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蘭奢待  作者: hippieboy
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前田利家

文禄元年、


本能寺の変からは十年が過ぎている。


氏郷は聚楽第城下の屋敷に、前田利長・細川忠興・上田主水正・戸田武蔵守らを招き雁鍋を振る舞った。


鍋を囲み談笑するうち、


【秀吉公の次の天下は誰のものか?】


という話題になった。


即座に氏郷が、


「その男の親父殿よ。」


と利長を指差した。


誰もが家康ではないか?と考えていたが、


「加賀大納言殿の他にどれほどの人物がいようか。

北陸三州を治め京までの道筋を拒むものはない。

もし関東の徳川家康が上洛しようとすればこの氏郷が会津におる。

即座に食らいついて箱根を越えさせぬ!」


と氏郷は淡々と述べた。


その場に息子の利長がいるにもかかわらず、


「では利家殿が亡くなられた時には誰が天下を取るか?」


と主水正と問うと、


「その時はこの氏郷が取り申そう!」


と不気味な笑みを浮かべて答えた。




天正十年三月、


柴田勝家率いる軍勢は上杉領・魚住城を囲んだ。

柴田勢・四万に対し上杉勢は三千八百で籠城した。


五月四日、


上杉家当主・景勝は救済要請に応じて自ら春日山城を出発した。


五月十九日、


景勝は魚住城東側の天神山城に後詰めの陣を張って対峙した。


五月二十七日、


信濃国の森長可や上野国の滝川一益が越後に侵入するとの情報が入った為、景勝は退陣の決断をした。


六月三日、


魚住城内では、景勝の撤退によって滅亡を覚悟した上杉謙信の代からの側近・中条景泰はじめ守将十三人が、耳に穴を開け自分の名前を書いた木札を全員で結び自刃した。

守将が自刃して開城したにも関わらず、柴田軍は利家主導で城兵を皆殺しにした。

この事によって領民に恨まれ抵抗に遭い撤収に手間取った。


六月六日、


上杉方を落城に追い込み勝利に沸く最中、越中・宮崎城まで軍を進めたところで、まだ大納言の大身にはなっていない前田利家は変報を聞いた。

直ちに勝家は全軍の撤退を下知し、各将をそれぞれの領地に引き揚げさせ、利家は能登・小丸山城に帰還して行った。

利家は昨年、信長から能登一国を与えられ、七尾城主になったが廃城し、港を臨む小山に小丸山城を築城したばかりである。


六月八日、


景勝は家臣の色部長実へ、上方で凶事があり織田諸将は悉く敗軍になったと伝えた。

その後、能登へも本能寺の変が伝わり、信長に寺領を没収されていた石動山の天平寺衆徒が反乱蜂起した。

衆徒は越後の上杉家に保護されていた旧畠山家臣の温井景隆・三宅長盛兄弟・遊佐長員への帰還を呼びかけた。


六月十九日、


温井らの帰国の噂を知った利家は、勝家と金沢城の佐久間盛政へ援軍を要請した。


六月二十三日、


温井らは上杉軍とともに海路から氷見女良浦に上陸し、石動山や荒山へ僧兵・四千三百で布陣した。

一方の利家は兵・三千で小丸山城を出陣し、石動山と荒山の中間にある柴峠に布陣した。

盛政も兵・二千五百で金沢城を出陣し、荒山方面に布陣した。


六月二十四日、


利家の隊が荒山砦の築城へ向かう温井・三宅の隊と遭遇、交戦となり前田軍が勝利し、温井軍は荒山へ立て籠もった。

この報せを受けて盛政が荒山砦を攻撃し、温井・三宅兄弟を討ち取った。


六月二十六日、


利家が石動山を攻撃し遊佐勢を討ち取って僧兵を壊滅させた。

また石動山の天平寺院を焼き討ちにし山門に千余名のさらし首を並べた。




荒山の合戦に勝利し城に戻った利家は、重臣の村井長頼と奥村永福を自室に呼んだ。




村井長頼とは、


天正三年五月二十一日、


早朝から始まった長篠の合戦は、昼過ぎには勝敗が決していた。

利家は撤退する武田軍を追撃している時、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれ危うく命を獲られそうになった。

その時、村井長頼が弓削左衞門に横槍を入れ、利家は一命を助けられることがあった。


長頼は常に戦場で供にあり、幾度も盾となって利家の窮地を救った。


一方の奥村永福は、


永禄十二年、


前田家の長兄の利久に後継ぎが無かったので、利久は養子を取って家督を継がせたいと願った。

しかし信長はそれを許さず、四男の利家に家督を相続するように命令した。

利家は兄たちと争いたくなかったが信長の命令は絶対である。


利家が城の受け取りに向かうと門は閉ざされ、


「利久様の命令があるまで、城を明け渡すことまかりなりませぬ!」


と奥村永福が立ちはだかっていた。


事を荒立てたくなかった利家は、利久から城の譲り渡しの誓紙を取り、筋を通して門を開けさせた。


この一件で永福は意地と忠義を通して前田家を出て一時牢人となった。

天正元年に織田家が越前国への侵攻を開始した際に帰参が許された。

前田家の能登・越中統治の基礎を築き、九州征伐・小田原征伐にも従軍し、大阪の陣では金沢城代も務めた。




そんな重臣の二人に対して利家は妙なことを言った。


「安土の城の金銀財宝はどうなったであろうかのぅ?惜しいのぅ・・・。」


永福が怒り顔になり、


「お家の大事に何を心配なさっておられるのか!」


諫言を続けようとした永福を、長い髭を撫でながら聞いていた長頼が押し止めた。


まだ利家が又左衛門、長頼が長八郎と名乗っていた若い頃、信長の同朋衆の十阿弥を、刀笄を盗まれたなどで斬ったため、信長に勘当されて二年ほど浪々の身となった。

その時にずいぶん金で苦労したことを長頼は知っていたからである。



利家は若い者に常にこう言っていた。


「とにかく金を持て。金さえあれば世の中も人も恐ろしくない。しかし金がなければ世も人も恐ろしくなるものだ。」




明治四十三年七月八日、


天皇が東京本郷の前田侯爵邸に行幸された時、玄関に古めかしい甲冑が飾ってあった。


天皇が由来を尋ねると、


「これは当家代々の家臣、村井家と奥村家のものです。

両家の長年の功労に報い、ともに晴れの行幸の名誉を分かつ為ここに飾り置きました!」


侯爵前田利嗣は胸を張って答えた。

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