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蘭奢待  作者: hippieboy
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河尻秀隆

天文二十一年、


織田信秀の死去により信長が家督を継いで那古野城主なったのは十八歳の時である。


若い頃から信秀に仕え、幼少の信長の重臣としてつけられた佐久間信盛は、信長に従って各地を転戦し、織田家の主だった合戦には全て参戦した。


天正八年八月、


佐久間信盛は突如、信長から十九ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて追放される。

同時に丹羽氏勝、西美濃三人衆の一人である安藤守就も追放処分とされた。

また信盛同様、織田家臣団の筆頭格で行政官として堅実な手腕を持っていた林秀貞も、二十四年も過去の信行擁立の謀反の罪を問われて追放された。


佐久間信盛の追放により、筒井順慶・池田恒興・高山右近・中川清秀ら摂津衆が明智光秀の与力として編成され、光秀は畿内方面の司令官となった。

このことから信盛らの急な追放劇は、光秀の讒言によるものではないかと噂された。



永禄元年、


信長は親衛隊的存在の直属精鋭部隊である黒母衣衆と赤母衣衆を構成した。

主な任務は伝令や敵方への使者、偵察や戦功の監察などであり、武功・器量ともに優れたものが選抜された。


黒母衣衆の筆頭に任命され、林秀貞が擁立した弟の信行を暗殺したのが河尻秀隆である。




天正二年、


尾張と東美濃の国人を摩下に置いた信忠軍団が編成された。

桶狭間の戦いや姉川の合戦など各地を転戦し戦功を重ねた秀隆を、信長は後継者・信忠の補佐役に任命した。


信忠は前年に元服を済ませたばかりの十八歳だった為、信忠軍の実質的な指揮は秀隆が執りそのやり方などを学ばせた。



天正三年五月十八日、


武田軍との決戦を前に長篠城手前の設楽原に到着した信長は、秀隆に自身の兜を下賜し、


「これからは秀隆を父のように思い指示に従うように!」


とそばにいた信忠に厳命した。



十一月二十八日、


信長は秀隆に岩村城を与え、信忠に家督を継がせ尾張の一部と美濃東部を与え岐阜城主とした。



天正八年八月二日、


新門跡の教如が石山本願寺の明け渡しに応じ、元亀元年から十年続いた石山合戦が終結した。


信長は、嫡男・三法師が誕生した信忠に、いずれ安土城も譲り信長自身は石山本願寺跡の大坂に巨城を建て院政をひくようなことを周囲に漏らしていた。



天正十年二月三日、


長篠合戦で武田軍に壊滅的な打撃を与えた信長は、勝頼討伐を決定し動員令を発した。


信忠軍先鋒隊が岐阜城を出陣し、


「先鋒を務める森長可・団忠正らの若さによる軽挙妄動を押さえるように!」


と信長から秀隆に若い両将の目付け役を任命した。


二月二十二日、


信忠軍先鋒隊は信濃の高遠城を囲んだ。


「前進を控えるように!」


という信長の通達を無視して、森長可と団忠正が兵を前進させ鉄砲を撃ちかけた。


秀隆はこの軍規違反を報告し信長の返答を待った。


【森勝三・梶原平八郎各不及談合、先々へ陣取之由候、わかき者共候之間、此時盡粉骨名をも取、又我々へ訴訟之たね等も可仕と存事にて可有之候、聊爾動無用之由、度々申聞候、猶以可申遣候間、何も令介杓、能々申聞候て、其動専一候】


「森長可と団忠正がそなたに相談もなしに前進した件だが、若い者たちであるが故、この時に粉骨をつくして功名を上げて、それをわしに訴える為だったのであろう。

粗忽な行動をせぬよう度々申し聞かせたが、尚も申しておく。

彼らの面倒をみてよくよく言い聞かせることが一番大事なことだ。」


この書状と共に秀隆には、高遠城の攻略の為に陣城を築き本隊の到着を待つようにと信長から命を受ける。


しかしまた若き両将は軍旗違反を犯してしまう。



【森勝三・梶原平八郎如言上、自此方も申聞候、

猶以同篇之由曲事候、先程も如申聞、わかきものにて規模たてを仕、訴訟之種ニもと存事にて可有之候、是も我々いまた無進発故候、城介堅申付候ハぬ事沙汰之限候、如此之段も信長発足候者、不可及異儀候、右如申其内只今陣取能々取堅、あとあと仕置以下相急候て、可相待候】


「森長可と団忠正の件は、そなたから言上のあった通りわしからも申し聞かせた。

しかし尚もって彼らが直らないのはけしからぬことだ。

先日も申し聞かせたように、あれら若い者たちで

功名を上げて、わしに訴える為にしているのだろう。

これというのも、わしがいまだ進発していないからだ。

信忠には厳命しているが、それがいつもの命令の限りだ。

このような一件も、わしが出て行けば異論に及ぶことはない。

以前に申した様に、今は陣を張りよくよく陣地を取り堅め、後に仕置きなどを急ぐことにし、わしが到着するのを待っておけ!」



三月二十三日、


武田攻めの論功行賞が発表され、秀隆には穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国と諏訪郡が与えられた。



六月六日夜、


秀隆は与えられた甲斐国・甲府で統治をしている時に本能寺の変を知った。

凶報を伝える使者に、


「平八郎が煽って中将様に謀反を起こさせたのであるまいなっ?!」


と秀隆は問いただしたが、光秀の謀叛とわかりひとまず安堵した。


秀隆同様、わかき者の軽挙妄動を危惧していた信長も、本能寺で乱丸から謀叛を聞かされた時、


「城介が別心かっ?!」


と発したとされている。

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