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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

金木犀の香り

作者: バクガワ

 湖面には空の茜色が映え、金木犀の香る森が黄金色にもえていた。

 今夜の宿は、湖に近いペンションを借りている。


妻の目を盗んで、同期の三人でつりに行く計画が持ち上がったのは、上野の居酒屋だった。

同期のうち、一人だけ結婚していない長谷川がいつものように、旅に行きたいという話を右から左に受け流しながら、飲んでいたら、いつの間にか隣の小泉が目に涙を浮かべていた。

理由を聞くと、子供ができて以来、嫁が冷たいと愚痴り始め、自分も旅に出たいと言い始めた。

それに流されてなんとなく、おれも旅に行くことになった。行き先は、居酒屋を出たところにあるコンビニで、目に止まった秋の紅葉特集の雑誌だった。温泉に体の線がきれいなモデルが入っていた写真で、ぱらぱらとめくっていたページが止まった。それだけで行き先が決まった。


 車は長谷川が用意して、釣り道具はそれぞれが持ち寄った。

 つりなど久しぶりだ。

 中学のとき以来していなかったので、妻がパートに出ている隙に実家に竿を取りに行った。

 5駅しか離れていない実家では親父とお袋が韓国ドラマにはまっていて、おれが帰っても特に気にせず、

「物置に入ってるから、もっていきな」

と、コーヒーをすすって言った。

物置の漬物の黄色い樽の奥に竿はあり、ラジカセの下につり用の青いベストが敷いてあった。

確かこのベストは中学の時に親父が誰かからもらってきて、おれにくれたのに、当時、前ならえで先頭にしかなったことがないおれには大きすぎて入らなかったやつだ。

今着てみると、ぴったりサイズだった。


 妻には出張と言って、出るときに持ったバッグからは釣竿の先端が出ていた。

妻は眉間にしわを寄せながら、

「いってらっしゃい」

と、見送った。

先週から時々、釣竿を眺めたり、釣りベストを着て鏡の前に立ったり、テンションの高いおれを見て、

「私は絶対に早起きなんてしないからね」

と、言い、三日前に、土曜は出張だというと

「泊まりでいくの?あきれた」

と、言っていたから完全にばれているのだが、断固としておれは出張であることを主張した。

階段を下りたおれの背中に妻は、

「人に迷惑かけるんじゃないよ!」

と、お袋のようなことを言った。


 わざわざ背広を着て、駅前のコーヒーショップで待ち合わせをして、西へ向けて出発し、昼にはサービスエリアで三人そろってラーメンを食い、夕方には三人そろって腹を下し、近くの秘宝館のトイレでうなっていた。そんなに遠くないが時間がかかり、げっそりした三人の目の前に、夕日に照らされた湖が現れた。


ペンションに荷物を置きにいくと、部屋がたくさん空いていたので、長谷川が、

「一人一部屋にしないか」

と、言い始めた。確かに通りがかりに、スナックやストリップ劇場の看板を目にしていたから、二人ともうなずいた。

近くの温泉に入りにいき、外に出てみると日が落ちていた。

あたりは真っ暗である。

おかしいと気づいたのはもちろん長谷川である。

スナックやストリップの看板に明かりが灯っていなかった。

一応確認に向かったが扉には板が打ち付けられていた。

落胆している長谷川に小泉は、

「いや、しょうがない。そもそもおれらは釣りに来ているのだから釣りを楽しもう」

と、長谷川の背中をそっと叩いた。

「駅前のお土産屋さんに、行ってみようか」

と、長谷川は粘ったが、駅前の店のシャッターは全て午後6時で閉まっていた。


その夜、我々は小泉の部屋で冷蔵庫にある全てのアルコールを飲み干し、各々の部屋に帰っていった。

湯冷めして、寒かった体も熱くなり、ベットに倒れこんだ。


 夜中、肌寒さで起きだすと窓が少しだけ開いており、カーテンが揺れていた。

 そうだ、来てすぐに部屋が湿気臭かったので少しだけ窓を開けておいたのを思い出した。

 窓からは湖が見えるはずだったが今は真っ暗で何も見えず、

自分の顔だけが月光に照らされて浮かび上がっていた。

 隣の部屋から長谷川のいびきが聞こえてきたが、窓を閉め切ると、ほとんど無音だった。

 トイレに行き、用を足し、手を洗ったとき後ろに気配を感じ目の前の鏡を見たが、

 疲れたにやけ面の自分がいるだけだった。

 トイレをでると窓の外に人影が歩いているのを見た気がした。

 月の光も薄く、定かではなかったが、

 確かに何かが通った。

 鼻息で窓の表面が白くなるほど、近づいても真っ黒の木々が揺れているだけだった。

 木かと思い、ふと窓に映る自分の顔を見た瞬間、

 ゾクッと背筋が凍った。

 窓に映ったおれの横に白い浴衣を着た女が表情なく佇んでいた。


 振り向くと誰もいなかった。

 

 急いで部屋の明かりをつけたが、いくら探しても誰もいなかった。

 そもそも鍵は全部閉まっているのだ。

 酔っ払っているのだと思いなおし、

 ベットにもぐりこむとすぐに睡魔が襲ってきて、

 まぶたが重くなった。

 

 意識が遠のく前ほのかに金木犀の香りがした。

 

 さっきまで窓を開けていたから、外の空気が入ってきたのだろう。


 朝、まだ日の出前に起きだし、湖に釣りに向かうと霧が出てき始めていた。

 三人はそれぞれボートを借り、釣り対決をすることに決まっていた。

 長谷川に花を持たせようと小泉が昨日の夜から計画していたそうだ。

 

 ボート屋の親父は、

「霧が深くなったら帰ってきてくださいよ、あんまり遠くへは行かないように」

 と、念を押した。


長谷川はボート屋の親父の話を聞いていなかったように一人、ずんずん進んでいった。

 小泉とおれは途中まで並んで進みながら話をしていた。

 小泉も昨日窓の外に人影を見たという。

 長谷川が夢遊病になったんじゃないかというおれの言葉に、小泉は、

「いーやそんなはずないんだ、窓の外はベランダがないから、おれ聞いてみたんだペンションの人に、結構ここら辺自殺の名所らしくってさ、ペンションで亡くなった人もいるみたいなんだよ」

「聞いたのかよ?」と、聞くと

「ああ、古いペンションですからね、いろんなことが起きますよって、お前、お札確認した?」

「いや、お前は?」

「怖くて、探せなかったよ、もしあったら、やだろ」

そのとき、ヒットー!!という長谷川の明るい声が聞こえた。

「あいつ、大丈夫かよ」

「あんだけ元気なんだから、大丈夫だろ」と言って、そろそろ釣らなきゃ、とおれと小泉は離れて釣りを始めた。


 一段と霧は深くなった。

 でもせっかく来たし、わざわざ物置から引っ張り出してきた釣竿ももったいないので、糸をたらした。

 すぐに根掛かりした。

 なんて運がないんだと思いながら、釣り糸を切って、針を付け直していると、

 つり糸が絡まり、こんなにめんどくさかったかと思い始めた頃、

 気づくと霧で5メートル先も白くて見えなくなっていた。

 携帯で連絡を取ろうとしたが圏外だった。


 吸い込む空気は湿っていて、ほのかに金木犀の香りがした。

 右目の端に人の手を見た。

 女の小さな手だ。

 おれは振り向けもせずに、釣竿を落とした。

 船が揺れる。

 ゆっくりと女はこちらに近づいてくる。

 自分のはく息が震えている。

 たぶん昨日の夜中見た、あの女だ、と思ったのは白い浴衣がすれる音が聞こえたから。

 女は後ろからおれを抱きしめ顔をおれの頬に近づけた。

 振り向けば、女の顔が触れる位置だ。

 女の息が笑っていた。

 女の手がおれの腕から、手のひらの方に伸びてきた。

 小さな女の手がおれの震える手に重なろうとしたとき、思い切っておれは振り向いた。


 何もいなかった。

 ただ、白い霧が曇っていた。

 気づくと両手に黒い何かを持っていた。 

 女の首がおれの両手の中で笑っていた。

 動くことも、声を出すこともできなかった。

 全身が寒かった。全身の毛という毛が逆立った。

 次の瞬間、スローモーションのように女の毛がつぎつぎと抜けていき、女から水分がぬけていった。

 頭蓋骨に目玉と赤い舌だけが残っってもなお、女は笑っているようだった。

 思わず頭蓋骨を投げ出すと、ちゃぽんっと言って湖の底に消えていった。

 船にしがみついて、今おこったことがなんだったのか、思い出してるうちに汗が噴出してきた。

 考えまいと、船のオールをつかんだが、うまく力が出せなかった。

 そのうちにだんだん、霧が晴れていった。

 岸まで、どうやってたどりついたのか今でもわからないが、おれを見た二人は青ざめてるおれに、

 船酔いか?救急車呼ぶか?と心配してくれた。

 ボート屋の親父が熱いお茶を出してくれ、それを飲んだとき、ようやく落ち着き、

 今起こったことを二人に話すと、盗み聞きしていたボート屋の親父はそんなにはっきり見たって言った人は始めてだと言った。

 ただ、よく霧の日の朝は子供が水面を走っていく影を見た人がいたり、

 老婆の声でこっちだよー、と言うのを聞いたりする人がたまにいる、と言った。


 二人は苦笑いをして、すぐ帰ろう、と車を出した。


 その旅から帰ってきて数週間たった頃、幸いなことにあのことについて考える暇もないくらい忙しく、三人とも会社に寝泊りするような生活を送り、あまり家に帰ってなかった。ようやく、仕事の目処もたち、家に帰れるようになった。家に帰ると妻が珍しく、抱きついてきた。ふと、妻から金木犀の香りがした。思わず妻を突き飛ばし、

「どうしたんだよ」

と、いうおれの目には恐怖が浮かんでいたことだろう。妻の目からは大粒の涙が今にも落ちそうになっていた。

「ちがうんだ、その匂いどうしたんだ?」

と、やさしく聞くと

「匂い?だって、この匂いをつけてる人が好きなのかと思ったから」

「なんだ香水か」

「なんだってなによ、あの女の人は誰なの?」

と、妻が聞いてきた。よく話を聞いてみると、あの旅以来、会社に出かけるおれの横に着物をきた女がいて、浮気しているのだと思ったらしい。

妻は洋服ダンスの釣り用のベストを持ってきて、

「ほら、髪の毛!」

と、ベストについた髪の毛をつまんで見せた。

「あとこれ」

と、おれも気づかなかったがベストの背中にあるポケットがついていた。妻はそれを空けて、オレンジ色の小さな金木犀の花を一握りほど取り出して見せた。

おれは妻に旅で起こったこと全てを話し、実家に帰り、親父にあのベストを誰にもらったのか尋ねた。親父は

「今、その人、行方不明なんだ」

と、あっけらかんと言った。よく聞くと親父が大学の頃、お世話になった先生だそうで、その人だけでなく、一家そろっていなくなったそうだ。確かにその人の家には金木犀が咲いていたことだけは覚えているらしい。ただし、浴衣を着た人や着物を着た人は記憶にないという。

おれは実家の庭で、一斗缶に灯油を少したらして、ベストを焼いた。

灰色の煙が空へと登っていった。

茜色にそまった空にはいわし雲が出ていた。


その日以来、妻は金木犀の香水をつけることはなくなった。

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