甘くない:後編
彼女はいったいどれくらいの用意をして来ていたのだろうか。どれだけの緊張がそこにはあったのだろうか。それらはきっと彼女が抱える大きな想いの裏返しとしてあって、だから弱々しい考えをぶら下げるだけの僕は惰性に任せて話し続けるしかなかった。
もう、何を言ったのか自分でもほとんど覚えていない。ただ確かであるのは、最後の最後にまとめた理由はたった二つしかなかったということだった。
僕は週に一回の「金曜・放課後」に彼女と会っているだけだった。そこでの僕は図書委員の先輩であり、彼女は後輩で、僕と彼女との関係はその枠の中だけで完結していた。他の時間に会っても会釈をするくらいで一緒に帰ったことだってなく、枠からはみ出すことのないものとしてあった。世間話をするよりかは本の感想について話すことが多くて、だから僕は、彼女が賢くて、芸術を学問として認めていて、ホッブズが好きじゃなくて、規範文法には反対で、数学をツールとして見ていて、化学よりも物理学の方を重視していて、というようなことは知っていても、彼女が夏と冬のどちらをより好いているのかは分からない。そんな「僕は君のことをよく知らない」状態で付き合うというのは実感が湧かなかった。
それに何よりも、僕には「恋愛として好き」という感覚がない。
彼女といるのは楽しい。一緒に話をする、議論をする、時に言い合う、お互い笑う、そのどれもがあらゆる憂いごとを忘れさせてくれたし、そうでなくても勉強をしている彼女の隣に座ってペンの音を聞いているのでさえ、合奏部で下手を注意された後の心に凪をもたらしてくれた。もしも「先輩と一緒にいたいです」とだけ言われていたなら、僕はそれに間髪入れず肯定を返していただろう。けれども、これが「好き」というものなのかは自信がなかった。この気持ちが、小説や漫画に描かれるようなあの気持ちと同じであるとは思えなかった。
「広瀬さんには親愛の情を抱いてはいるけど、恋愛感情を持っているかは分からない」
そう言って僕は彼女を拒絶した。
「ありがとうございました」
あのあと彼女はすぐにリュックを抱えて書架室を出ていった。今日は僕と彼女の貸出し当番で仕事が終わるまでにはまだ一時間以上あったのだけど、僕も彼女も人の来ないカウンターに並んで座ってその時間を過ごすことはできようもなかった。少なくとも僕は、自分の左隣に自分が振った人がいて時折はなをすする音が聞こえてくるというのには、とても耐えられなかった。彼女が「帰ります」と言ったときに少し鼓動がおさまったのには自分でも嫌悪感を覚えたものの、それが僕の本音だった。
デスクの上には可愛らしい紙袋がきちんと立ててある。彼女が「せめて、それだけは受け取ってほしいです」と言って残していったのがそれで、僕はその紙袋を手元に引き寄せ、膝に乗せて、その中からチョコレートを一つ取り出して机上に置いた。
折り紙でできた花を開くと中は空洞で、そこにクッキーが入っていた。濃い茶色をしたチョコレートのクッキーだった。
カウンターに一枚のクッキーとさっきまで読んでいたマクスウェルの本を並べる。クッキーは折り紙の包装に入るくらい小さく、一方の本は総300ページ以上ある大判。それでも僕にはクッキーのほうがずっと重いように思われて、そのことを証明するように視線も吸い寄せられた。渡されたものだけがあって渡してくれた人はいない、その欠如でもって僕を咎責しているのが彼女のクッキーだった。
早く食べなければならない。今でなければ一生食べないという確信があって、そしてまたこの糾弾者がいつまでも側にあるのは居心地も悪かった。
「甘いもの、あんまり好きじゃないんだけどな」
言って、また自分の言葉が自分を刺す。どうして最初に言わなかったことが今になって出てくるのだろう。静寂に耐えきれず漏れ出た文言は明らかに彼女を貶めるものだった。それは、彼女のことをよく知らない僕が同じ立場に彼女を押し込めようとする意識の表れだった。
本をデスクの端に寄せその他の紙や書類も脇へと追いやって、僕は角の丸い長方形のクッキーを小さくかじった。
「えっ」
違和感があった。
今度は、まだ4分の3以上残っていたそれをゆっくりと丸ごと口の中に入れた。
歯が通る感覚、砕かれたクッキーが舌の上に広がる感触、そのいくつかが喉の方へ流れてカカオの香りが鼻を抜け、その後にチョコレートの苦味と頬を暖かく包まれるような甘さがあった。その中に僕の嫌いな主張の強い砂糖の味はなかった。
「甘くない」
僕は開かれた折り紙をそのままに紙袋からまた一つを取り出した。
ちょうど書架室のドアが開けられたタイミングだった。
「こんにちは、蒼嶋さん」
司書の先生だった。
「広瀬さんはまだ来ていないみたいですね。あ、それとここでバレンタインは……」
僕と先生とはそこで目が合った。先生は僕を見たあともう一度カウンターデスクに視線を戻し、それから壁を見た。時計があって午後五時を告げており、僕は彼女が去ってから三十分が経とうとしていることを知った。
なるほどという先生の呟きに僕はひどく恥ずかしい思いをした。
「広瀬さんは今日はお休みにしておきますか」
頷くにとどめた。
貸出しカウンターに隣接する司書室に入って教務室でもらってきたらしい書類を机の中にしまった先生は、開けっぱなしになった扉越しに重苦しい空気を感じていたのかもしれない。そういう急かされるような状況でなかったらこんな下手な質問は飛んでこなかっただろう。
「でも、蒼嶋さんって甘いものが苦手だと聞いていましたが」
うへぇ、と僕は心の中で悪態をついた。何てことを言うんだと、ひどい先生だと思った。でもそれが言葉になって現れる前に一つの疑問が首をもたげた。僕が甘いもの好きでないということをどうして先生が知っているのだろう。そんな会話をした記憶は全くないのに。
「十月の自己紹介でそう言ってましたよ。好きなものが話題になっていた最後に『甘いものは苦手です』って添け加えて」
そうだっただろうか。いや、そう言われればそんな自己紹介をしたような気もする。もう四ヶ月も前の話で、それも委員会の自己紹介となっては記憶も定かではないけれど、でも他の人がプラスアルファを喋るものだから自分も何かを足そうとした覚えはある。甘いものが苦手、確かに言ったのか。
僕は納得した。けれど先生はその納得をよしとしなかった。
「それに、そういうやり取りを何度かここで聞きましたよ。確かブラウニーよりガトーショコラの方が好きだという話も、広瀬さんとの会話の中で」
そのあとも先生の声は何かしらの言葉を発していたかもしれない。でも僕にそれを認識している暇はなかった。
渡されていた紙袋の口を大きく開いて覗き込むと、中に入ったお菓子はどれも折り紙で可愛らしく包まれていたが、その形には明らかに違いがあった。さっきまで食べていたのとは別のものを引っ張り出してデスクの上で折り紙を広げる。両手の指が震えてその拍子に中身に触れたとき、その柔らかさがクッキーではないことを示していた。
焦燥が一気に罪悪へ傾く。そして新しく口に入れたそれも、やはり甘くはなかった。
「こんなのって」
僕は甘いものがあんまり好きではない。ブラウニーよりもガトーショコラの方が好きだ。それなら今ここに置かれているプレゼントはどうだろう。僕は確かに自己紹介で苦手なものを言った。でも好きなお菓子の話はしていない。それならどうして今ここにこれがあるのだろう。
三十分前の自分は何をしていたのか。いや、それを言うならこの一年間の自分は何をしていたのか。彼女は僕に好意を抱いてくれていて、僕と一緒にいたいと思ってくれていて、それで僕のことを知ろうとしてくれていた。彼女のことを大事な後輩だと思っていた僕は、一方で、彼女と同じようなことを何もしていなかった。ただ彼女に本の感想を言うだけで、彼女自身を知ろうという行動が、ここにはなかった。
痛かった。
でも僕は、もっと大きな痛みを受けることを運命付けられていたらしい。
それを与えたのはやっぱり無知な先生だった。
「広瀬さんも甘いものが苦手だったんですか?」
違います、という一言が無意識のうちに発せられた。
「違います。彼女は甘いものが好きです。苦いものは得意でなくて、カフェに行ってもブラックコーヒーを飲めない人です。お菓子と一緒に紅茶を飲むタイプの人なんです」
「へえ」
先生の戸惑い気味の声が聞こえた。それは僕のことをちょうど雪の降っている外に投げ出したかのようだった。
冷静になってしまえば、どうして僕がこんなにも知っているのだろうという不思議が湧いてくる。彼女は僕と同じようにクラシックをよく聞いていて、でも僕とは違って運動も好きだ。僕が読書に捧げている朝を彼女はランニングで過ごしていて、僕がお茶を含んでいる頃に彼女はスポドリを飲み込んでいる。僕は料理が下手だけど、彼女は家庭科の先生が驚くくらい上手。
彼女について僕が知っていることが延々とリスト化されていって、その果てに僕は問いの答えを得た。
──僕はこうで、彼女もこう。
──僕はこうだけど、彼女は違う。
それは必ずペアとしてあった。
彼女はたまに僕自身のことを聞いていた。そして必ずその後に彼女自身のことを言っていた。その「たまに」が一年分も降り積もって、今こうなっている。
彼女は僕のことを知ろうとしていた。僕に自分のことを教えてくれていた。そんな、大事な後輩のその人自身のことを聞こうとしない僕とは正反対の彼女に、僕は「僕は君のことをよく知らない」と言ったのだ。
「ごめん」
あの時と同じ、でも違う言葉だった。
零れないように上を向いた視界にカレンダーが入って今日は二月十四日なのだということが思い出される。今学期が終わるまでまだ数週間あって図書館の貸出し当番もずっと続いていくのに、ここには途切れたものがある。
もう来ないかもしれない。来たとしても話すことはないかもしれない。顔を見ることはないかもしれない。一緒に開いた本の数はもう増えないかもしれない。
「嫌だ」
ただ一つ、そう思った。
僕はマクスウェルをそのままにして、リュックも床に転がしたままにして、ただ彼女が手渡してくれた紙袋だけを持って、今日ずっと座っていた椅子から立ち上がった。
今日初めてカウンターの外へ出た。
デスクに「今は図書委員はいません」という紙札を立てて、先生の呼び声を背中に受けながら書架室を出た。
閲覧・自習室には来たときと同じくらいの三年生が二次試験に向けた勉強に必死になっていて、僕はそれを見て、たった今外して制服のポケットに仕舞おうとしていた図書委員の腕章を、小さな本棚の上に置き去りにした。
生ぬるい空気に満ちていた図書室と違い、廊下には冬の風が吹き通っている。それが走ろうとしていた僕の足を引っ張って、冷たい思考を抱かせる。
「無理だったり」
柔らかい言葉の裏で彼女から向けられていた想いを丸ごと否定するような拒絶を僕はした。すでに嫌われていてもおかしくはなく、今さらこんなことを言ってナニサマという話もそれはそう。全てはもう終わっていて、僕にできることは残りの数週間をなるべく彼女に苦しい思いをさせないよう過ごすことだけなのかもしれない。
風が強く吹いた。
「もし『無理です』って言われたら……」
その時はきっと心が折れてしまう、そう確信したとき、ずっと欠けていた残りの一つが埋まった気がした。
──こう思っていたのは、きっと彼女も同じだったのだ。
強い風にガタンという大きな音が鳴って、僕は引き寄せられるようにそちらへ目を向けた。
窓があり、そこから校門が見下ろせた。一緒に帰るカップルたちの姿が見えた。
──その中にあって、たった一つの背中は太陽のように目立っている。
僕は駆け寄って、窓を最後の最後まで開けた。
「広瀬さん!」
Thank you for your kindness of showing me the story of yours'.
May Happiness be upon your futures.