた。それを繰り返して前に進む――歩き出す。
四季はそんな真冬の後を追った。
「あ! 笑顔も可愛いよ!」
「え?」
「あ……」
勢いでなら言えるのに、素に戻ると上気してしまい、口ごもる。
そんな四季を真冬も可愛らしく思った。
「貴方が笑わせるから、笑顔になったの」
振り返った真冬の笑顔が凄く眩しく見えた。
真冬が歩く度に揺れる黒髪も、細められた黒い瞳も、スラッと伸びた手足も、優しく凛と響く声も――彼女の全てが眩しく輝いて見えた。
「そういえば、カバンは?」
「あああっ! さっき放り投げたんだ! ――いてててっ」
立つ時に背中を強打した後遺症が襲って来た。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫! カバン取って来るから待ってて! 一緒に学校行こう!」
四季は背中を擦りながら、カバンを取りに走った。
「――私に、待っててって言ってくれるんだ」
小さくなる背中をじっと見つめる。
四季に真冬が眩しく見えた様に、真冬にも四季が眩しく見えた。
橋を降りた所で待っていると、直ぐに四季が走って戻って来た。
「お待たせ! 何か親切な人が警察に届けようとしてくれてたけど、セーフ!」
「そう」
そう言うと振り返って、その人物に手を振る。スーツを着た男性だった。出勤途中だったのかもしれない。その男性も優しい笑顔で振り返してくれた。真冬も一応会釈をする。
「じゃ、行こう!」
四季が歩き出すと、真冬はその隣を歩き始める。
こういう時、真冬は何を話していいのか分からない。人とちゃんと接する事が何年ぶりなのかと考え始める。あらぬ噂のせいで周りの人からは避けられ、自分自身も他人を避け続けてきた。
もしかしたら、一緒に学校に行くなんて、四季にとっても迷惑になるかもしれない――マイナスな考えが過ぎる。
「いやぁ~、真冬ちゃんと会えて良かったよ!」
「え?」
それは真冬にとって予想外の言葉だった。
四季はニッと笑う。
「いつもは妹と一緒に歩いて登校してるんだけど、今日ぐらいはバスで行きたいって言われちゃってさ~。でも、せっかくだから、いつも通らない道を通ろうと思ったんだ。最初は楽しんでたんだけど、段々心細くなっちゃって……やっぱり、一人より誰かと一緒が楽しいよね!」
「――そっか」
本当に楽しそうに話す四季にさっきの真冬の心配は必要無かったと安心した。
「あ! この道通った事無い! こっち行ってみようよ!」
「え? ――わっ」
聞き返す間も無く、腕を引っ張られて細い路地を入って行く。
「あ! 猫がいる! さっきも猫見たんだ! 触れなかったんだけど……」
路地を入って直ぐの所に今度は野良の黒猫を見付けた。黒猫は思いっきり威嚇しているが、四季はそんな事お構いなしにゆっくりとしゃがみ込み、そっと近寄る。
「シャ――――!!!!」
「ちょっとだけ触らせてくれない?」
「シャアアアアアアア!!!!」
思いっきり威嚇された後、ダッシュで逃げられた。
「お願いしてもダメだった……」
四季の落ち込んでいる様子にクスクスと笑う真冬。
「猫、好きなの?」
「うん! うちでも猫飼ってるからね! トラ柄のとらまるっていうんだ! あんまり愛想は無いけど、可愛いんだよ!」
「そうなんだ」
嬉しそうに笑う四季。彼は良く笑う。つられて、真冬も笑った。
「また猫見付けよう!」
「逃げられたばかりなのに、めげないね」
すくっと元気良く立ち上がった四季を見て、ちょっと呆れて――でも、優しく微笑んだ。
二人で猫を見付ける冒険を始める。学校に遅れる事も構わず――というよりも、もう寧ろそんな事は忘れてしまっている。
「猫―。ねーこやーい。俺に触られたい猫はおらんかねー」
猫をひたすら呼ぶ姿を微笑ましく思った。
「いないなぁ~」
前方を探す四季から視線を逸らす真冬。ふと左側の路地の奥を見て見ると、塀の上で日向ぼっこしている猫を見付けた。そっちを指差す真冬。
「いた」
「ぅえ!?」
ぐりんっと方向転換をして真冬の指の先を探す。
「本当だ!」
瞳を輝かせながらゆっくりと近付く四季の後ろを、これまたゆっくりと真冬が着いて行く。
ハチワレの猫がクァと欠伸した。
「君は触らせてくれるよね?」
四季がそーっと手を伸ばし、猫に触れた。猫は四季の方をちらっと見たが、また日向ぼっこに集中し始める。今度の猫は人慣れしている様で幾ら触られても「好きにして」と言わんばかりの無関心っぷり。
「さーわーれーたああああ!」
舞を舞うように一回転し、真冬と向き合った。嬉しさを前面に出した顔を思いっきり見せ付け、彼女の両手を握る。
「ありがとう! 真冬ちゃんが猫を見付けてくれたお陰だよ! ありがとう!」
両手をぶんぶん上下に振りながら目に涙を溜めて喜んでいる。
そんな様子に、自然と笑顔が零れてしまう。
こんなにお礼を言われた事も久し振りで、とてもくすぐったかった。
「はっ! そうだ! 学校へ行かないと!」
やっと本来の目的を思い出し、その手を握ったまま走り出す。
「行こう! 真冬ちゃん!」
目の前に見える背中が愛おしく見えて、この時間がいつまでも続けばいいのに――と思った。