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蘭奢待  作者: hippieboy
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滝川一益

天文二十年六月二十日、


二十八歳で病死した筒井順昭は、藤勝こと順慶が幼かったので次のような遺言を残した。


「奈良角振町の鷹隼の祠近くに、木阿弥という盲目の者がいる。

顔立ちや声、年の頃もわしによく似ておる。

わしが死ねば秘密にし、木阿弥に事情を申し含め、わしの床に入れ置き、お前達も以前と変わらず給仕せよ。

そのようにして三年間、喪を隠し通せ。

そして藤勝を守り立てて、筒井の家を永く残して欲しい。」


一族と家老たちは順昭の遺言通りにし、筒井家の家中の者たちも、そして敵方も、順昭は病身ながらいまだ存命であると信じ、筒井領は敵に攻め込まれることはなかった。


天文二十一年六月、


順昭の死を公表すると大和の諸氏は大いに驚いた。


木阿弥は多額の金銀や衣服を与えられ、角振町に帰された。

木阿弥は元の盲目法師に戻った。


このことから【元の木阿弥】という故事成句が生まれた。




晩年、盲目となり出家した滝川一益。


大永5年、


近江国甲賀郡の国人・滝川一勝の子として生まれた一益は、若年の頃、博打を好み不行を重ね一族に追放された。

しかし河州・堺に出て、鉄砲の射撃と製造技術を学んだ。



弘治元年、


織田信長は一益が鉄砲に熟練していると聞き、射撃の腕前を検分した。

一益は百発百中に近い腕前を披露することにより信長に召抱えられた。


同じ頃、明智光秀も越前国・朝倉義景に鉄砲の腕前を買われ十年間仕えている。



永禄三年、


一益は尾張国の土豪・服部友貞の資金によって蟹江城を構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となり、その後の北伊勢進攻・長島一向一揆鎮圧の拠点とした。



戦の駆け引きに優れ、戦場で不得手を持たぬ事から【退くも滝川、進むも滝川】と称され、勃発した主な戦場にはほぼ余すことなく参戦した。



天正二年七月十五日、


三度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際し、九鬼嘉隆らと水軍を率いて参戦し、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護した。


九月二十九日、


兵糧攻めに耐えきれなくなった門徒衆は降伏を申し出た。

しかし信長は許さず鉄砲で攻撃した為、門徒衆は捨て身で反撃を仕掛け多くの織田一族を殺害した。

信長は長島・中江の二城を幾重にも柵で囲み火攻めにし、城中二万の男女を焼き殺した。

こうして門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊し、長島城と北伊勢八郡のうちの五郡が一益に与えられた。



天正三年五月二十一日、


長篠の戦いで一益は鉄砲隊の総指揮を執り、防柵を設け三千梃の鉄砲隊で武田勝頼の騎馬隊を大敗させた。



天正十年三月十一日、


織田信忠の軍監として甲州征伐に参戦していた一益は、天目山の田野で武田勝頼一行を発見し、勝頼を自害に追い詰め討ち取るという功績を挙げた。


三月二十三日、


諏訪に入っていた信長は一益を呼び寄せた。

一益は領地よりも名物の茶器【珠光小茄子】を所望していたが叶わなかった。

このことを一益は後に、茶の師匠・三国一太郎五郎に手紙で嘆いている。


【希みもこれあるかと、お尋ねも候はば、小茄子をと、申上ぐべき覚悟に候処、さはなくて、遠国におかせられ、茶の湯冥加は尽き候。】


三月二十九日


旧武田領の知行割が実施され、信長は東国支配の重要性から一益を関東取次役に任命し、上野国と信濃国二郡を与えた。


既に五十八歳の一益を草深い遠国に送る事を気の毒に思い、秘蔵の馬【海老鹿毛】と短刀を下賜し、


「この馬で入国せよ!」


と信長は老境に差し掛かった一益を気遣った。


四月上旬、


一益は上野・箕輪城、次に厩橋城に入り関東の鎮定にあたった。

新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した。

関東の北条氏政父子、佐竹義重、里見義頼だけでなく、陸奥国の伊達輝宗、蘆名盛隆とも連絡をとった。



五月七日、


信長は、四国取次役の光秀を介して長宗我部に、土佐一国と南阿波二郡以外の返上を命じたが不調に終わった。

信長は三男の織田信孝を総大将に、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将として四国方面軍を編成した。

四国攻めを外された光秀の取次役としての面目は潰された。




六月七日、


本能寺の変を知った滝川家の重臣は非常に驚き、一益に兇変を国人衆に極秘にし、即座に上洛するよう訴えたが一益は聞き入れなかった。


「悪事千里を走るの諺もある。

決して隠しおわせるものではない。

隠してもすぐにわかること。

また隠して弔い合戦のために厩橋を離れれば、東国の威を恐れて逃亡したとして直ちに追ってくるだろう。」


六月十日、


一益は上州の諸将を集め真実を告げた。


「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。

この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。

それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ。」


この三日後に光秀は中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れている。



七月一日、


神流川の戦いで北条勢に敗れた一益はようやく伊勢に帰還できた。


この三日前に清洲会議が行われ、織田家の継嗣問題及び領地再分配が決定していた。

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