斎藤利三
天正十年六月一日昼、
斎藤利三が部屋に入るとすでに年寄が集まっていた。
ようやく霧が晴れた丹波・亀山城の一室、光秀を囲むように左馬之助、溝尾茂朝、明智次郎左エ門、藤田行政が座っている。
「上様を討つ決意をしたが左馬之助に諌められ、皆も同じ意見ゆえ思いとどまることにした。
内蔵助・・・左様心得よ。」
光秀は淡々と利三に命令をした。
突然の思いもよらない光秀の告白に流石の利三も狼狽した。
困窮した顔つきの一同を見渡した利三は、たしかに無謀過ぎると同調しようとしたが、光秀の金柑頭の額の傷を見て考えを改めた。
「殿が上様を恨まれますように、我ら年寄らも殿をお恨み申す時が来るやも知れませぬ。
そうなれば口を止めるのは難しく、いずれ上様の知るところとなり罰は逃れられませぬ。
これほどの秘密を漏らされた以上、立ち上がるしかありますまい!」
利三自身にもある信長への遺恨を飲み込んでこう告げた。
利三は光秀に仕えてわずか二年余りだが、丹波・黒井城を与えられ氷上郡を統治している。
また左馬之助ら重臣の席にも列して重用されている。
これほどの人物だけに旧主も利三に帰参を求め、光秀の引き抜きに抗議し信長に訴えた。
しかし利三は旧主への帰参を断り、光秀も返還に応じなかった為、信長は利三に切腹を命じた。
「人がこだわるほどの良臣を蓄えなくては上様のもとで大功を挙げられませぬ!」
この光秀の弁解に信長は激昂し、光秀の額を敷居に押しつけて折檻した。
丹波・亀山城に到着する数日前の出来事だ。
天正十年六月二日昼、
既に戦闘は終わり本能寺の本殿も焼け落ちている。
しかし信長の遺体が見つからない。
広大な敷地を隅々まで探しても、捕虜に詰問をしても行方がわからない。
光秀は信長が脱出したのではないかと不安になり、焦り苛立っている。
諸人がその声ではなく、その名前のみを聞いただけでも戦慄した信長である。
光秀ほどの者が焦操してもおかしくはない。
士気が下がると危惧した利三は咄嗟に嘘をついた。
「信長めは合掌をし炎渦巻く本殿奥へと入りもうしたっ!我がこの目で見たから安心なされぃ!」
利三の一喝に戦意を呼び戻した光秀は、織田信忠討伐へ部隊を立て直した。
信長の嫡男で織田家当主の信忠は妙覚寺に宿泊していた。
報せを聞いた信忠は信長救援に向かうが、京都所司代・村井貞勝が駆けつけ本能寺が焼け落ちたことを伝え、備えが堅固な二条新御造に立て籠るように進言した。
二条新御造の五百名ほどの信忠勢に、一万超の明智勢は隣接する近衛前久邸の屋根から弓鉄砲で攻め立てた。
信忠の側には斎藤利治がいる。
利治は斎藤道三の末っ子で、幼少より道三のそばにいて政治や戦術、知略や伝統芸などを身につけていた。
しかも利治は、美濃国譲り状を道三から託されて信長に渡したほどの人物である。
その後も、信長に厚く信頼され各地を従軍し、今では信忠の後見人として筆頭家老を努めている。
利三の同族であり義弟でもある利治は光秀とも縁が深い。
そのことから明智家に引き込もうと利三は利治に降状を勧告した。
しかし利治は丁寧に断り、信忠が自刃した後に火をつけ防戦し討ち取られた。
六月二日夕刻、
本望を遂げた光秀の軍勢は安土城を目指した。
近江国に入り瀬田城主・山岡景隆・景佐兄弟へ人質を出し同心するよう説得した。
しかし山岡兄弟は信長公に御恩がある為と拒否をし左馬乃助を船戦で退けた後、瀬田の唐橋を焼き落とし居城に火を懸けて山の中へ退いた。
修復にはかなりの時間を費やすと思われたが、光秀はその橋をただちに修復させ、三日後に安土城に入城した。
若狭の武田元明が明智方につき、丹羽長秀の佐和山城を占領し、義兄・京極高次も阿閉貞征・貞大父子とともに羽柴秀吉の長浜城を占領した。
六月八日、
六日に柴田勝家を北国に足止めさせるよう上杉景勝に援軍要請の使者を送った光秀は、秀吉が毛利と対峙している間に摂津を抑え播磨へ乱入する計画をたて安土城を出陣した。
安土城の守備には左馬乃助を配置し、長浜城に配置されていた利三は光秀に従軍した。
六月十日、
明智軍は織田信孝・丹羽長秀軍を討ち果たすべく京から南下し、洞ヶ峠に布陣して筒井順慶を待った。
六月十一日、
順慶は覚悟が変わり現れず、明智軍は洞ヶ峠を引き取り下鳥羽に布陣した。
そこに秀吉が向かっているとの報せが入り、慌てて桂川を越えて合戦に備えた。
雨の中を無理に桂川を越したので、鉄砲玉薬が濡れて役に立たなくなった。
六月十二日、
先手から利三は使者を送り光秀を諌めた。
「今日の合戦は御延期然るべし!
筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に拠って一戦されれば、安土に左馬乃助がおりますので後詰の便りもありまする。
以前から申すように山崎の地は大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地で、味方にとってよろしからず!
合戦の雌雄は只今にて候。
時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなりまする。」
これを聞いた光秀は、
「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん!
汝そこまで恐れるのならばそこを引き取って当手に来るべし!
先手は他人に申し付けん!」
こう言って使者を罵って追い返したと聞いた利三は、
「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり!」
と言って嘆息した。
六月十七日、
山崎の戦いで負け、近江まで敗走していた利三は、潜伏先の堅田で捕縛された。
「あの金柑頭の額の傷がなければ、このような無様な姿をさらさずに済んだものを・・・。」
利三は褌だけの惨めな姿で、京の六条河原まで曳かれて行った。