9.推しはドーピング
「では私は仕事に行ってきますね」
「ああ。それも手伝えればいいんだが」
洗面所に閉じこもって歯磨きや化粧を終えてから魔王様に言う。
食事中にこの世界でのことをさらに説明し、私の仕事のことも説明した。
「いえいえそんな、こちらこそ不安な中一人にしてしまって本当にすみません」
「そんなことあかりが気にすることではない」
苦笑しながら言われるけれど、罪悪感のようなものはなくならなかった。
閑散期とは言え、昨日は最新号を読むために定時きっかりに上がったせいで中途半端に仕事を残してきてしまっている。
急遽休みをとったら困る人が出るので、出社するしかないのが悔やまれる。
出る間際にレンジの使い方とテレビの使い方、それに暇つぶし用に何冊か男性向け雑誌を提供する。
なぜそんなものがあるのかと言えば、魔王様に着せたい服を選ぶために買ったからだ。
もちろん脳内で。
妄想のために。
若者向けのカジュアルなものから壮年向けのハイブランドのものまで。
インテリア系の雑誌もいくつか入れた。
これも自宅の模様替え用なんかではなく妄想用だ。
これらで結構こちらの生活様式を学べるのではないだろうか。
「外は車とかいろいろ危険なものがありますので、申し訳ないですが今日一日は家にいていただけますか?」
「ああもちろんだ。あかりの迷惑になるようなことはしない」
自分の容姿や言動がこの世界にそぐわないことを危惧しているのか、そんなことを言ってくれる。
興味や不安より、私の世間体に配慮してくれるあたりが魔王様の素晴らしいところだ。
「迷惑だなんてそんな。服とかもその、今着ているのは外出には適さないので帰りに何か買ってきますね」
「すまないな」
申し訳なさそうな顔もグッとくるけれど、そういう類の顔を積極的にさせたい訳ではない。
やはり推しにはいつでも笑っていて欲しいのだ。
「明日は土曜、……仕事が休みの日なので、一緒に色々見て回りましょうね!」
「そうしてくれると助かる。苦労をかけるな」
「いいえ。私が楽しくてやっていることなので。今日は定時、ええと早く帰るので、のんびりしててくださいね」
なんだこの同棲初日のカップルみたいな会話。
しかもちょっとヒモを養っているみたいだ。
魔王様がヒモって。
なんだそれ最高か。
ニヤニヤを堪えつつ玄関へ向かう。
魔王様はひよこのように私のあとをトコトコついてきて、靴を履くのを大人しく待ってくれた。
「あ、そうそう、時計の見方も教えておきますね」
シューズボックスの上に並べてある腕時計からユニセックスのものを選んで魔王様に渡す。
それから使い方を教えて、私の帰る時間を告げた。
「買い物をしてから帰るので少し遅れるかもしれませんが心配しないでくださいね。では今度こそ」
「ああ。何から何まですまないな。見送るときは何と言えばいい?」
「えっ、ええとその、いってらっしゃい、かな」
ドキっとしながら答えると、魔王様が「そうか」と納得したように頷いた。
「いってらっしゃい、あかり」
「ふわぁ……」
とろけるような笑みと共に言われた言葉に、魂を抜かれたような声を返してしまう。
うっとりぼんやりしたまま、いってきますを言うことも忘れて家を出る。
悲しいかな、これで奇声女確定だ。
電車は相も変わらず満員で、四方八方からぎゅうぎゅう詰めにされているのに心は晴れやかだった。
家では最愛の魔王様が待ってくれている。しかも寸足らずのスウェットで。
そう思うとやる気がみなぎってくる。
まだ正気じゃない可能性はいくらでもあるけれど、おかげさまで元気はいっぱいだ。
勤め先はそう大きくはない会計事務所だ。
新卒で勤めた大手監査法人時代のマネージャーの独立についていった。
元々顔の広い人だったから顧客は多い。なんだか怪しげな個人経営者やアングラな匂いのする会社なんかもいるけれど、所長が大丈夫だと言うから大丈夫なのだろう。
税務申告やら経営コンサルティングやら手広くやっている。
事務所はいつでも活気に満ちていた。
「清田さんおはようございまーす」
「おっはよ。なんか機嫌良さそうじゃん」
働き慣れたオフィスに入り、隣の清田に挨拶をしながら自分のデスクに座る。
いつも通りの光景だ。
徹夜明け特有のだるさはあるが、事務所内はあまりにも日常すぎて、やはり幻覚なのだろうかと思えてくる。
「えへへ、そう見えます? やだな恥ずかしい」
早速仕事に取り掛かりつつ清田に応じる。
「何かいいことあった? あ、例の雑誌の発売日か。推しだっけ? 出たの?」
問われてスッと真顔になる。
意識的に記憶の外側に追いやっていた本誌の展開が鮮明に脳裏に浮かんでしまったのだ。
「あれ、もしかしてなんか地雷ってやつ踏んだ?」
彼女も所長の独立についてきた前職場からの付き合いだ。
私が給料日にのみ定時で帰る理由を知っている。
オタクではないので漫画は読まないが、色々と柔軟な人なので推しという概念に理解がある。
「いえ……何とも形容しがたい複雑な事情がありまして……」
「オッケー分かった何も聞かない」
察しの良い彼女がお手上げのポーズをして、自分のパソコンへと視線を戻した。
「なんかすみません」
「いーのいーの。どうしてもしんどい時だけ相談して」
適切な距離を見極めてくれる彼女の存在はとてもありがたい。
若干の申し訳なさを感じつつ、それでも定時に上がるために猛烈な勢いで仕事を片付けていく。
たびたび魔王様の存在を思い出しては顔がにやけるのを堪えるのが大変だった。
いや、実際は全然堪えられてはいなかったかもしれない。
家からこしらえてきた大きめのおにぎり一つを飲むように食べて、ロクに休憩も取らずに働く私に、清田が時折不審そうな視線を向けてくる。
「あんた今日変じゃない……?」
「そうですか?」
「うん……なんか隈が出来てるのに血色は良いのが謎。それにすごい形相で仕事してるのにちょいちょい妙に幸せそうで不気味」
歯に衣着せぬ物言いは気安い関係ならではでいっそ清々しい。
どうやらにやけ顔は隠せていなかったらしい。
「んふふ、わかりますぅ?」
「なに、やっぱなんかいいことあったの?」
「いやなんか狙って幻覚見るスキルを習得したみたいで」
「……そっか、お疲れ」
ぬるい笑顔と共に会話が終了する。
お触り厳禁と判断したのか、それ以降清田から話しかけられることはなかった。
うん、たぶんあれは幻覚なんだろうな。
死の間際で獲得してしまった特殊能力的な。
きっとファントムなんちゃらみたいな技名があるに違いない。
ふと、さっきおにぎりを食べながらスマホで本誌感想を見て回ったことを思い出す。
魔王様派の阿鼻叫喚にあふれたタイムラインは見るに堪えなかった。
私の呟きがないことを心配してくれるフォロワーさんからのリプライもあった。
たぶん死んだと思われている。
実際死のうとしていた。
安心させるために生存報告くらいはしておくべきかもしれない。だけどまだ呟く気にはなれなかった。
だって何を呟けばいいのかもわからない。
死んだと思った魔王様のあとを追おうとしたら本物が出現したので幸せですって?
そんなの間違いなく脳か心の病気を疑われる。
私だって、ずっと自分の正気を疑い続けてるのだから。
終業時間のチャイムと共に立ち上がる。
手早く帰り支度を終えてパソコンの電源をオフにした。
「お疲れ様ですお先失礼します!」
「えっ、今日も!?」
二日連続定時で上がろうとする私に、事務所内がざわめいた。
本誌発売日以外は終電ギリギリまで残業していたのだから珍しがられるのは分かる。
けれどいちいち疑問に答えている余裕もないので、同僚たちに捕まる前に溌剌とした笑顔で黙殺して速攻事務所を飛び出した。
別にうちの事務所はブラックというわけではない。
むしろ真面目にやればきちんと評価してくれるし、残業代もきっちり払ってくれる。
だからこそ私は自ら望んで社畜同然に働いているのだ。
これまで魔王様が現実にいたらという妄想で、全力で貢ぐために稼ぎ続けてきた。
何不自由ない生活を提供できるようにと働きまくり、おかげでトントン拍子に昇給し続けた。今では二十代後半にして所内で三番目の役職を与えられ、年収も数年内に一千万に手が届こうとしている。
その稼ぎのほとんどは貢ぎ資金として、給与とは別の口座に振り込んでいる。
本当は魔王様名義で作りたかったが、それは銀行が許してくれなかった。仕方なくキャッシュカードを魔王様に預けているという設定を脳内に作り出した。
ぶっちゃけ結構な額が溜っている。
他に使うアテがないから当然と言えば当然だ。
神棚に祀られた通帳は、振り込みと記帳が終わり次第元の場所に戻して、魔王様に届きますようにと毎朝拝んでから出社している。
もしかしたらその怨念染みた想いの強さが魔王様を呼び寄せてしまったのではないかとも思うが、幻覚の線はまだ捨てていない。
電車を降りて、駅ビルで男性用の下着を買い足す。
パジャマや外出着なんかも買おうとしたけれど、男物はいまいちサイズ感がわからずに断念した。
それから歯ブラシなどの日用品と高級食材を買い込んで店を出る。
足早に家路を急ぎ、煌々と明かりを灯すコンビニを目指した。
一階がコンビニ。六階建てでエレベーターなしの最上階。
駅から近いわりに家賃が安いということだけで決めた安アパートが我が家だ。
そこで魔王様が私の帰りを待っている。
そう考えると、大荷物を両手にぶら下げていても何も苦にならなかった。
階段で六階を目指す間、心臓はバクバクしっぱなしだった。
体力に自信はあるけれど、歩を進めるごとに足が重くなっていく。
だって家に入って誰もいなかったら。
目の前に現れた魔王様は幻で、本誌で死んでしまったのだけが現実だというのなら。
やっぱり私は死ぬしかなくなってしまうから。