サパテアード
酒場に入ってきた女を見てギター弾きのアドは、すぐに流民だなと思った。
一人で酒場に入る女など流民か娼婦しかいない。
黒髪黒目で肌の色が違う女で妙な格好をしているが、流民はいろんな血が入っているし流民が妙な格好なのはいつものことだ。
特に女に飢えていないアドはすぐに意識をつま弾いてるギターに戻した。アドが弾いているのは厳密には地球のギターとは違うが、見た目も音色もほぼギターと変わりがないのでギターと呼称する。
アドは興味がなかったが、流民の女は飢えている男たちは歓迎されたようだ。さっそく酒を振る舞われ、満面の笑顔でそれを飲み干している。
酒は粕が多いワインを水で薄めたもので、そんな笑顔で飲めるものじゃないだろうと少し気になった。
それで終わるはずだった。
「アド、あれ弾いてくれよ」
投げ渡される銅貨に求められるままにギターを弾いていると、いつのまにか流民の女がアドの卓に来ていた。
じっと弦を弾くアドの指先を見ている。
そして嗤った。
「ギター弾きは爪が割れて、指が内出血で紫になってからが本番だよ」
内心なにを、と思ったが無視する。
アドの指は荒れてはいたが爪が割れてもいないし、紫にもなっていない。
流民に関わってもろくな事がないと、無視していると女は更に詰めてくる。
「ねえ、これ弾ける?」
女は変なリズムで卓を叩く。
女に興味はないが、リズムには興味を引かれた。
「なんだそれ?」
「こうだよ」
3、3、3、3。
変なアクセントがついた三拍子が四つ繋がって一連の流れになっている。
8ビートだろうが、16ビートだろうが大抵の音楽は2の倍数になっている。
心臓は三拍子で脈を打たないから。
そのせいで三拍子の音楽には人は不安定さと、二拍子の安定した音楽にはない奇妙な力強さを感じる。
アドは引き込まれていた。
「こうか?」
女が卓を叩くリズムを真似てギターを鳴らす。
「違う。こう」
三拍子にそれぞれ違うアクセントがあり、それがメロディに表情をつけている。
慣れない三拍子にとまどう指をむりやりに動かし、メロディを鳴らす。
「こうだってば」
何回かそんなやりとりを繰り返すと、指先になにかが通る感覚があった。
「こうだな?」
「うん、そうそう」
流民の女は満足気に頷き、アドの卓から離れていった。
女は酒場の中央、少しスペースが空いている場所に立った。
それはなんというか、自然だった。
なにをやらかすんだ? と皆の注目を浴びて脱げーという酔漢の野次も飛ぶ中まったく気負った所がない。
彼女はアドに目配せし、片手を降る。
弾け、ということだろう。
アドは覚えたばかりのメロディで即興の曲を奏でていく。
陽気で情熱的で、それは新しい音楽だった。
弾いているアド自身が、俺がこんな曲を弾けたのかと驚いている。
女は少しの間、目を閉じてアドの音を聞いている。
それだけのことなのに、酒場の注目は女に集まっていた。
女が動く。
激しく情熱的で、見たことがない踊りだった。
酒場にどよめきが満ちる。
その所作に一切の淀みはなく、人の目を引き付けて離さない。
それは気の遠くなるほどの時間を、その修練にかけてきたからだ。
ギター弾きは爪が割れて、指が内出血で紫になってからが本番。
アドは女の言葉を思い出す。
ギター弾きがそうであるなら、踊り手である女も似たような修練を重ねてきたのだろう。
アドが嗤われるのも当然だった。
彼が知らぬ領域が、そこにはあった。
アドのリズムに新しいリズムが加わる。
女が足で床を打ち鳴らしている。
アドは知らぬことだが、それが膝から下だけを使って軽やかに床を打ち鳴らすサパテアードと呼ばれる技法だった。
ああ、流民の音楽だ。
農耕を持って定住する者は床を打ち鳴らそうとすれば、つい膝を上げ体重をかけて踏み込んでしまう。そうでないと畑を耕せないからだ。体重をかけず膝から下だけで軽やかに床を打つステップは、農耕を知らずどこからか流れて来てまたどこかへと流れていく流民だから生まれたのだ。
それに三拍子が連なった斬新で奇妙なメロディも。
流民はいろんな血が混ざって見た目もさまざまだ。しかしどんな見た目であったも、そのメロディを奏でるものは流民なのだ。
そしてアドが何回かやり直しさせられた三拍子が四つ連なった法則もそうだ。
定住者なら同じ相手と練習を重ねることもできるが、流民はいつどこで誰と組むか分からない。それでも合わせるための法則だった。
現に女はアドの即興にきっちり合わせてきている。
3、3、3、3。
そこから離れない限り、アドも女もお互いに加速していける。
ティエンポ。
アドの音に合わせて、女が床を打つ。
プランタ(爪先)、タコン(踵)。
プランタ、タコン、プランタ、タコン。
タコン、タコン、プランタ。
音楽は加速していく。
女が変調する。
コントラティエンポ。
アドの音と音の間に、女が床を打つ。
プランタ、タコン、プランタ、タコン。
プタンタ、タコン、プランタ、タコン、タコン、タコン、プランタ。
床を打つリズムは2連、3連になり、ついには4連のコントラティエンポに到達する。
もう足さばきが見えない。
更に新しいリズムが加わる。
女が踊りながら打つパルマ(手拍子)に酒場の皆が乗る。
アドのギターと女のサパテアード、酒場の客のパルマ、全てが混然となって音楽は誰も知れぬ領域へと加速していく。
オーレ!
加速の最高潮でフィニッシュのステップを決めた女に、酒場は一瞬沈黙に沈んだ。
なにもかも鮮明に見える沈黙のあとにやってきたのは、歓声と拍手そしておひねりの嵐だった。
誰もかもが硬貨を投げることでしか、いまの高揚した気持ちを表す術を知らぬのだ。
汗を浮かべた女がやったぜ、と親指を立てた拳をアドにつき出してくる。
これがギター弾きのアドとバイラオーラの伊角邦子との出会いだった。
それが幸福であるのは不幸であるのかは、別にして。