甘くない:前編
「先輩」
マクスウェルを読んでいた僕は、ちょうどキリが良いところで話しかけられて数式の載った本から顔を上げた。
二月十四日。
三年生は二次試験に向けたラストスパートの真っ最中で、隣の閲覧・自習室がほぼ埋まる勢いで受験勉強に必死になっていた。一、二年生も期末試験が近づいて来ている中ではありながら、でも今日だけはテスト前の尖った雰囲気がどこか薄く、その分は少しばかりの恨み言と、あとは桜のような幸せ色の空気が満たしていた。図書室に来る途中の廊下からも窓から見下ろす校門に一緒に帰るカップルたちの姿が見えて、暗くなり始めた空の下、小さな雪が音を立てずに降る中で、繋がれた手はきっと手袋よりも暖かいのだろうと似合わないことを思った。
何にしても、そういう色々の条件が重なった結果として普段から訪れる人の少ない書架室にはほとんど人が来ないということになり、今日の図書の貸出し当番はいつにもまして仕事がなかった。返却された本はとっくに本棚に戻し終えてしまって、いよいよすることが無くなってからは書架から適当に難解な本を取り出して読んでいた。
彼女は彼女で、僕と同じように貸出しカウンターに座りながら授業の課題か何かをやっているようだった。数Aの、図形。問題集を開きながら三角形の五心や円が難しいとこぼした彼女に、僕は分からないことがあれば遠慮しないで聞いてと言ってあった。
それだろうと思って、僕はふりむいた。
「透希先輩」
けれども彼女は問題集とにらめっこしているどころかそれを閉じてしまっていて、彼女の方に向き直った僕の目の前で、その手に小さな紙袋の紐を握っていた。
よく分からないままに顔を上げるとその透き通った淵のような瞳と目が合った。
そこで彼女は、手に持った紙袋を少し掲げた。
「チョコです。受け取ってください」
──は? という声がもしかしたら漏れていたかもしれない。
正直に言って、一瞬「何の話?」と思った。そして眉根が寄った。それは今ここで起こっていることが僕にはほとんど馴染みのないことで、何のつかえもなく理解することができなかったからだった。
「あぁ」
そうか、校門でその象徴を見たばかりだった。二月十四日だ。
ようやく何なのかが分かったとき、僕は確認の意味を込めて恐る恐る聞いてみた。
「僕に?」
「他に誰がいるんですか」
「それは……あ、いや」
少しばかり気まずく思いながら横目に周囲を窺う。
相変わらず人の気配のない書架室には淋しさだけが広がっていた。暖房の音と貸出しシステムのコンピュータ駆動音だけがあって、身じろぎをすれば制服の擦れまでも聞き取れるほどだった。
確かに、その手に握られたお菓子を受け取る人は、僕以外にいない。
変な緊張から出た言葉を取り消して、僕は素直に「ありがとう」と彼女に応じた。いくら後輩から貰えるとは思ってなかったといっても、この状況でわざわざ宛人を聞き直すのは失礼すぎただろう。
「ごめん。変なことを聞いて。それから眉を顰めてしまったのも……」
「分かってます。先輩、考えごとをしてる時に眉を寄せる癖ありますもんね」
くすり、と彼女が笑い、つられて安堵の笑顔を漏らしながら僕は「よく知ってるね」と返した。
彼女と僕とは、こうやって貸出しカウンターに二人で座ってたまにやってくる貸出し希望者の手続きをしながら、お互いたわいないことを喋っては談笑するという仲だった。
最初に出会ったのは四月、図書委員の第一回集会で本の貸出し当番の割り当てを決めていたとき。当番は二人ペアで、友人と一緒にやりたい人や時間の短い昼休みをやりたい人がジャンケンで一喜一憂しているのを、特に希望もなく、むしろ長い方がいいとさえ思っていた僕は、一人こっそりとホワイトボードの端っこの「金曜・放課後」の欄に自分の名前を書いた。いつ決まったのは分からなかったが、そのもう一人が彼女──広瀬由和──だった。
小柄な人で、バドミントン部に所属しているのだと自己紹介で言っていた。当初は運動部だからあまり当番に来ないんじゃないかなんて失礼なことを考えていて、早々にそのことを白状して謝ったのは僕の高校生活の中で一番恥ずかしい思い出だ。
二人で貸出し当番をするようになって気付いたのは、彼女はすごく頭が良いということ。仕事の内容は全て一度で覚えてしまったし、十月からの二期目が始まってからは本の置き場所まで覚えるようになってしまっていた。一度、返却棚にあった民俗学の本を手に取って「これって380番ですよね?」と聞かれたときには、驚きのあまり貸出しコンピュータのキーボードを押し間違えてその日の日誌を全部消してしまったくらいだった。
「先輩が前に片付けていたのを見てましたから」
「十進分類法、僕は覚えるのに一年くらいかかったんだけどね」
誇らしげな彼女の笑顔をよく覚えている。
運動部の人は皆そうなのか、それとも彼女が特段になのか、彼女の交友関係はかなり広いようだった。昼休みの図書室で他の貸出し当番の子と話している彼女の姿を何度も見かけたことがある。図書委員はクラスで一人しか出さないから、クラスメートというはずもない。一年生だけじゃなくて二年生とも関わっていたのを考えると、いわゆるコミュ強という存在なのかもしれない。
そんな彼女だから、友だちにチョコレートをあげるだろうことは容易に予想がついた。他の図書委員にもそう。そして僕は、自分がもらえるなんてことは欠片も思っていなかった。
それは今までの無経験ゆえに想像ができなかったというのもあるし、そうでなくとも僕は──違っていればいいなと一縷の望みを持ちつつも──自分が「やけに難しいことを話す変な先輩」という位置にあると思っていたからだった。彼女は頭がいい。しかも僕と同じで様々なことに興味を持つタイプであるらしく、だから自然、僕は彼女にいろんな話をするようになっていった。それはたいてい読んだ本の感想だったのだけど、哲学や思想に関する本の感想にまで彼女から返事が返ってきて、しかも質問まで的確だったものだからついつい当番のたびに話を振ってしまい、それであとから僕が恐縮するというのがいつもの「金曜・放課後」だった。
そういうわけで、彼女が僕にまでチョコレートを作ってきてくれるなどというのは、全くの予想外だった。
「僕にも用意してくれたんだね。美味しく頂きます」
チョコレートを渡す価値のある先輩だと思われていたことに心が軽くなる。
たぶん、他の同学年の図書委員とか二年生とか、一緒に話していた子たちにも渡して来たのだろう。今日来るのが少し遅かったのはそれだからだったのかもしれない。その位置が僕には心地よかった。こんなにいろんな話ができる後輩を、ついに持つことができたのだから。
お返しはどうしようか、月末に天文台か博物館でも行ってこようか、そんなことを考えながら僕は彼女の持つ可愛らしい紙袋に手を伸ばした。チョコレートを受け取るためだった。
けれどもそれは、僕の手が触れる直前に引っ込んでしまった。
「違います」
それは、別の声だった。
はっと顔を上げて彼女を見る。
目も、また別だった。彼女の目は、両目は、その極めて浅いところに太陽を秘めて、僕のことを真正面から捕らえていた。
「先輩にもじゃありません」
嫌な予感がした。
「先輩にしか作ってません」
これは聞いてはいけないのだと思った。
けれども彼女の固く引き結ばれた唇が、一寸も揺れ動かないショートの髪が、そして何よりその二つの瞳が、僕が逃げることを許さなかった。
「透希先輩」
その一呼吸は、彼女にとっては永遠に近いものであったのかもしれない。
僕にとっては無いのと同じだった。
「好きです。透希先輩のことが、恋愛として好きです。先輩に恋をしています。いま目の前にいる先輩と、一緒にいたいと思っています。隣にいたいと思っています」
次の間は、たぶん逆だった。
「私と、付き合ってください」
彼女ははっきりと、全く誤解の余地も隙間もない言い方をして、伸ばしたままだった僕の右手を握り、そこに今度こそチョコレートの入った紙袋を握らせた。
僕はもう息も絶え絶えで、いつもは人並みに持っている配慮や思考すらも全てが吹き飛ばされてしまっていた。そもそも自己評価は「変な先輩」だったのだ。告白されるなんてことは過去に一度として無かったし、チョコレートをもらうこと自体が珍しい出来事だったのだ。彼女から、たとえ義理でも渡されるとは思っていなかったのに、それが今こうして告白されている。浮かんでくる言葉はことごとくその衝撃によって掻き消されて、結果として僕は何も喋れなくなってしまっていた。
「好きです」
それは、彼女に手を握られて、その手を見つめて動かない僕に、彼女が向けた言葉だった。
「初めて図書委員をやった私に、一つ一つ仕事を教えてくれました。本にさわる手付きが優しくて、本への愛情が見えました。本の紹介ポップを作るために、わざわざ司書室から過年度のを持ってきてくれました。雨が激しい日は、まだ当番が終わらない時間に『先に帰っていいよ』って笑って手を振ってくれました。毎週、私にいろんな話を聞かせてくれました。先輩は図書館の本の場所を全て知っているみたいで、九月に来た三年生の『文心雕龍』っていう本を、珍しいのをお探しですね、という一言だけ言って書架から持ってきてしまいました」
「先輩に教わって、私は先輩と同じくらい図書委員の仕事ができるようになりました。先輩を見て、私も本に優しく接するようになりました。先輩のポップを眺めて、ちょっぴり変なイラストに思わず笑うことがありました。先輩の気遣いに、私は一緒にいたいのにって少し恨めしく思ったりしました。先輩の話についていけるようにいろんな分野の入門書を読むようになって、それがいつしか好きになりました。先輩に追いつきたくて、私も図書の分類と本の配置をがんばって覚えました」
「私の中心には先輩がいて、先輩と一緒に過ごす時間が本当に幸せでした。来年、私か先輩のどっちかが図書委員じゃなくなったらと思ったら怖くて、そうでなくても先輩は受験シーズンで、今しかないと思いました」
「それで今、私はこうしてここにいます」
それは、彼女の長い告白だった。いや、もしかしたらわざと長くしたのかもしれなかった。唐突の告白に僕がこうなってしまうことを彼女は分かっていて、それで落ち着く時間をくれたのかもしれなかった。
実際、僕はもうすっかり頭が冷えてしまって、自分の手と繋がれた彼女の両手から視線を離して、彼女が僕にするのと同じようにじっと目を見つめていた。
それが礼儀だと思った。押し潰され、引きちぎられそうな心で思いを告げてくれたのだろう彼女に、それを果たしてしまう僕が最低限持っているべきものの。
「先輩が好きです。蒼嶋透希っていう、いま私が手を握っているあなたが好きです」
この目を、僕は本当に淵にしなければならない。
僕は口を開き、何も音を出せぬまま閉じ、金魚のような無様を数えきれないくらい彼女の前に晒し続けたあとに、その三文字をとうとう言ってしまった。
「ごめん」
──刹那、やっぱり目を見ないで言えば良かったと思う。どんなに素早く逸らしても、言ってからでは避けようのあるはずがなかった。くっきりと印のように脳裏に焼き付いたたった今の光景は疑いようもなく僕が引き起こしたもので、心臓が絞られるようなこの感覚と共にこれから一生抱えていくものだった。
彼女の目は、もうこちらを見ていなかった。彼女の短い髪が、その俯いた顔を僕の視線から覆い隠していた。握られた両手が膝の上で震えていた。制服のスカートに雫が落ちていた。可愛らしい紙袋はいつの間にかカウンターデスクの上に立てられていた。
さっきまで、僕と彼女だけの書架室には暖房の音と貸出しシステムのコンピュータ駆動音だけがあった。今はもう、そのどれも聞こえない。
僕は、もうほとんど聞き取れない声の中に「ぎゅう」という言葉が繰り返し聞こえて、それが「理由」なのだと気付かされたとき、今からでも言い直そうかという考えをひそかに抱いた。
でもそれは邪で、許されないことだったのだろう。
「広瀬さん、僕は」
僕の言わんとした言葉に、彼女は俯いたままの顔を大きく横に振って、完全な拒絶を与えた。その拍子に動いた椅子がカウンターデスクにぶつかって、チョコレートの入った紙袋を横倒しにし、折り紙で包装された中身を机上にばら撒いた。
彼女は、それに一瞥もくれなかった。
「ぎゅうを゛、おじえで、っぐだざいっ」
言うなり、彼女は僕が座っていた椅子にぶら下がるように捕まって、膝もとから僕の顔を見上げた。そうして僕は、僕自身が彼女の整っていた顔をこうさせたのだと見せつけられて、僕自身が彼女を地獄に落としたのだと認めさせられて、自分一人だけがのうのうとはできないという意味不明で自分勝手な覚悟で「うん」と言ったのだった。