あなたへの手紙
朝から続く異様な湿度に、空の苛立ちは爆発し、私に大量の雨を殴りつけている。しかし、彼はそんなことには無頓着であった。長年愛用しているペンを3分ほど不思議そうな顔で観察すると、やはり不思議そうな顔をしながらペンを握り、「お元気ですか?」という文章で手紙を書き始めた。
「僕は自分でも自分が元気なのかどうかすら判然としません。でも、きっとあなたの前では元気な姿をお見せできると思います。」
一画一画、彼は丁寧にペンを運んだ。ただただ、空調の唸り声が微かに聞こえるのみである。貧乏ゆすりが彼の集中力を増加させる。
「僕は生まれてこの方、まともに手紙というものを書いたことがありません。だから、拙い文章になってしまうと思います。それは大変申し訳ありません。しかし、そんな恥を忍んででも、あなたに手紙を送りたいと思ってしまいました。」
閉め切った窓は外の嵐を突き放している。彼は窓の方を眺めたが、相変わらず雨そのものには興味がなさそうだ。今、彼に外の天気の様子を尋ねても、何も答えてくれないだろう。
「僕はなんとかして、この場所に留まろうと思っていました。この場所にいれば、誰も僕を干渉しないからです。その代わり、僕も誰かに干渉するつもりは、勿論ありませんでした。そして、事実この場所はそうあり続けました。この場所は、他の人から僕を守ってくれたし、逆に僕から他の人を守ってもいたのです。
僕はその事実をしっかりと確認した上でも、あるときなぜか僕の心が蝕まれていることに気付きました。僕は自分の心を守るために、この場所へ来たのです。そして、この場所は確実に安全であるはずなのです。決して僕の心は蝕まれないはずだったのです。しかし、事実は無情にもそれに反してしまいました。僕の心には、気付かぬうちに、核の部分まで細菌が侵入してしまっていたのです。
とはいえ、この場所は、決して誰の侵入も許すことはありません。どんな細菌も許さない無菌の部屋です。万が一侵入できたとしても、それを殺すだけの設備までも整っています。それなのに、なぜ、僕の心は蝕まれていくのでしょうか。
まず、僕はこの場所にどこか穴が開いているのではないかと勘繰りました。徹底的にこの場所を調べ上げたのです。しかし、先程申し上げたように、この場所は誰の侵入を許すこともない完全無欠の部屋です。どこにも穴はありません。やはり、何者も僕を蝕むことはできないのです。
であるならば、もともとこの場所に、僕がここへ来る前に、なんらかの菌がいて、そいつが今も住み続けているのではないかという疑いを立てました。これを調査するのは果たして困難を極めましたが、僕が調査した限りでは、そのような細菌さえいないのです。」
彼はここで一旦ペンを止めた。細く長い溜め息を吐く。雨は徐々にその勢いを弱めた。遠くから蝉がまた鳴き始めた。遠くを眺めれば、太陽も少し顔を出そうという気になり始めている。しかし、やはり外のことは彼の心を動かさない。彼にとって、窓の外に世界は無いかのようである。いや、恐らく彼にとっては実際にそうなのかもしれない。窓の内側、これこそが彼にとっての世界であるのだ。蝉の存在や、ましてや太陽などは、銀河をいくつも隔てた遠くにある存在といってもいい。何十億光年か先の天体から私達のもとへ届く光が、その何十億年前の天体の姿を映しているに過ぎず、今現在その光源が果たして存在するのかどうかもよく分からないように、彼にとっての外に在るモノはほとんど幻覚であった。
「いよいよ僕は困り果てました。僕が調べる限り、僕を傷つける存在はいなかったからです。そんな調査結果が出来上がっても、ますます僕は弱っていく一方で、長らく僕を守ってくれたこの場所すらも放棄しなければならないのかと諦めの気持ちすら出てきたのです。しかし、出ていくにはあまりにも長い時間、僕はここに居すぎました。この場所に愛着が湧いてしまったのです。 そして、それが判明したとき、つまり愛着なぞという感情を僕が保持しているということに気づいたとき、僕は全く絶望してしまいました。なぜなら僕は全ての繋がりを、関係を、愛を捨てるためにこの場所へ来たのですから。僕は自分で自分の目標を破壊してしまっていたのです。
何とも迂闊でした。元来、世捨て人を自称してきた僕に、何かを愛するという気持ちなどという俗っぽい感情が存在しえるはずはないと高をくくっていたのですから。僕は全ての関係を棄てて、孤絶した存在に昇格したと自分で信じ込んでいたのですから。しかし、僕の中の真実は、常に何かに依存しようとしていたのです、誰かとつながることを渇望していたのです、愛されたいと叫んでいたのです。つまり、結局は浮き世は捨てられても、僕はこの場所は捨てられなくなっていたのです。
否、僕は実際浮き世の世界すら捨てられていなかったのでしょう。孤絶した存在を自称しながら、結局ずっと何者かに依存しっぱなしだったのです。未練に誰よりも深く心を抉られていたのは、ほかならぬ僕自身だったのです。何と情けないことでしょうか。あまりにも恥ずかしく、同時に僕の存在価値はその時点で無くなってしまいました。正確に言えば、僕は孤絶者であるという馬鹿げたアイデンティティーは初めから存在していなかったのですから、僕の存在価値は初めの初めから無かったのです。
長々と言い訳をしすぎてしまいました。つまり、端的に申しあげましょう。僕を蝕んでいた犯人というのは僕自身その人だったのです。」
太陽はいよいよ顔を出した。そこから発せられる直線は、まっすぐ窓を貫通し、彼の手紙を炙り出した。彼はようやく太陽に気付いた。窓の外を眺め、とっくに雨が通り過ぎてしまったことにも気付いた。雨あがりの埃っぽい臭いにも気付いた。蝉の泣きじゃくる声に気付いた。全身を覆うベトベトした湿気に気付いた。唇を舐めると、さっき飲んだ珈琲の味がするのにだって気付いた。
「さあ、僕は世捨て人という自称を棄てなければなりません。なぜなら僕の本能は常に世を求めていたのですから。世の中から逃げることで、世の中が追っかけてくれるとでも思っていたのでしょう。まあ、それは大変な傲慢であることは否みませんが、実はそれほど僕は世の中を求めていたのです。僕が世の中と向き合えない言い訳を、責任を、僕は世の中に押し付けてしまっていただけの話なのです。
案外、僕は凡人でした。世の中を恐れた凡人でした。僕が今まで凡人だと見下していた人たちは、実は世の中と真正面にぶつかっている勇敢な人たちだったのです。勇敢であることが正義だとか、逃げることが悪であるとか、そういう次元の話ではないのです。世の中と真正面にぶつかっている人は勇敢である、ただそれだけのことであり、僕は世の中から逃げていた、それだけの話なのです。
嗚呼、本題に入るのをすっかり忘れてしまっていました。実は、この手紙を書いたのは他でもありません。僕の手伝いをして頂きたいのです。あなたにそんな無駄なことを行う時間がないのは分かっています。僕を相手にすることが面倒なことも分かっています。しかし、僕が手伝いを頼めるのはあなたしかいないのです。申し上げた通り、僕はとてつもない凡人であるので、手伝いして頂いた分に見合った御礼はできないかもしれませんが、それでも僕が手を尽くせるだけはその御礼をさせて頂きたいとも思っています。
さて、いったい何を手伝って頂きたいかというと、僕が世の中と向き合うことを手伝って頂きたいのです。具体的に言えば、あなたと人間対人間の関係を結びたいのです。僕は世の中と向き合っていく必要があると思っているのですが、しかし世の中というのはそもそも一個の人間の集合体でもあります。であるならば、まずはその一個の人間と向き合うことができなければ、僕はいつまで経っても世の中とも向き合うことができません。その手始めとして、僕はあなたと向き合いたいと思いました。理由を聞かれても分かりません。ただ、あなたなら僕を救ってくれるだろう、ただただそういう直観が僕を動かすのです。大変ぶしつけで迷惑なお願いだとは重々承知はしております。なぜなら、その迷惑さ加減は何よりも僕が嫌いだったものだからです。しかし、それでも僕は何よりもあなたに救われたいのです。あなたがいたからこそ僕は救われたいと思ってしまったのです。
急にこんな手紙を送り、こんなお願いをして大変申し訳なく思っています。しかし、僕は、自分勝手だとは承知していますが、救われたいのです。世間とガップリ組み合うことで、救われたいのです。そして、何度も申し上げている通り、何よりもあなたに救われたいのです。
どうか御賢慮くださるよう、僕はただただあなたに祈るのみです。最後になりますが、大変長々と拙い文章をお読みさせてしまい、申し訳ございません。」
彼は手紙を書き終わると、机の上にペンを投げ出した。嘲笑のような乾いた音を立てながら、ペンは机から転がり落ちた。
彼の手紙には、最後にただ一つ不足があった。宛名が無かった。