蒲生氏郷
利三の帰参を信長に訴えたのは稲葉一鉄である。
天正十年六月二日、
一鉄は京にいたが無事脱出し美濃に戻った。
信長・信忠の横死で統制を失った美濃では衝突が頻繁していた。
かつて信長に追放されていた美濃三人衆・安藤守就が復権を目指し稲葉領を攻撃してきた。
一鉄は交戦し守就を敗死させ、娘婿の揖斐城主・堀池半之丞をも攻め、その領地を支配下に置いた。
また甥の道三の四男・斎藤利堯を岐阜城主に擁立し、美濃の大名になろうと画策した。
このように勇猛で、頑固一徹の語源ともいわれた一鉄であったが、武勇だけでなく文才にも優れていた。
天正二年、
一鉄のことを妬み信長に讒言する者があった。
これを信じた信長は一鉄を殺そうとして茶会に招いた。
その時一鉄は、床にかけられた禅僧の虚堂智愚の墨蹟を読み下りながら自己の無実を述べた。
信長は一鉄の文才に感心し、無罪を信じこう告白した。
「あまりにも感激したので真実を話そう。
実は今日、貴殿を討ち果たすつもりで供侍に懐刀を忍ばさせ暗殺を命じていた。」
すると一鉄は、
「実は拙者も暗殺されると思いましたので、一人ぐらいは道づれにしようと懐刀を忍ばせております。」
そう言って懐刀を見せたので益々信長は感嘆した。
一鉄の長けた文才・諜略を示す出来事である。
そんな一鉄の夜話を楽しみにする小姓が多かった。
しかし姉川をはじめ百戦錬磨の合戦を経験してきた一鉄の武辺話は長い。
軍談は深夜まで続き、小性たちはつい居眠りをする。
そんな中、ただ一人最後まで一鉄を見つめ熱心に話を聞いていたのが鶴千代である。
一鉄が鶴千代のことを信長に、
「この子の行く末は百万の将たるべし!」
と称賛すると、
「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず!」
と信長もすでに鶴千代の才を見抜いていた。
そして自らの娘の冬姫を与え婿とした。
天正十年六月三日、
その鶴千代こと成長した蒲生氏郷は居城・日野城で悲報を知った。
信長に信頼された父親の賢秀は、留守居役を命ぜられ安土城にいる。
城内では悲報を知った城兵が逃げ出し、賢秀も一時は討死も覚悟した。
「妻子たちを避難させ保護することこそ忠節!」
と氏郷は父親に注進し、迎えの馬と輿を安土城に送った。
賢秀は息子の助言に従い、信長の妻子を日野城に逃がし保護することにした。
安土城を脱出する際、信長の女房から金銀の財宝を持ち出し城に火をかけるように促された。
「欲にふけると神仏の加護に見放されまする。」
と賢秀は断ったが、本心は信長は生き残っていると疑い恐ろしかったのである。
六月五日、
光秀が安土城に入ると近江の住人は次々と降参した。
「光秀に味方をすれば近江半国を与える。」
という誘いが日野城にも来たが蒲生は同心しなかった。
その後、既に明智方に同心していた多賀豊前守、布施忠兵衛が再三に渡り日野を訪れ諫言を行った。
しかし賢秀・氏郷父子は彼らと対面すらせず、
「武士たらん者は恩を知って以て人であると申す。
御辺たちは降参を能きと思ってそのように申されるのか?」
と返答した。
嘲られて口惜しい多賀と布施は安土城に出向き光秀の前に進み出て、日野城への早期攻撃を積極的に提言した。
「蒲生親子は以ての外に奇怪なる者にて候。
急ぎ御退治有るべし!
日野城は未だ普請中であり、堀、櫓は生壁の状態で破壊も容易いでしょう。
一日も早く攻め寄せられるべきです!」
尤もであると同調した光秀は、すぐに蒲生攻めの準備を始めようとした。
「合戦は先手を取られれば、二の手で盛り返すことは難しい。
とにかく先手を取る事を第一に考えよ。
必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ。
わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない!」
この信長の教えを常に学んでいた氏郷にとっては、日野城に立て籠り戦うことが悔しかった。
六月八日、
光秀の婿であった織田信澄が丹羽長秀・織田信孝に討たれたという情報が入り、光秀は安土城の守備を左馬乃助に任せ摂津へ出陣した。
また光秀は左馬乃助に軍勢を揃えて日野へ攻め込むように命令をした。
氏郷は日野城を出陣し、織田信雄の加勢を受けて石原に着陣するが、光秀が山崎の合戦で敗れ日野が攻め込まれることはなかった。
後の話になるが、
氏郷が新たに家臣を抱える時は必ず、
「わが家では銀の兜を被る侍がいつも先頭で働いている。
この男を討ち取らせないように励め!」
と激励していた。
その鯰尾の銀兜の侍こそ氏郷なのだが・・・。
天正十八年、
小田原征伐の後、氏郷は伊達政宗の抑えとして会津九十一万石の大領を与えられた。
当初、細川忠興が候補になったが辞退したため氏郷が封じられた。
この時、氏郷は広間の柱に寄りかかり涙ぐんだ。
それを見た朋輩が感涙を流していると思い込み、
「ありがたく思われるのはごもっともなことでございます。」
と声を掛けると、
「そうではない。たとえ大領であっても奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることはできぬ。
小身であっても都に近ければ、一度は天下に号令する望みもある。
いくら大身でも雲を隔て海山を越えた遠国にいては、もはや天下人への望みもかなわぬ。
わしはすでに不要な者になったかと思うと、不覚の涙がこぼれたのだ・・・。」
と激しく嘆き悔しがった。
「あいつを都の近くに置くのが怖ろしいから会津に遣わしたのだ。」
と近習に洩らすほど、秀吉も氏郷が光秀になることを恐れていた。