森長可
天正十年六月十日、
徳川家康は、河尻秀隆と知己のある本多信俊を使者として派遣し、
「甲斐国内で武田の旧臣が不穏な動きをしている故、東海道を通って美濃に兵を退かれますように!」
と家康の進言を伝えた。
六月十四日、
家康に不信感を抱いた秀隆は、この進言を拒否し信俊を殺害する。
六月十八日、
信俊の殺害により甲斐国内では動揺が広がり、一挙に国人一揆が勃発し、秀隆はこれに応戦しつつ美濃への撤収を図っていたが、山県昌景配下の武田の旧臣・三井弥一郎に岩窪館で斬殺された。
わかき者の軽挙妄動で平八郎こと団忠正ともう一人、秀隆を悩ませたのが勝三こと森長可である。
元亀元年、
長可は父・可成が戦死し、長兄の可隆も同年に戦死した為、僅か十三歳で家督を継いだ。
信長は寵臣だった可成の遺児を我が子のように寵愛し、長可の無謀な振る舞いにも寛容だった。
非常に気性の激しい長可は、近江・瀬田の関所で下馬を強いる関守を急いでいるからと斬り捨て、
「止め立てすれば町を焼き払う!」
と脅迫し木戸を開かせ関所を通った。
この一件の裁定を信長に仰いでも、
「昔五条橋で人を討った武蔵坊弁慶がいたが、勝三も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵と改めよ。」
と信長は笑うだけだった。
天正二年七月十四日、
昨年に初陣を経験した長可は、第三次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊として参加し、川を挟んで対峙していた一揆勢に船で渡河して切り込んだ。
長可はこの槍にかかれば人間の骨など無いのも同然という【人間無骨】の銘が彫られた大身の十文字槍で二十七にも及ぶ首級を挙げた。
天正十年三月二日、
織田軍は武田領・高遠城への総攻撃を開始し、信忠軍団先鋒隊の長可は自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘した。
激戦で長可の鎧の下半身は高遠城兵の返り血で真っ赤に染まっており、その姿を見た信忠が思わず、
「勝三が大怪我を負ったのではないか?」
と心配して尋ねるほどの勇ましさだった。
六月二日、
長可は、柴田軍の上杉討伐の別動隊として上杉領に入り込み、越後国・二本木で陣を張っている時にこの日を迎えた。
春日山城の兵の殆どが越中魚津城に救援に行っていたが、手薄になった春日山城に森軍が肉薄し危険との報告が入った。
上杉景勝は主城の春日山城を奪われることはできないので撤兵を決意し、援軍を失った魚津城は柴田軍の攻撃により崩落した。
六月六日未の下刻、
美濃兼山より長可のもとに早飛脚が到来し、
【六月二日、惟任日向守光秀謀反により、信長信忠両御公、京において弑殺。
並びに近習の十三人、かつ乱丸君、坊丸君、力丸君ともに本能寺にて討ち死】
このような悲報を知らせてきた。
六月八日、
【上方で凶事があり織田軍が敗軍した】
との情報が入ったと景勝は家臣へ伝えた。
本能寺の変が伝わると一転、敵地深く侵攻していた長可軍は窮地に落ち入り二本木の陣を引き払った。
上杉軍の追撃はなかったが長可に従っていた信濃の国衆のほとんどが裏切り、森軍を壊滅すべく一揆を煽った。
「どうしても母の元に帰らねばならぬ!」
「わしだけでも母に顔を見せねばならぬ!」
三人の弟を本能寺で失った長可は鬼の形相で帰路を急いだ。
筋骨たくましく槍術に優れ戦場での勇ましさから、
【鬼武蔵】と称された森長可であったが、
白装束を羽織って不退転の覚悟で出陣した小牧・長久手の戦いの際に、次のように遺言した。
【おこう事京の町人に御取らせ候へく候。薬師のやうなる人に御し付け候へく候】
「自分の娘は医者に嫁がせよ。決して武家には嫁がせるな!」