佐々成政
天正十二年九月、
末森城から、一万五千の敵に包囲されていると金沢城に急報が届いた。
金沢城には、前年に賤ヶ岳の戦いで勝利した羽柴秀吉から利家に与えられ移城している。
「普段から小金ばかりため込んで人を雇わないから兵が足りないのですぞ!」
と正室のまつから叱咤された。
慌てて利家は二千五百の兵を率いて末森城へ救援に向かった。
末森城を守っていたのが奥村永福の兵五百余である。
兵力に勝る敵は水の手を断ち、三の丸を占領し、二の丸に迫ってきた。
「もはやこれまで。城に火を放ち潔く自害しよう・・・。」
疲れきった表情で永福は家臣に告げた。
「何をたわけたことを!
楠正成公は全国の兵を相手に籠城したと聞いております。
あなたはたかが佐々の勢に囲まれただけでしょう!」
と薙刀を持った妻のつねに叱咤された。
この言葉に奮起した永福は本丸のみにて敵の猛攻に耐えた。
その末森城を攻めていたのが佐々成政である。
天正十年六月六日、
成政は、【府中三人衆】と言われた不破光治、前田利家と共に柴田勝家の指揮の下、越中・松倉城の支城魚津城を壊滅させ、越中・宮崎城まで軍を進めたところで本能寺の変の一報が入った。
変報を聞くと勝家は、全軍を撤退させて自軍は光秀を討つべく上洛を決めた。
九日には居城・北ノ庄に帰城し、十八日に近江・長浜まで進軍したところで、すでに山崎の合戦で明智軍が壊滅したと聞かされる。
上杉方へも本能寺の変が知らされ猛反撃が予想される為、成政は急ぎ居城の越中・富山城への帰還を決定した。
「この後、どうなっていくのでしょう?」
重臣の佐々平佐衛門が成政に馬を寄せて尋ねてきた。
「日向守では上様の首を薄濃にすることは出来まい・・・。」
「今、なんと?」
聞き逃した平佐衛門のそれには答えず、
「日向守に従う者が多くいるとは思えん。
将来必ず明智の立場は危うくなる。
柴田殿を筆頭に若樣を支えて織田家を復興させるのみよ!」
馬上から新緑の立山連峰を眺めながら成政は富山城に帰って行った。
天正二年正月、
前年に将軍義昭を追放し、浅井・朝倉を滅ぼした信長は、晴れやかな気分で新年を迎えた。
実質的な権力者になった信長への挨拶に、京や近隣の国衆が岐阜城に出仕してきた。
信長は三献の作法で緒将を迎え酒宴を催した。
盛大な宴会終わって諸将は退出したが、馬廻り衆のみが残り宴が続けられた。
そこへ信長が朝倉と浅井親子の首を薄濃にして披露し馬廻り衆を驚かせた。
薄濃を囲むように唄や舞いが繰り広げられた。
成政は宴が静まるのを待って前に進み出て、後漢書を引用し信長に諫言をした。
「王者四海をもって家とし万民をもって子とす。
天万民を生じ君を立ててこれを養う。
君道得るすなわち、人これをいただくこと父母の如く、これを仰ぐこと日月の如し!」
他の馬廻り衆は酔いが覚めるほど凍りついたが、
「そのとおりである!」
と信長は大いに喜んだ。
その後信長は成政を寝室へと引き入れ、政務を論じ合った。
天正十二年三月、
羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が、小牧・長久手の地で対峙した。
成政は家康に呼応し、織田・徳川連合軍に味方して羽柴方の前田領・朝日山城を急襲し、その後末森城を攻めた。
十一月十二日、
秀吉は信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾してしまう。
十一月十七日、
信雄の戦線離脱によって秀吉と戦う大義名分を失った家康も三河に帰国してしまった。
十一月二十三日、
成政は富山を出発し、厳冬の飛騨山脈・立山連峰を踏破する。
十二月一日、
熊の毛皮を纏い、四尺の野太刀を帯びた成政一行は信州上諏訪に到着した。
十二月二十五日、
幾人もの部下を亡くした成政は、一ヶ月をかけて浜松にたどり着いた。
成政は家康に再挙兵を促すが、家康は外交的な辞令に終始し成政を落胆させた。
浜松を出た成政は、三河に来ていた信雄にも根気強く説得するが、態度を左右するのみだった。
その後、尾張まで行って滝川一益から信雄の再挙を促してもらおうとしたが、小牧・長久手の戦いで所領の伊勢を失い、零落している滝川家の近況を見知って、反羽柴陣営の再構築が困難であることを成政は痛感する。
無念の帰国の途中、本能寺の変からまだ三年も経たずに世の中が大きく変化したことを成政は詩に詠んでいる。
【何事も 変わり果てたる世の中に 知らでや雪の白く降るらん】