明智左馬之助
天正十年五月十四日、
明智光秀は、安土城で細川藤孝・忠興親子と会食する機会があった。
細川親子は丹後より上京し、公家らと蹴鞠を楽しんで今朝安土に登城して来た。
光秀は、翌日安土城に到着する徳川家康の饗応役を命じられていたが本日は非番だった。
光秀は以前、藤孝に仕えていた時期もあったが、現在は与力として細川家を指揮下に置いている。
また忠興に娘・玉を嫁がせて婚姻関係を結んでいる。
「与一郎、玉は達者にしておるか?」
「はい、機嫌よく暮らしています。
玉は舅さまのお身体を心配しております。」
「そうか…病は曲直瀬道三に診てもらいすっかりようなった。
安心するように伝えてくれ。」
小性らも同席した宴会は織田家の将来についての話題で盛り上がった。
織田信長が天下を統一すれば信長が天皇に代わる新たな国王となり、噂にもなっている大坂に巨城を築き広大な城下町を建設し、強力な織田王国を設立して子孫に継承していくであろうという展望で意見は一致した。
しかし藤孝は気になることを口にする。
「明智殿は山陰道を治めることになり、山陰の東端の丹後を預かる我らも今まで通り明智殿のお力添いをすることになりましょう。」
信長側近あたりから漏れ聞いたのか、信長は大名領国制を廃止して道州制を導入し、光秀を山陰道の州知事に任命するであろうと藤孝は予想した。
小性の一人が、
「筑前さまが…」
とこの話題を引き継いだ。
昨年の十二月に備中から安土へ一時帰還した羽柴秀吉は、信長からの西海道州知事任命の打診に対し、
「九州をお預け頂ければ軍艦を造り兵力を整えて海を渡り、高麗より唐入りし南蛮までをも征服致しまする!」
と大ぼらを吹いた。
放言憚りないにも関わらず海外進出の遠大な構想を抱く信長の歓心を買って、名物茶道具十二点を下賜されたというのである。
この時から光秀の思考が霞始める。
秀吉の大言壮語を笑う一同のなか、光秀は口に入れた物をしばらく噛まなかったり箸を落とすなど、心ここにあらずといった様子になった。
それを目撃した森乱丸は、光秀ほどの器量人が箸を落とすほど考え込むということは、良からぬことを企んでいるのでは……
宴会後乱丸は天主に上がり信長に報告をした。
五月十六日、
備中・高松城を攻撃中の秀吉から、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が出陣して来て対峙しているとの報せが入った。
信長は秀吉へ軽率な合戦はすべきでないと伝え、援軍の先陣として光秀を指名し出陣を命じた。
五月二十六日、
光秀は十七日に出陣準備で戻った近江・坂本城から丹波・亀山城へ移って来た。
次の日には愛宕山の愛宕神社へ参り、二、三度くじを引いてその夜は参籠した。
翌二十八日、光秀は西坊威徳院で連歌師の里村紹巴らと連歌会を催し、この席で信長が一両日中に上洛することを耳にする。
【ときは今 天が下しる五月哉】
と光秀は詠み、その日に亀山城へ帰城し家来・山田喜兵衛を自室に呼んだ。
光秀は山陰道・伯耆国の国衆・福屋彦太郎に、西国への出陣の上意を受けたことと、伯耆国へ発向した際の尽力を望む書状を山田喜兵衛に持たせた。
また近々に光秀が伯耆国を統治することになるだろうと口頭で伝えるように喜兵衛に命じた。
この年の五月は二十九日が末日で、雨が降り続いていたが城内外は出陣準備で慌ただしい。
光秀は自室に籠り降り続く銀の雨を眺めながら思考の晴れ間を探っていた。
六月一日早朝、
光秀は亀山城の天守に従兄弟でもある明智左馬之助を呼び寄せ、視線を合わさず弱々しくつぶやいた。
「あの城が欲しい・・・。」
【あの城】とは・・・
左馬之助はあの城が安土の天主のことであろうと推測した。
何故なら安土城に登城するたび、
「けなるい・・・。」
という光秀の京言葉を聞いていたからである。
光秀は優れた建築手腕の持ち主で、その下で働いてきた左馬之助は、豪華絢爛な安土城の建築物としての興味を光秀は口にしているものと思い込んでいた。
「羨ましゅうござりまするなぁ・・・。
あの城には天下の名物や財宝もありまする!」
と左馬之助は笑みを浮かべ軽口で応えたが、光秀は尚も視線を合わそうとしなかった。
丹波亀山は昼近くまで霧がなかなか晴れない。
方角さえ錯乱しそうな濃霧の闇が包む天守から、京へと向かう東の山・老の坂をじっと睨み、
「山陰の山深き谷間の土地など欲しくないわ。」
と心情を吐露した光秀の姿を見て、左馬之助は主人の野望に気づくのである。
落ち着きのない時間がしばらく続いた後、左馬之助は畳に両手をつき濃霧を切り裂くように声を荒げ光秀を諌めた。
「逆心を抱けば天命の尽きることは明白!
気持ちを穏やかに持って頂き、どうか思いとどまり下さいませ!」
諦めきれない表情を光秀は示していたが、ひとまず左馬之助に視線を合わせて諫言を受け入れることにした。
六月十四日、
明智軍の先鋒となって本能寺を襲撃した左馬之助は、近江を攻め船に乗って湖上で山岡兄弟と戦った後あの城の守備に就いていた。
そこへ山崎の戦いでの光秀劣勢の報告が入り三千いた兵が逃亡し七百名となってしまう。
左馬之助は城に保有する天下の名物や財宝を持ち出し安土城を退去した。
光秀を救うべく兵・七百名を率いて京へ向かい、途中、近江・粟津に着いた所で小栗栖での光秀の敗死を知らされた。
左馬之助はやむを得ず坂本城へ引き揚げることにしたが、堀秀政の軍勢が行手を封鎖し、三百名を討ち取られ大津より先に進めなくなった。
打出の浜まで追われた左馬之助は、大鹿毛という名馬に乗ったまま湖水に飛び込んだ。
すぐに溺れるであろうと大笑いしながら堀の兵士たちは見物していた。
しかし二の谷の兜を被り白絹に狩野永徳が描いた雲竜の羽織を着た左馬之助は、沈むことなく悠々と対岸の唐崎浜にたどり着いた。
この時の兜と羽織は行方知らずとなったが、馬だけは無双の駿馬と讃えられ、賤ヶ岳の戦いの時に秀吉が乗っている。
坂本城を堀の兵に囲まれ滅亡が迫る中、左馬之助は一番乗りをした敵の入江長兵衛に武士の空しさを説いた。
「この城も我が身も今日限り。
末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい。
我は若年の頃より武名を挙げることを励みとしてきた。
しかしその結果はどうであろう。
我が身を犠牲にし困難に耐えて功名を挙げたところで、結局は天命窮まった今日の我である。
入江殿も我が如くになるであろうから、武士を止め安穏とした一生を送られよ・・・。」
と述べて話を聞いてくれた餞別に黄金三百両の布袋を投げ与えた。
後に入江長兵衛は左馬之助の忠告に従い、武士を止め貰った黄金で商人となり財を成した。
六月十五日夜、
【左馬助は光秀安土の城より取来る不動国行の太刀、二字国俊の刀、薬研藤四郎の脇指、ならしばの肩衝、乙御前の釜、餌ふごの水さし、虚堂の墨跡等を唐織の夜衣に包、女の尺の帯にて結付、殿守の武者走へ持出】
私利私欲で決起したと疑われるのを嫌った左馬之助は、安土城から持ち出した天下の名物や財宝を堀秀政に渡し、光秀の妻子と自らの正室を刺し殺し城に火を放った。
光秀は越前・朝倉氏を落とした際、信長から拝領した倶利伽羅の吉広江の脇差を大事に秘蔵していた。
左馬乃助はこの倶利伽羅の吉広江の脇差を腰に差し、
「この天下の道具だけは死出の山で殿にお渡しせねばならぬ!」
と強くつぶやき自害して果てた。