23.もはや推しなどではなく
「それでは行ってきます!」
昨日の暗さを見せないように溌剌と言う。
けれど目が赤かったので、心配させてしまっているはずだ。
私の悔恨は私の中だけで片を付けなくてはいけないはずなのに、ノクトを困らせてどうするのか。
ノクトが帰る方法を見つけられるまで、今までの生活を維持してあげなくちゃならないのに。
頭を切り替えて勤労に精を出す。
猛然と仕事を片付けて、今まで以上に定時上がりを死守するようになった。
それから会社近くの大きな図書館で文献探しをした。
黒魔術やら魔法の概念やら、怪しげなものを片っ端から読み漁り、ノクトに不審がられない程度の時間で切り上げて帰宅する。
「ただいまー、今日も忙しかったよ~」
「お疲れ。今日はあかりの好きなカツ丼にしたからな」
それで何食わぬ顔で社畜アピールをして、図々しく推しに癒してもらう日常だ。
「わーいやった! ノクトのカツ丼大好き!」
「あかりは何を作ってもそう言うな」
ノクトは苦笑して、私が手を洗ったり鞄を片付けたりしている間に食卓を整えてくれた。
ノクトはすでに漫画をすべて読み終えて、それでも何を言うでもなく私との日常を続けてくれている。
部外者である私に触れてほしくないのか、それとも気を遣わせないようにしているのか。
優しいノクトのことだから、たぶん後者なのだろうと思う。
だから私もノクトに変な気を遣わせたくなくて、戻る方法を調べているのだということを言わなかった。
ベッドに入ったあともノクトが寝たのを確認してから、スマホでこっそり文献や手掛かりになりそうなものを検索し続けた。
ノクトと暮らし始めて以来まともだった睡眠時間はあっという間に削られて、目の下にはうっすら隈が現れ始めた。
だけど社畜生活に慣れていたので、ちょっとやそっとの寝不足じゃ堪えない。
ノクトも図書館に通っているようで、毎日のように違う本が部屋の隅に置かれている。
魔術関連の本を家に持ち帰らないのは、私に気を遣われたくないからだろうか。
歴史書を借りるのは、きっと似たような事象が過去になかったか調べたかったからだろう。
早くノクトのために帰る方法を見つけてあげたい。
出来れば私の手で探し当てて、どうせなら最後に目一杯褒めてほしい。
それだけを目標にして調べものに没頭し続けた。
毎日元気に仕事に通い、ノクトの手料理をたらふく食べて、それから彼の隣で少しだけ眠った。
「……なんだか最近、疲れていないか」
電気の消えた部屋、ベッドの上でノクトが静かに言う。
「へ? そう? 元気いっぱいだけど……」
演技でもなんでもなく素で答える。
だって至近距離に推しの顔がある。
暗闇の中でだってその造作は美しい。
推しの存在はいつだって私に元気をくれるのだ。
「仕事はそんなに忙しいか」
言いながら私の目の下をそっと親指でなぞる。
隈のことを指摘しているだけなのだろうけど、馬鹿みたいに心臓が高鳴った。
「そう、だね。ちょっと忙しいかな。でもノクトが来る前はいつもこんな感じだったよ?」
ノクトに嘘をつくのは心が痛かったけれど、本当のことを言えばきっとそんなことはしなくていいと言われてしまうから。
「少し休んだらどうだ」
「心配性だなぁ」
誤魔化すように笑いながら言うと、ノクトが真面目な表情のまま私の頬に手を添えじっと私を見つめた。
心臓は速いままで、見透かすようなその視線に耐え切れず、恥じらうフリで目を逸らした。
「……じゃ、今週末はゆっくりしようかな」
「ああ。そうしろ」
定時で上がる弊害として、最近は週末に持ち帰りの仕事をすることが増えていた。
ノクトはそれについても言っているのだろう。
ホッとしたように言うノクトに罪悪感のようなものを感じながら服の裾を掴む。
ノクトの腕が伸びてきて、当たり前のように私を抱きしめた。
幸福感に胸が締め付けられて、深く息を吐く。
ノクトが帰ってしまったら、私はこの腕を失うことになる。
今までは平気だった一人での生活に、果たして私はまた戻れるのだろうか。
その問いかけの答えはすぐ見えるところにあったけれど、見ないフリでゆっくりと目を閉じた。
週末は約束通り、ノクトと二人でのんびり過ごした。
仕事は持ち込まず、一緒に昼寝もして、並んで少し凝った料理に挑戦して。
それから夜にベッドに寄り掛かって映画鑑賞をした。
肩が触れ合う距離にノクトがいて、内容はちっとも頭に入ってこなかった。
戻る方法を考えながらぼんやりと画面を眺めていると、ふいに肩に重みを感じる。
「わひっ」
少し疲れたのか、ノクトの頬が私の肩に載っていた。
私の小さな奇声に、すっかり慣れたのかノクトは反応せず、画面に視線をやったまま無言でいた。
ドギマギしながら身動きできずにいると、いつの間にか映画が終わってエンドロールが流れ始めていた。
「……なんだかよくわからん話だったな」
「だ、だね、ちょっと難しかったかも」
挙動不審になりながらリモコンの停止ボタンを押す。
画面はホームに戻ったのに、ノクトは離れていかなかった。
「……狭苦しい家ですみません」
今更改めて詫びたくなる。
ノクトが近くにいてくれるのはこの部屋が狭いからだ。
同じベッドで寝てくれるのもきっとそう。
魔王として君臨していた頃は、あんなに豪華で広いお城に住んでいたのだ。
きっと息苦しくて疲れが溜まってしまうのだろう。
こんなことならノクトが来た日に広い家に引っ越せば良かった。
お金ならいくらでもあるのだし、ノクトがいなくなった後の生活を考える必要もないのだ。
最初からノクトの個室があれば、私の目をはばかることもなく調べものに没頭できただろうに。
「この家は」
ノクトが目を閉じて、猫のように顔を私の肩にこすりつけた。
「あかりとの距離が近くて好きだ」
一瞬頭の中が真っ白になって何を言われたのかわからなくなる。
魔王というものは、身内と認めた存在に無償の愛を全力で注ぐものらしい。
勘違いしそうになるのを押さえて「私も」となんとか答える。
体温が急激に上昇して、じわじわと汗が滲んでいく。
心臓が速度を速めて、だけどウキウキとかワクワクとかそういうのじゃなくて、胸がぎゅっと引き絞られるような痛みを伴っていた。
それでようやく二次元の推しなんかではなく、生身の存在としてノクトを本気で好きになってしまったのだと気付く。
たぶん、とっくに好きだった。
元の世界に帰りたがっている人に馬鹿なことを、と自虐的な気持ちで思って笑いそうになる。
「最初さ、ここのこと牢屋と間違えてたよね」
それを誤魔化すように茶化して言う。
ノクトが小さく笑いを漏らした。
「なんだと? 失礼なことを言う男がいるもんだ」
「ふふ。本当だね」
他人事のように言って、私の小指に自分の指を絡めた。
また鼓動が速度を増して、少し泣きそうになった。
もうこんな穏やかな時間はあと少ししか残されていない。
私が手掛かりを何一つ見つけられなくても、きっとこの人は辿り着いてしまう。
魔王が負けてしまったあの世界の行く末を想えば、平静ではいられないだろうから。
この穏やかな時間を、ノクトも少しは惜しんでくれているといいな。
そんなことを思いながら、指を絡め返して私もノクトの頭に頬をのせて静かに目を閉じた。