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精神科の調剤薬局

作者: 文屋カノン

第44回新潮新人賞落選分です

 クリスマスイブに精神科を受診したことがある。それも三回も。

 好んでその日に受診した訳ではない。二週に一度、木曜日が受診日だったのだ。過去のカレンダーを見てもらえば、2008年と2009年のイブが、木曜日だったことが分かるだろう。2010年のイブは 金曜日だったが、受診予定の二十三日木曜日が祭日のため休診だった。そこで翌日のイブに受診したの だ。

 いつ行ったからといって楽しい場所ではないが、イブは格別に楽しくない。あたしはもう結婚してい て、イブに恋人と過ごさねばならないという強迫観念からは解放されていたが、楽しく過ごさねばならないという強迫観念からは自由になっていなかった。

  この日に即席であれ恋人と過ごす女の方が幸せに思えた。この日のために、体裁を繕う余力があるのだから。

  2008年のイブのことだった。あたしが待合室で座っていると診察室の扉が開いた。中から若い女が母親らしき女に付き添われ、泣きながら出て来た。すらりとした綺麗な女だった。

 初診なのだろうなと思った。身内が付き添っているケースは初診の場合が多いからだ。何より木曜日の午後というこの時間帯は、初診優先だった。八月から通い続けていたあたしが来ているのは、医者の配慮によるものだ。通常の患者は十分~十五分しか診察時間がもらえないが、あたしは口数が多く診察時間をオーバーしてしまうため、初診枠である木曜午後に通ってはどうかと提案されたのだ。

 木曜午後なら一人当たり三十分の診察時間が用意される。あたしは喜んで、その提案を受け入れた。もっともその経緯によってイブに受診する羽目に陥ったのだが。

 泣いていた患者が、母親らしき女に付き添われクリニックを出て行くと、受付から「急性ストレス障害」という単語が聞こえてきた。どうやら先ほどの患者の病名らしい。

 あんなにも若く綺麗な女でも、イブに精神科を受診しなければならないほどの、辛い経験をしたのだなと思った。自分も若く綺麗だった二十一歳の頃に、初めて精神科の門をくぐったというのに、何やら驚きを感じた。それだけイブに精神科で見かけた若く綺麗な女の涙は衝撃的だった。






 2009年のイブの話をする前にあたしが二十一歳だった十五年前の話をしよう。あたしは若かった。自分で言うのも何だが綺麗でもあった。

 その年、あたしが精神科に通い始めたのには幾つか理由があるが、恋愛沙汰も一つの理由だろう。あたしはその年カレシが四人いたのだ。しかもだぶりは無かった。そして交際にまでは至らなかったが、恋仲になった男が二人いてワンナイトラブも一度あった。そのことがあたしの精神を追い詰めたのだ。あたしは色んな人と付き合ってみたいと願ったことは一度も無かったからだ。

 それなのにどの恋愛も上手くいかず、別れる度にぼろぼろになった。食欲は無くなり夜も眠れなくなりとうとう会社に行けなくなった。その年はあたしにとって、いわゆるモテ期だったのだろう。会社に向かえば路上で痴漢に遭い、会社にたどり着けばセクハラに悩まされた。

 死にたいくらい悩んだし実際に自殺も図ったが失敗した。何もやる気が起きなかった。それなのに、もう恋などするまいとは思わなかった。

 それだけ男出入りの激しい年だったが、奇跡的に一ヶ月ほど相手がいなかった時期がある。その時に通い始めたばかりの精神科で医者に訴えたことが忘れられない。

「カレシさえできれば、あたしは治ると思うんです」

 あの時あたしは、本気でそう思っていた。






 2009年のイブはもっと衝撃的だった。患者が騒ぎを起こしたのだ。

 その患者は、あたしと同じく初診ではなかったが、木曜日を指示された訳ではないようだった。その女患者は薬が足りなかったため次回診察日を待ちきれず受診したのだ。

 処方箋を手に受付でやり合う様子に、あたしは読みかけの小説から顔を上げた。この時あたしは、小説を読めるほどには回復していた。

 処方箋に載っている薬が足りないと、受付事務を執る医者の奥さんに、女患者が詰め寄っていた。四十絡みの太った女で髪を乱し部屋着のようなだらしない格好をしていた。重症だなと察した。あたしも全くやる気が出なくなると、スッピンで夫に連れて来られることがある。身支度というものが億劫でたまらなくなるからだ。

 だが部屋着のままということはないし髪は整える。どんなに意欲が無くなっても、社会性を完全に手放すことができないからだ。だから社会性を完全に手放したかのような女患者を見て重症だと感じた。

女患者は受付で問答を続けていたが、突然医者の奥さんが

「あっ、駄目」

 と叫んだ。女患者は制止を聞かず男子トイレに飛び込んだ。女子トイレではなく男子トイレを選んだのは手前にあったからだろう。

 何が起きたのかと思っていると、騒ぎを聞きつけた医者が診察室から現れ、「どうしたの」と奥さんに尋ねた。初老で品のいい穏やかな医者だ。

「トオヤマさんが、カッター持ってトイレに立てこもっちゃって……」

 あたしがぎょっとしていると、医者はトイレの前に立ち

「トオヤマさん、そういうことするならね、うちではもうあなたのことは診れない。紹介状書きますから出て来て下さい」

 と呼びかけた。

 そうか。ああいうことをすると別の病院に回されてしまうのかとあたしは考えた。別に騒ぎを起こす気は無かったが、勉強になった気がした。確かに医者が一人で診察をしているクリニックでは、騒ぎを起こすような患者は診られないだろう。

 トイレの扉越しにトオヤマさんは

「だって寝れないと困るのよ。仕事だってしなきゃいけないし」

 とヒステリックな声を出した。トオヤマさんの気持ちは分かった。あたしはその時仕事をしていなかったが、仕事をしながらうつ病と戦っていた過去があったため、気持ちは分かった。

 でも医者の気持ちも分かった。患者の健康を考えれば薬には出せる上限があるからだ。

「じゃあ十五分待ちます。十五分待っても出て来なければ警察呼びますから」

 医者はそう言うとその場を離れ、受付に戻り

「十五分経ったら、警察に電話して」

 と指示した。カッターナイフを所持したままの患者と、問答する訳にはいかないからだろう。

 しかし医者は一分もしない内に再び診察室から現れ、奥さんに

「トオヤマさんのご主人の勤め先に、連絡して」

 と指示し直した。何かあったら責任問題になってしまうのに、大丈夫だろうかとあたしは心配した。警察沙汰にしてはトオヤマさんが困ることになると配慮したのだろうが、精神科の医者というのは大変だと思った。

 看護師がトオヤマさんのご主人の勤め先に電話をして、事情を説明する声が、ぼそぼそと待合室に響いた。そして看護師が受話器を置くとすぐさま電話のベルが鳴った。クリニック名を名乗った看護師が、「トオヤマさんですか」と声をひそめた。あたしは男子トイレからくぐもった声が流れてくることに気付いた。どうやらトオヤマさんは、ケイタイでクリニックの受付に電話をかけたようだった。

「ええ……、ええ……、でもそれでしたらちゃんと先生の診察を受けて、先生に直接おっしゃったらいかがですか」

 看護師が説得を試みる。どうやら自傷行為の心配は無さそうだとあたしは安堵した。手首を切るつもりなら、このタイミングで電話をしたりはしないだろう。

 その後あたしが診察室に呼ばれ診察を受けていると、看護師が「失礼します」と診察室に入って来た。

「先生、トオヤマさんのご主人がいらっしゃいました」

 看護師が立ち去ると、あたしは

「あの、何でしたらあたしは後でも構いませんが」

 と申し出た。しかし医者は

「心配しなくていいですよ。ゆっくりやりましょう」

 と笑った。

 ここで優先してしまうと、ごね得が通用すると、トオヤマさんに学習させることになってしまうと医者は判断したのだろうか。つくづく精神科の医者というのは、気苦労の絶えない仕事だと思う。

 あたしが診察室を出ると、入れ替わりにトオヤマさんが、ご主人と一緒に診察室に入って行った。ご主人もトオヤマさんと同じくずんぐりとした体つきだった。

 待合室で会計を待っていると、診察室からご主人の

「先生も、お前のことを考えてやって下さってるんだから」

 とたしなめる声がした。

 イブに精神科を受診するのは確かに切ない。ただその精神科で、騒ぎを起こす本人になったり配偶者が騒ぎを起こすのは、もっと侘しいことかも知れないとあたしは感じた。

 





 2011年のイブの話をする前に、2011年の夏の話をしたい。

 いけないのは永井(ながい)薬局だと思う。医者とトラブルを起こし、撤退することになったからだ。元々あたしは永井薬局のオーナーが嫌いだった。助言を求めてもいないのにいらぬアドバイスをしてきたからだ。

 睡眠薬の量が増えていくあたしに、運動をしてはどうかなどと言ってきたが、当時あたしは毎日三十分運動をしていた。不眠症を発症した二十一歳の頃も、毎日プールに通っていたのにどんどん悪化してしまった。大体そんな提案は小学生でも思いつく類のものだ。医者にかかる前に、実践しているに決まっている。それなのにそんな当たり前の方法を提案されると、馬鹿にされているような気分になる。

 旅行に行ってはどうか。仕事をしたらどうか。

 あたしの顔を見るとオーナーは次々にアドバイスをした。こんな提案をする人間が、精神科の調剤薬局の経営者なのだという事実に、あたしは絶望的な気分になった。そんなことでうつ病がよくなるのなら、精神科など必要無い。せっかく医者の診察を受けて軽くなった心が重くされてしまい、もったいなくてたまらなかった。

 けれどあたしは律儀に返事をした。

「旅行なんて行くお金ありません。リーマンショックの影響で、夫の仕事が暇になったんです」

 オーナーはぽかんとしていた。どうやらリーマンショックを知らないらしかった。それだけ社会情勢に疎いオーナーが旅行を提案したことに、あたしは腹立たしい思いをした。つまりオーナーは、愚か者なのに、気軽に旅行に行けるだけの収入があるということだから。

 収入。それが欲しければあたしも働けばいいのだ。分かっていた。だがあたしのうつ病の再発原因の一つは仕事だったのだ。作家を目指すあたしは、ネットに載せる文章を作成するライティングという仕事を始めたことにより、追い込まれたのだ。それは文章を書く喜びを微塵も感じられない仕事だった。

 依頼主から送られてくる複数のキーワードを使って、あたしは文章を作成した。ヒット数を稼ぐことだけを目的にしたキーワードを使って、どうでもいい文章を書くことを求められたその仕事にあたしは疲弊した。

 例えば「ヘアスタイル」「カタログ」の二つの単語を使って、400文字以内で文章を作成しろという依頼が来る。依頼に応えるのは簡単だったがあたしは憂鬱だった。その二つのキーワードで検索する人は、ヘアスタイルのカタログを入手したいはずだからだ。

 それなのに彼らはあたしの作成した

「美容院に行った時、待ち時間に、様々なヘアスタイルが載ったカタログが渡されることがあります。そんな時わたしは……」

 などというくだらない文章を読まされることになるのだ。

 自分の仕事が、全く社会の役に立っていないどころが、むしろ検索者を邪魔していることが憂鬱だった。金のためと割り切ろうとしたができなかった。あたしは心を病んだ。だからあたしはオーナーに言った。

「でもあたし、仕事してて病気になったんです」

「どんな仕事してたの」

「文章を書く仕事です」

「あーそんなの駄目駄目。やっぱりこうやって人と接する仕事じゃないと」

 疲れを覚えた。そりゃあこのオーナーのように、相手が精神科の患者だということに頓着せず好き勝手なことをしゃべり散らし、それが金になるのなら、精神を病むこともないだろう。そんな仕事のやり方に罪悪感を覚えずにいられる愚鈍な精神を持っていれば、精神病などとは無縁だろう。しかしそんな最低の人間に、仕事へのアドバイスなどされたくなかった。

 それにオーナーの論理からいくと、仕事とは全て、接客業でなければならないということになる。そんな乱暴な話があるだろうか。あたしは永井薬局のオーナーに会うのが苦痛でたまらなかった。

 いやただ永井薬局に行くだけでも苦痛だった。人望の無いオーナーは、薬剤師や事務員に仕事をボイコットされることもあったからだ。普段は薬の調合もせず、患者と無駄口をたたいているオーナーが一人で仕事を切り盛りできるはずが無い。帰宅してから

「実は、頂いた金額が間違っていた」

 などと電話がかかってくることもあり、迷惑なことこの上無かった。

 オーナーがあまりにも好き勝手をやっているので、見かねた夫が、クレーム電話をかけてくれたことがある。無責任に仕事をしろなどと勧められては、妻の病状が悪化しかねないから控えて欲しいという申し入れだった。てっきりそれくらいのことは、分かってくれるかと思っていたが、次回永井薬局に出向くとオーナーは言った。

「ご主人も色々ストレスがあって、誰かに当たりたいのかなあ」

 あたしは絶句してしまった。自分は決して間違っていないというこのオーナーの自信はどこから来るのかさっぱり理解できなかった。そして理解したくもなかった。

 するとある日、「永井薬局」の看板が「(にっ)戸野(との)ドラッグ」に替わっていた。これでもうあのオーナーに会わずにすむのだと、あたしは歓喜に打ち震えた。やはり悪とは栄えないものらしい。

 後で聞いたところによると、永井薬局のオーナーが、処方箋に従わずに薬を処方したため医者が別の調剤薬局を契約したとのことだ。やめてはいけない薬を、患者に「飲まなくていい」と言ってみたりと、めちゃくちゃだったらしい。

 野木(のぎ)が派遣されてきたのが、夏だった。

 出会った時の印象は悪かった。見た目がチャラ男だったからだ。ひょろひょろとやせていて髪は長く茶色く、耳たぶには幾つもピアスが空いていた。

 あたしが双極性障害2型の治療で精神科に通い始め三年目の夏だった。そんな時に、チャラチャラした八歳年下の薬剤師と出会ってしまい不快だった。だからなるべく、会話しないようにしていたのに野木は何やかやと話しかけてきた。うっとうしかった。

 あの頃、禁煙治療を始めたのが悪かったのだろうか。

 医者には前々から禁煙を勧められていたが、その気になれなかった。以前禁煙にチャレンジした時に太ったからだ。しかしあたしはその一年前から突然太り始めた。ストレス性の胃腸炎が完治し、禁煙していないのに十キロも太ってしまったのだ。あたしは自棄になった。こんなに太ってしまったならついでに禁煙もしようかという気になった。そこで禁煙治療薬であるチャンピックスを処方してもらった。

 医者は禁煙セラピー本も貸し出してくれた。今思い返すと、チャンピックス以上にその本が効いた。ニコチンは三日で抜けると本に書いてあったため、通常は一ヶ月ほど服用するチャンピックスを三日でやめることができたのだ。そしてそのまま禁煙は成功した。

 入戸野ドラッグに行くと野木が

「禁煙やめたんですか」

 と嬉しそうに話しかけてきた。前回処方されたチャンピックスが、処方されていなかったため、禁煙を挫折したのではないかと思ったらしい。野木は禁煙できない薬剤師だった。

「ううん。禁煙は続けてるよ。チャンピックス飲むのやめただけ」

 答えるあたしに、野木が

「すごいなあ。オレは禁煙なんて無理だなあ」

 と弱音を吐いた。

「禁煙したいんだけど、ストレスがあって無理なんですよ」

 打ち明ける野木に

「あたしも、そう思ってたの」

 とあたしは応じた。禁煙セラピー本を読むまでは、あたしも喫煙によってストレスが解消できていると誤解していたからだ。

「だから昨日引き出し整理してたら、捨てたと思ってたタバコが出て来たんだけど、吸わずに水道水で水浸しにしたしね」

 誘惑に打ち勝った嬉しさを伝えると、野木は

「意志が強いですねえ」

 と感心した。

 先ほど医者も同じ反応を示したことをあたしは思い返していた。

「いえ違います。あたしは意志が弱いんです」

 と主張したが、喫煙経験の無い医者はきょとんとしていた。医者は学生時代にパチンコ依存症だった。あたしがあまりにも早くタバコと手を切ったため、意志が強いと考えたようだった。

「違うの。あたしは意志が弱いからこそそうしたの」

 またしても否定したあたしに野木はこう言った。

「ああ分かるかも知れない。オレもほっとくと恋愛にばっか依存しちゃうから、他に夢中になれること見つけようって、努力するもんなあ。意志が弱いからこそっていうのありますよね」

 ふとこういうことを言う人は何座だろうと疑問が湧いた。尋ねると野木は、「さそり座です」と答えた。

「きゃっ、あたしと相性ばっちり」

 少し野木に好意を覚えた。相性のいい星座だったからではない。ほっとくと恋愛に依存してしまうという情のある野木に好意を覚えた。軽薄なさらっとした外見でありながら、ねばねばしたものを持っているなんてそそられた。依存しないよう努力しているなんて、微笑ましい気がした。あたしに似ているからだ。

 どうしてそこで終わりにできなかったのかと、あたしはあの後何度も考えた。嫌いだった薬剤師に少し好意を抱いたあの日。どうしてそこで終わりにできなかったのかと。

  





 その年はこれまでになく雑誌の占い特集に目を通した。あたしの星座である魚座が、十二年に一度のラッキー年だったからだ。

 双極性障害というのはそううつ病のことだ。それの2型というのは、そうよりもうつの方が重いという意味だ。うつ状態の方が長く症状が重かったから、あたしは基本的に辛かった。まれにそう状態に入れば気持ちが焦った。今の内に成し遂げておかねばと思った。あたしは作家になりたかったのだ。

 心を病んでしまったのには理由があった。ライティングの仕事だけではない。多くの理由があった。横領をしていた上司の陰謀で会社をクビになり、両親が訳の分からない宗教に入れ込みそのせいで叔母が自殺し、姑が世界に三百人しか患者のいない原因不明の病気にかかり、舅は万引き騒動とセクハラ騒動を起こし、夫はハント症になり、あたしは一番の親友と仲たがいをしてしまったのだ。つまりあたしには題材が豊富にあった。

 だから作家になりたかったのに、あたしの小説はよくて三次審査止まりだった。そのあたしが、十二年に一度のラッキー年に期待したのは愚かなことだろうか。

 愚かでも賢くてもどうでもよかった。とりあえずその時生きる理由があればよかった。今だけでも生きていようと思うためにあたしは占いをむさぼり読んだ。期待した。十二年前にはたいしたことは起きなかったけれど、むしろ十二年前には、この半生で最高の条件の男と別れこの半生で最低の男と付き合い始めてしまったけれど、考えないことにした。あたしは自分に訪れる幸運に期待した。

 夫や友人たちの星座も熟読した。彼らに関する記述が当たれば、自分へのラッキーな予言にも信憑性が生まれるような気がしたからだ。だから野木のさそり座も読んだ。そうしたらその内容を、どうしても野木に伝えてやらなければならない気がした。

 入戸野ドラッグを訪れるとまた野木が応対した。どうやら木曜午後は、薬剤師が一人しかいないらしい。薬を渡しながら野木がまたあれこれ話しかけてきたが、あたしはそれをさえぎって

「さそり座だったよね」

 と確認した。

「はい」

「歳、いくつ?」

「二十九です」

「結婚してる?」

「してません」

「さそり座、今年十二年に一度の大恋愛年なんだって」

 野木の軽薄な顔がぱっと輝いた。

「ホントですか。じゃあ今年付き合った相手と結婚するとか?」

 反応のいい野木に好意を持ちながら、あたしは

「いや、それは分かんないけど」

 と答えた。

「えっ何それ。持ち上げられて落とされた気分」

「いや結婚のことまではあたしが読んだ本には書いてなかったけど、とにかく今年は、十二年に一度の大恋愛年なんだって。でも当たってると思うよ。あたし十八の時に大恋愛年だったんだけどホントに大恋愛したもん」

 あたしは十八年前を回想した。それまであたしは恋愛にクールで、カレシができても翌日には気が変わって別れを告げるような薄情な女だったのだが、その年突然、恋愛に開眼したのだ。相手の一挙一動で一喜一憂し、寝ても覚めても相手のことばかり考えるようになった。そんな相手と付き合うことができたのは貴重な経験だったと思う。もっとも相手には四股をかけられたのだが。

「え、じゃあその年に知り合った人と結婚したとか?」

 野木は余程、今年知り合った人と結婚したいらしい。だがあたしはそれに気付かず「まさか」と答えた。夫とはその九年後に付き合い始めたのだ。

 野木が少しガッカリした顔をしたので、あたしは思わず、カノジョの有無まで尋ねてしまった。いるにはいるが、付き合い始めたばかりでまだしっくりいっていないのだと野木が答えるものだから、あたしは熱心に励ました。

「頑張ってよ。さそり座は恋愛の勝利者なんだから」

「そうなんですか」

「そうだよ。三角関係になっても勝つんだから」

 別に野木がカノジョと三角関係な訳でもないのに、あたしはそんなことを言い出した。自分が十八の頃に付き合っていた男と、八角関係だったからかも知れない。その男は最高時に四股だっただけであって、あたしと付き合っている間に他に女が六人いたのだ。大恋愛必ずしも幸せではない。あたしは他の女に負けてしまった。

「あ、でもそうかも知れない。オレ昔、略奪できちゃったことあって」

 やはりそうかとあたしは考えた。さそり座なら皆が皆、略奪愛をしていると言いたい訳ではないが、西洋占星術によるとさそり座は略奪愛が可能なのだ。

「そのカノジョとは、どうして別れたの」

「オレが、浮気しちゃったのね」

 野木の馴れ馴れしい口調よりも、その発言にあたしは気がいった。やはりそうかと思った。

「やっぱりね。だから略奪愛はしない方がいいんだよね」

「え、どうゆうこと」

「他に男がいるのに自分のとこに来た女なんだって、どうしても思っちゃうんだよ。自分が略奪しときながらね、心のどっかで信用できないのよ。だから大事にできなくて壊れちゃうんだよ」

 野木は感心したように口をぽかっと開け、「そっかあ」と言った。

「だから略奪は、しない方がいいの」

「そうだね。さそり座は略奪はできるけどしない方がいい」

「そうそう」

 それでも野木は、機会があれば略奪をするのだろうという気がした。また野木が略奪をするのか知りたくなったあたしは

「今のカノジョは、略奪愛じゃないんだよね?」

 と確認した。

「違う。違う」

「前のカノジョとは、どうして別れたの」

「遠恋だったんだよね」

 遠距離恋愛の経験が二度あるあたしは、野木に親近感を抱いた。しばし遠距離恋愛の悲哀について会話に花が咲いた。行き来するくらいなら、二人の勤め先の中間点に家を借りて住みたいと言う野木をウェットだと感じた。さそり座らしいウェットさで、好ましく思った。

「どうして別れたの」

「喧嘩が多くて。電話って喧嘩しがちじゃん」

「分かるー。遠距離ってさ、お互いが会いたいのに会えない不満抱えてて欲求不満状態で電話するから、ちょっとしたことでイラッとして喧嘩になりがちなんだよね」

 あたしの解釈に野木はまた感心したような惚けた顔をした。これまで野木は、そのような視点を示されたことがなかったらしい。

「よかったら今度、ゆっくりお茶でも飲みながら話聞かせて下さいよ」

 と言い出した。

「あたしでよかったら喜んで」

 とあたしは微笑んだ。






 どうして野木は「お茶でも」などと言い出したのだろうと、その後しばらく考えた。ただのお愛想だということは分かっていたが、こちらは、精神科に通院する三十六歳の女なのだ。真に受ける可能性があるではないか。それなのになぜ野木がそんなことを言ったのか不思議だった。

 二十九歳という若さだろうか。

 若いということは人に粉をかけられるということだ。あたしも二十九歳の時に、最後のナンパをされた。夫がコンビニに行っている間に、車の中で待っていたら声をかけられたのだ。当然断ったがあたしは何の感慨も持たなかった。男連れであっても男が傍らから離れたその時に、声をかけられることは珍しくなかったからだ。結局それが最後のナンパになったが、その時はそのナンパに希少性は見出さなかった。

 若いとはそういうことだ。声をかけることやかけられるということに、どれだけの意味があるかなど考えはしない。でもそれは相手が一般人だった場合ではないだろうか。精神科に通院する女に滅多なことを言うべきではないと、精神科の調剤薬局の薬剤師なら、当然分かっているのではないだろうか。

 野木はそそっかしい男なのだと感じた。精神科の調剤薬局に勤める薬剤師として、あるまじき存在である気がしたが、あたしは気にしないことにした。それより若い男にお茶に誘われたと機嫌をよくする方が得策だった。お愛想だとは分かっていたから、実現しないことは分かっていた。ただしばらくの間心を浮き立たせていられることが愉快だった。

 でも更にあたしを誤解させる出来事が起きた。きっかけはビオチンだ。それはビタミン剤の一種なのだが、ある雑誌を読んでいたところ、ビオチンがアトピー性皮膚炎に効くという記述を見つけたのだ。爪が薄く白髪が多い患者に効果を発揮するという。おまけに美肌効果もありホルモンバランスも整えるという。

 美肌やホルモンバランスの安定も嬉しいが、それよりも、アトピーを何とか改善したかったあたしは精神科でビオチンを所望した。爪と白髪が該当したからだ。本来なら皮膚科に行くべきなのだが、あたしはかゆみを抑えるクラリチンを、すでに精神科で処方されていた。

 医者は処方箋を書いてくれたが、入戸野ドラッグではビオチンの扱いが無かった。通常、精神科医療で使われる薬ではないからだ。待合室で薬を待っていると、奥の部屋で野木が事務員と話す声がした。その声は

「沼田さんのビオチンは、僕が送りますから」

 と言っていた。

 妙な気がした。入戸野ドラッグに事務員は二人もいるからだ。届いた薬を患者に郵送する仕事は事務員がするべきことのように思った。でもそんなことは、あたしの知ったことではない。

 入荷次第郵送すると言われたので、あたしは到着を待った。しかし翌日には手配するという話だったのに、六日経ってもビオチンは手元に届けられなかった。

 しびれを切らし入戸野ドラッグに電話をすると、転送電話に切り替わり、野木が「もしもし」と電話に出た。水曜日は休みだったのだがあたしはそれを忘れていたのだ。

 沼田だと名乗り

「あのこの間、お願いしたビオチンなんだけど」

 と切り出すと野木は、「届かない?」と即座に答えた。ビオチンの用法に関する問い合わせだとは夢にも思わなかったらしい。

 今日は休日だから、事務員に確認してから電話すると言われ、あたしはようやく薬局が休みだったことに気付いた。

「そうか、今日水曜日か。お休みに電話しちゃってごめんなさい」

 謝るあたしに野木は

「いやいいんだよ。患者さんは気になることがあったらいつ電話してもいいの。二十四時間対応してるんだから。じゃ悪いけどちょっと待ってて」

 と電話を切った。

 沼田さんのビオチンは、僕が送ると言っていたのにどうして事務員に確認するのか。不審に思っていると、五分後にかかってきた電話で、事務員が郵送を忘れたと野木は言い出した。本当に事務員が忘れたのか。休日だというのに随分早く連絡が取れたものだ。

 あたしが疑心暗鬼に駆られていると、よかったら今から自宅に届けたいと、野木が言い出した。本当に野木を自宅に来させていいのだろうか。あたしは疑問に駆られた。別に野木が無体なことをすると恐れた訳ではない。ただここで応じてしまったら、何もかも野木の思惑通りになりそうで癪だった。

 明日受け取りに行くと提案すると、野木は随分、恐縮してみせた。

「明日そっちに行く用あるし、別にいいよ」

「でも、楽しみにしてたのに申し訳ない」

「……、別に、薬を楽しみにはしないけど」

 ビオチンに美肌効果やホルモンバランス安定効果があるから、このように言われるのだろうか。そう思った瞬間、野木は

「沼田さんが、より美しくなれるチャンスだったのに」

 と言った。

 もしかしたら野木は、このセリフを言いたいがために、ビオチンをわざと送らなかったのではないかという気がした。だが何のためだ。

「沼田さんがより美しくなれば、ご主人も喜ぶし」

 抜け目の無い男だと思った。言質を取られないようにしている。だがそのように工夫しながらもこちらの気分をよくするのはなぜだ。

 とりあえずあたしは

「えーあたしなんて、この一年で十キロも太っちゃったし、ダンナには顔見れば『やせろ、やせろ』って言われてるよ」

 と言ってみた。もちろん大げさだが。

「え、結婚ってそういうもの? 結婚してしばらくするとそうなっちゃうの」

 野木が声を弾ませた。どうやら世間話をしたかったらしい。ひょっとしたら野木は、事務員や他の患者などの耳の無い場所で、あたしと恋愛にまつわる世間話をしたかったのかも知れないと思った。お茶を飲みに行きたがってもいたし、本気なんだろうという気がした。本気で恋愛トークをしたいのだろう。

ならばこちらも本音で話さねばなるまい。そこであたしは

「いや文句言うって感じじゃないんだけどね。やっぱ急に太ったから、体に悪いんじゃないかって心配みたい」

 と答えた。そもそも夫は、あたしがどれだけ太っても構わないなどと物騒なことを言うタイプだったのだ。

 すると「そうなんだ」と答える野木の声が沈んだ気がした。あたしは不審を覚えた。夫との仲の悪さを、期待されていたかのようだったから。

 その直後、野木が

「あ、お客さんからキャッチ入っちゃった」

 とつぶやいた。切り時だと察したあたしは

「あ、分かった。じゃあね」

 と電話を切った。放った明るい声とは裏腹に心がわだかまっていた。

 番号通知で客からの電話だと分かったなら、なぜ先ほど、「もしもし」と電話に出たのだろうと思ったのだ。休日であれ、「ありがとうございます。入戸野ドラッグでございます」と出るのが筋ではないだろうか。

 未熟なのだなと思った。未熟な男がおべんちゃらを使い近づいて来たことに、あたしは妙な気分になった。






 翌日、約束通りに薬局に出向くと事務員が一人出迎えてくれた

「沼田ですが、ビオチンを受け取りに来たんですけど」

 用件を告げるときょとんとしている。何だか最近あたしの周囲には、ぽかんとしている人やきょとんとしている人ばかりだ。あたしが悪いのだろうかと不安になる。事務員があたしに、ビオチンを送るはずだったのになぜきょとんとするのだ。

 不可解に思っていると、奥から野木が「はいはい」と出て来た。

 昨日野木はあたしにビオチンを送ったかどうか、事務員に確認したと言っていたが、それはもう一人の事務員だったのだろうか。と考えていると、野木は

「はい。じゃあこちらです」

 とビオチンの入った袋を渡すと、さっさと奥へ引っ込んでしまった。

 昨日はあたしが出向くことを、散々申し訳ないと言っていたから、てっきり今日も謝罪されるものと思っていたあたしは面食らった。一体なぜこのような態度なのだろうか。

 もしかしたらあたしが、ビオチンを取りに来たことを、事務員に知られたくないのではないかという気がした。野木はもしかしたら、わざとあたしにビオチンを送らなかったのではないだろうか。

 その思いは薬の入った袋を見て確信に変わった。いつもなら手渡される袋には、担当印が押されているのにそれには押されていなかったからだ。これが野木の言う通り、事務員に託されたのなら、担当印が無いことを事務員が指摘するだろう。野木は自分でビオチンの袋を所持していたため、担当印の押し忘れに気付かなかったのだ。

 野木はなぜビオチンを送らなかったのだろうか。その疑問を見詰めた時

「沼田さんがより美しくなれるチャンスだったのに」

 という野木の声が耳元によみがえった。

 おべんちゃらを言うためだったのだろうかという気がした。だが何のために? 精神科に通う三十六歳の女をその気にさせて、野木は一体どうしようというのだろうか。






 帰宅してしばらくすると自宅の電話が鳴った。野木からだった。

「さっきはすいませんね。それでさっきは忙しくて言い忘れてたんだけど」

 本当だろうかとあたしは疑った。なぜならあたしは、午後の二時過ぎに薬局へ行ったからだ。その日は木曜日だった。木曜日は精神科の診察開始が午後の二時だ。初診患者は最低三十分診察にかかるから、二時半を回るまで患者は薬局に現れない。それなのに何が忙しかったのだろうか。

 あたしが黙っていると野木は

「ビオチンて常時うちの店に置いてないんだよね。だから今後も、沼田さんが飲み続けるんならまた発注かけるから、飲んでみてしばらくしたら、効いたかどうかオレ宛に電話くれないかな」

 と切り出した。そんなの面倒臭い。

「とりあえず次は頼むつもりですから、次の分は発注かけといてもらえますか」

「あ、そう? じゃあそうします。悪いねー」

 電話は切れた。

 どうやら野木はあたしと話がしたいのだなと思った。ビオチンを今後も、処方してもらうつもりかどうかなどということは、何も野木を呼び出さなくても、電話に出た事務員に言えばいいことだ。それをわざわざ「オレ宛に」と言うのだから、そう考えることは自惚れではないだろう。

 あたしにおべっかを使うのも、気に入ってもらいたいからだろう。それは恋愛にうつつを抜かすさそり座だからか。だから恋愛話をしてくれるあたしに媚びたのか。

 悪い気はしなかった。八歳も年下の男に、恋愛話をするに足る相手と見なされ嬉しかった。年若い相手に恋愛にまつわるあれこれを聞かせておばさん節を垂れ流すのは楽しい。

 年下の男友達ができたような気分になった。精神科の帰り道に、あたしはそわそわするようになった。入戸野ドラッグはすぐ隣なのにわざわざ化粧を直して出向いた。そして待合室では、難しい顔をして新聞を一面から読んだ。新聞はテレビ欄から読むのがあたしの流儀なのだが、見栄を張って一面から読んだ。野木が以前ある政治家を糾弾していたからだ。

 綺麗だと思われるだけでは足りなかった。年上の女として尊敬されたかった。

 その日野木はまたしても、ビオチンが入荷していないと言い出した。困ったなとあたしは考えた。また郵送を頼んでもまたしても送ってもらえない気がする。野木はいいかげんだからだ。ビオチンがアトピーに効き始めていたためブランクを空けたくなかった。

すると野木は

「あと三十分待っててもらえば届くと思うけど。どうせそれくらいしゃべってくでしょ」

 と笑った。

 不愉快だった。

 確かにその頃あたしは、入戸野ドラッグで野木に会う度、無駄口をきいていた。木曜日は三十分に一人しか患者が来ないため野木も暇だからだ。だからあたしは、入戸野ドラッグで野木の様々なプライベートを知った。野木も占いが好きで、部屋にパワーストーンが置いてあること。野木の占い好きは父親の影響であること。父親は占い師をしていること。母は妾であること。そのせいで母に包丁を投げられたこともあること。

 聞いてもいないのに、なぜそんなことをあたしに話すのだろうと思った。おそらく野木は寂しいのだろうと思い当たった。カノジョはいるかも知れないが、没頭してはいけないとセーブしなければならない相手だ。だから野木は、車と釣りという趣味を持って恋愛に比重をかけないようにしているらしい。

 薬局の駐車場の最も便利な場所に横付けされた野木の車は、いわゆるヤン車だったし、キャッチアンドリリースという釣りのやり方は、あたし好みではなかったが、工夫する野木をいじらしく感じた。そんな野木が弱みを見せたからといってどうして非難できよう。それなのに野木は気安く言った。

「どうせそれくらいしゃべってくでしょ」

 甘えているのだと可愛く感じてやれるほど、あたしは人間ができていなかった。忌々しかった。

 帰宅してあたしは小説を書きなぐった。いつもなら、むしゃくしゃした時は小説を書きまくれば収まるのにその日は収まらなかった。仕方なくあたしは、占い特集の載った雑誌に手を伸ばした。活を入れてもらうためだ。今年は十二年に一度のラッキー年だ、無駄にするなとそこには書かれていた。本当に今年が十二年に一度のラッキー年なら、何とかして結果を出したいと思う。そのためにはわき目もふらず小説を書きたいと思う。

 それなのにどうしてあたしは、野木のことがこんなに気になるのだ。

 その時待てよと思った。十二年に一度のラッキー年だからといって、なぜ小説のことだけを考えなければならないのだろうという気がした。今年はラッキー年だから、様々なことにチャレンジしろと、雑誌にも書いてあるではないか。とはいえ何をやったものだろうか。

 あたしは頭を捻った。そして競馬だと結論を出した。幸運期に行う運試しは宝くじが一般的だが、何度か買ったことがあったので面白くなかった。せっかくラッキー年なのだから初めてのギャンブルにチャレンジしてみたかった。それに聞くところによると競馬は、上手に賭ければ、少ない元手で一日遊べるそうじゃないか。

 もう一つあたしには、競馬に惹かれる理由があった。自分がこだわる西洋占星術の信憑性を試してみたかったのだ。そこであたしは夫と共に競馬新聞を買いに行くと、二人がかりで出走予定の騎手と馬の星座を調べた。運勢のいい騎手と馬に賭けるためだ。

 結婚前は競馬をたしなんでいたという夫は、あたしの提案に乗り気になって、協力してくれた。彼は西洋占星術には興味は無かったがギャンブラーのはしくれだ。新たな法則を探し出すことが面白かったらしい。

 あたしは競馬に詳しくないので、今回初めて知ったのだが、馬というものは冬の終わりから夏の初めまでに生まれるケースが多いようだ。つまり春生まれである魚座の馬が、たくさんいた。今年は魚座がラッキー年だから、魚座の馬がそんなにいては賭けなければならない対象が多くて大変だ。これは騎手の星座でふるいにかける必要があると考えた。ところが何としたことか。騎手も魚座の者が非常に多かった。

 八枠中三人から四人が魚座というケースがざらなので、あたしは大変驚いた。十二星座あるのだから常識的に考えれば、魚座は一人か二人しかいてはいけないはずなのに、うじゃうじゃいるのだ。

「ねえ、これってどういうことかなあ」

 とあたしは夫に尋ねた。

「今年は魚座のラッキー年だから、魚座の騎手が、レースに出るチャンスに恵まれたってこと?」

「いや。騎手には魚座が多いってことでしょ」

 夫も感に堪えたような表情をした。こういうことがあると、やはり西洋占星術には信憑性があるような気がする。もし星座が個人の特性に何の影響も与えないのなら、騎手の星座は、まんべんなく様々であったはずなのだ。あたしでも名前を知っている有名な武豊騎手も魚座だった。

 しかしせっかく調べたのに、魚座の馬と魚座の騎手ばかりだったので困ってしまった。とはいえ魚座ではない馬と騎手もいるのだから、それらを除外して賭けまくるしかない。

 あたしの編み出した方法が、正しいか否かを検討するために、当日は夫と財布を別にして勝負に挑んだ。夫は競馬新聞に載ったオッズを参考に、あたしは星座を参考に賭けるのだ。当日あたしは馬券場をかけずり回っていた。何も全レースで勝負しなくてもいいのだが、せっかく全レースの馬と騎手の星座を調べたので、生かさなければもったいなく感じたのだ。

 互いに三千円の元金を持って始めた勝負。最終レースが終わった時、あたしの持ち金は一万一千円に膨れ上がっていたが夫は二千円負けていた。西洋占星術恐るべし。あたしは感じ入った。しかしそれだけの現金を手にしてみると、西洋占星術の信憑性などどうでもよくなっていた。そんなことよりも競馬で勝ったという事実の方が重要だった。給料が先月より八千円多く振り込まれるよりも、ギャンブルで八千円買った方が心躍る。

 誰かに自慢したくなった。でも夫相手に自慢するのははばかられた。負けて機嫌が悪かったからだ。あたしは夫をなだめながら野木のことを考えた。競馬での勝利を自慢するにあたって野木はうってつけだった。若い男だしチャラ男だから競馬に詳しいはずだ。こういったことは詳しい相手でなければ自慢のし甲斐が無い。しかし自慢というものは、スマートにしなければならない。何か方法は無いだろうか。

 方法を思いついたあたしは次に入戸野ドラッグに行った際に、野木に

「これ、プレゼント」

 と封筒を差し出した。

「えっ、何?」

 と野木は嬉しそうな顔をした。

「交通安全のお守り」

「え、すごいすごい。開けていい?」

 中からは外れ馬券が出てきた。何たら言う負けてばかりの馬の外れ馬券が、交通安全のお守りになったという話を思い出し、応用したのだ。絶対当たらないからという理由らしいが、別にその馬でなくても外れ馬券ならいいのではないかと思ったのだ。

「ああ、競馬行ったんだ」

 と野木は笑顔になった。それは実に惜しい外れ馬券なのだと説明すると、野木ものってきた。思った通り野木は競馬に詳しかった。

 ビギナーズラックで八千円勝ったのだと告げると、はまったら駄目だよと、たしなめられた。心配されたことが嬉しかった。

 でもあたしは、本当は競馬で勝ったことを自慢したかった訳ではなかった。本当はその場で封筒を開けて欲しくなかったのだ。何が入っているのだろうと、ひょっとしたら連絡先が入っているのではないだろうかと、期待させたかったのだ。






 この頃あたしは野木を好きだったといえるのだろうか。

 やきもきさせたいとは思っていた。でもそれは仕返しでもあった。お茶でも飲みに行こうと言われたから、綺麗だと言われたから、策を練ってあたしと会おうとしたから、あたしはやきもきしてしまった。だから向こうもやきもきさせてやりたかった。

 好意も持たせてやりたいと思っていた。レッスンをしたかったのだ。それは十二年に一度のラッキー年だったからだ。何かにチャレンジしてみたかった。そしたら野木に出会った。星座の相性のいい野木。占い好きで恋愛話好きという嗜好の合う野木。好かれる条件があったから働きかけて好意を持たせてみたかった。条件のいい相手を攻略して、スキルを高めてみたかった。人たらしになりたかったからだ。

 人たらし。目指すのは間違いだろうか。でもあたしはなりたかった。そもそものうつ病発生の理由の一つが両親にあったからだ。愛してもらえなかったのだ。努力を重ねたのにお前をつくって本当に損したと言われ、うつになった。絶望し愛を諦め努力を放棄したのに再発を繰り返した。

いやあたしは本当は、治っていなかったのだ。あたしに双極性障害2型の診断が下されたのは最近だ。それまであたしはそう状態になる度にうつ病が治ったと安堵していた。でも違ったのだ。あたしはただ単にうつ状態とそう状態を繰り返しているだけだった。二十一歳の時にうつ病と診断されて以来、あたしはずっと心を病んでいた。

 いいえ、違う。小学五年生の時にストレス性の頭痛持ちになったのだからその頃からあたしの精神は悲鳴を上げていた。毎日親の顔色を伺う生活が、あたしに割れんばかりの頭痛をもたらしたのだ。

 そんなあたしを夫が愛してくれたけれど足りなかった。二十一歳の頃は、カレシさえできればうつ病は治ると信じていたのに、相手との仲が安泰なら治ると信じていたのに、治らなかった。世の中には、親と配偶者に愛されている人が大勢いるからだとあたしは気付いた。世の中の大抵の人は自分のように幾つもハードな悩みを抱えていないからだとも。

 だからあたしは、せめて人たらしになりたかった。人の好意を得ることによって折り合いをつけたかった。でも誓って言うがあたしは野木と男女の仲になる気は無かった。男女の仲になれるとも、思っていなかった。野木には付き合い始めたばかりのカノジョがいたからだ。長い付き合いの相手がいる男より、付き合い始めのカノジョがいる男の方が貞操堅固だ。だからあたしは安心して野木を揺さぶった。

 そう。危なかったのはあたしの方だ。夫とは長い付き合いだった。結婚して八年の歳月が流れていた。

 そんなチャレンジを試みていたくらいだから、その時あたしは、そう状態だったのかも知れない。うつ状態も恋をし易いが自分から仕掛けるような積極性に欠ける。交通安全のお守り。あれは積極的行動になるのだろうか。

 あたしは双極性障害ではあるが、1型ではなく2型なので、そう状態になっても、暴力を振るったり浪費をしたりといった、問題行動を起こさない。そのためそう状態に移行しても分かりにくい。精神的には安定し意欲も出るが、せいぜい家事や執筆を頑張る程度なのでただの小康状態と見分けがつかない。そして不眠は変わりなくあった。

 本当はいけないことなのだが、眠れない夜にあたしはよく飲酒をした。大量の睡眠薬を飲んだ上の飲酒なので医者には禁じられていたのだが、あたしは飲んでいた。血管が切れて死んでしまう場合があると脅されていたが、構わなかったからだ。うつ状態でもそう状態でもあたしは死ぬのが怖くなかった。

 幸か不幸かあたしは死ななかったが、睡眠薬を飲んで飲酒をすると、性欲が湧くので困った。夫は眠っていたからだ。困るなら飲まねばいいのにやはりあたしは飲んだ。困りながらもその欲望が気持ちよかったのだ。

 今の精神科に通い始めたばかりの頃、三十四歳の頃、あたしは性欲を失っていた。うつ病が重くなると、自殺年慮以外の欲求が消えるからだ。夫は淡白だから困りはしなかったが欲望の無い人生は虚しい。だから欲望が消えたことなど気付かない振りをして、時折夫と交わった。何ヶ月もの間あたしはオーガズムを味わえなかった。辛い気持ちを紛らわすには一瞬でもイケた方がいいのに、あの不思議な感覚はあたしの前から消えた。

 何をしても楽しくなかった。セックスをしても感じなかった。

 精神科に通い始めて四ヶ月、もしかして、うつがよくなってきたのかも知れないと感じたのは床の中だった。久しぶりに達することができたのだ。恥ずかしいから医者には言わなかったがそれがあたしの目安だった。

 達することができるようになると、夜の営みにも虚しさを覚えなくなった。別にあたしは毎回達しなくても構わないのだが、イケるかも知れないと思って裸にされるのと、イケっこないと思いながら脱がされるのでは、まるで気分が違う。

 だからあたしは、自分が純粋に情欲を抱けたことが心地よかったのだ。あたしはもしかしたら、欲望を感じるために飲酒していたのかも知れない。

 しかしその先が問題だった。睡眠薬と酒で自制心が無くなっていたあたしは、寝ている夫を起こして挑むようになったのだ。律儀な夫はそれに応えふらふらになってしまった。

 そこであたしは

「何やってんの、断りなよ」

 と薬と酒を飲む自分を棚に上げて注意した。薬と酒を飲んだ自分が、言うことを聞くと思い込んでいたのだ。

 気がつくと、夫の態度が冷たくなっていた。睡眠薬と酒をダブルで飲むと記憶が飛んでしまうのだがよっぽど酷いことをしてしまったのだろうか。覚悟を決めて問いただすと、夫が

「調剤薬局、替えて」

 と言い出した。

「どうして」

「この間の晩、起こされて『しよう』って言われたから、なだめて寝かしつけようとしたら晴海(はるみ)酷いこと言ったんだよ」

「何て言ったの」

 うなだれ説明する夫の言葉を聞いてあたしは絶句した。何とあたしは

「だったら、野木さんとヤッてやる」

 と言ったそうだ。それだけではない。

「実の母親に包丁を投げつけられたような男おとすのなんか、簡単なんだよ」

 と大見得をきったそうなのだ。






 そういえば

「八月は、浮気がばれるので注意」

 と占いに書いてあったなあと、あたしは思い当たった。浮気などする気は無かったので読み流していたのだが、こういうことが起こると当たったと言えなくもない気がする。

 ともあれ夫を傷つけてしまいあたしは申し訳なく思った。そこであたしは謝罪した。今後、連絡先を交換することはあるかも知れない。二人で出かけることもあるかも知れない。しかし体の関係になることは絶対にないと説明した。今考えてみると、そんな謝罪があるだろうかという気がするがあたしは許された。おそらく夫は、仮定で怒りたくなかったのだろう。

 その時あたしと野木との間には何も起こっていなかった。だから結局、薬局も替えなくていいと言われた。するとあたしは夫のことが頭から抜け落ちた。代わりに野木のことを考えた。

 自分が野木と寝るなどと口走ったことが驚愕だった。あたしは断じて、そのようなことをするつもりはなかったからだ。だからこそ、自分がなぜそのようなことを口にしたのか不思議だった。夫に断られ悔しかったのだろうか。だからはすっぱになってみたのか。母親に包丁を投げつけられた男をおとすのは、簡単とまで言って?

 そのような発想が出てくるとは、あたしは野木を見くびっていたのだろうか。

 包丁。嫌な記憶を揺さぶる凶器だ。うちの場合は母親ではなく父親だった。弟が三歳の頃、父親が弟のペニスの根元に包丁を突きつけたのだ。あたしは五歳だったから理由は知らされなかった。おそらく弟がいたずらでもしたのだろう。弟は男の子の割にはおとなしい性格だったから、たいしたいたずらをした訳ではないだろうが、凶器や暴力を振るうのに理由を必要としない父親だったのだから、仕方が無い。

 いや理由はある。父親は子供たちを愛していなかったのだ。そういえば妹も、二十歳の頃に父に包丁を持って追い回されたことがあった。その結果あたしは双極性障害2型、妹は統合失調症だ。もっとも弟はぴんぴんしているが、両親を軽蔑し彼らを「お父さん、お母さん」と呼ばず名前で呼ぶ。どうやら父母だと認めたくないらしい。

 包丁を振るう父親の姿を、二度までも目撃したから、あたしは肉親に包丁を持ち出された子供の気持ちが分かる。だから野木に同情しているつもりだった。けれど本当は違ったのだろうか。あたしは野木を馬鹿にしていたのだろうか。肉親に傷つけられた人間になら取り入ることができると。

 めまいがした。どんなに愛しても愛を返してくれないとのたうち回って苦しみ、三十六にもなって欠乏感から病を治せず、そのせいで仕事もできず子も生めず、ずたぼろの人生を歩んでいながら、同じ苦しみを持つ人間を見下していたのかとはっとした。

 好意だと思っていたものが、侮蔑という忌むべき感情だったなんて。

自己嫌悪などという甘い言葉では、説明のつかないほど禍々しい感情に襲われた。どうしたらいいのだろうと思った。打ち明けて謝る訳にもいかない。どうしたらいいのだろうか。

 ある日入戸野ドラッグに行くと、野木が

「沼田さん、折り入って相談があるんだけど」

 と言い出した。

「何?」

 とあたしはつい弾んだ声を出した。相談に乗ることで、罪悪感から救われるかも知れないと期待した。

「ここでは人の耳があるから、外で」

 あたしは薬局の外に連れ出された。薄闇が支配し始めた初秋の宵、野木がタバコに火を点ける。空気を汚すタバコが赤い炎にあぶられて美しい。やめられないと騒ぐからどれだけ重いタバコを吸っているのかと思ったが、野木のタバコは1ミリだ。そんな軽いタバコならやめてはどうかと思うのだが、野木にとっては必需品らしい。

 紫煙を吐きながら野木は、カノジョの話を始めた。向こうの親に交際を反対されているのだがどうしたらいいかと言う。

「反対されてるって、何で?」

「『あんなやせてる人』って言われて」

「会ったことあるの?」

 確かに野木はやせているが、親が交際を反対するほど細いだろうかと考えていると、実はカノジョの母親が入戸野ドラッグに勤めているのだと、野木は言い出した。母親に用があってやって来たカノジョを野木が見初め、交際が始まったらしい。

「カノジョのお母さんと職場が一緒じゃ、やり辛いね」

「オレがデパス飲んでることも、知ってるしね」

 野木は精神安定剤の名前を出した。そうだったのかとあたしは思った。妾の子として生まれ母親に包丁を投げられて育った野木は、長じてデパスを飲むような男になったのか。

「オレがこうして仕事ができるのも、デパスのおかげなのね」

 なるほどと思った。カノジョの母親は、デパスを常用している男と娘が交際していることに反対なのだろう。

 しかし奇妙な気分になった。デパスはあたしもたまに処方されるが、目的は肩こりの治療だ。だから肩こりが治れば処方が中止される。あたしは他に精神安定剤や抗うつ剤を色々飲んでいるからだ。あたしにとってはたかが肩こり薬で、飲んでも飲まなくても精神的には変わらない薬一錠に頼っている野木が、奇妙に思えた。しかも医者に処方してもらわずに自費で買っているという。

 ということはたいして重症ではない気がした。だとしたら、飲むのもやめてはどうかと思った。軽いタバコと同様にデパスも飲むのをやめてはどうかと思った。ただでさえデパスは依存性があるため、あまりお勧めの薬ではないのだ。

 しかし恋人の親に交際を反対されているのに、飲むのをやめられない野木が、あたしに言われたからといってやめる訳がない。そこであたしは

「別に、これからも付き合い続けてれば?」

 と提案した。

「反対されてたって、付き合い続けることは可能でしょ」

「まあ、そりゃあ」

「あのね、あたしが見てきた限りでは大抵の女親は長く付き合えば折れるよ」

 あたしは正直にアドバイスした。実際にあたしの女友達も、親に結婚を反対されていたが二人の熱意にほだされて親が許したという経緯があったからだ。もっともその後、女友達は離婚してしまったが。

 野木の顔がぱっと輝いた。あたしは嬉しくなった。あたしの心の中はとても邪悪だけど親切にして人が喜ぶ様を見るのは、素直に嬉しかった。

「ずっと付き合ってれば、向こうの親折れるかなあ」

「カノジョ二十八歳なんでしょ。変に反対していき遅れちゃ困るって、向こうの親も思ってるよ。時間かければ大丈夫だよ」

「そっか。早く結婚したいなあ」

 ふと羨ましくなった。精神安定剤を飲んでいるといってもせいぜいデパス一錠だけで、相思相愛の恋人もおり、まだ若く薬剤師という仕事を持つ野木を羨ましく思った。そこであたしは

「あたしは、早く仕事したいなあ」

 とつぶやいた。

 今時、結婚していなくてもたいしたことではないが、仕事をしていなければ罪悪感に襲われるからだ。

「働きたいの?」

「あたしだって、オマンマを食べなきゃいけないんですよ」

 双極性障害のため働けないあたしは、夫に養ってもらっていたが生活は厳しかった。夫は高給取りではなかったし、あたしの医療費がかかっていたからだ。

 それもあって、あたしは作家を目指していた。睡眠障害があるから毎日外へ勤めに出るのは困難だが、作家なら〆切さえ守ればいいからだ。もちろん打ち合わせや取材などというものにも行かなければならないだろうが、毎日ではないのなら何とかなると思われた。うつ病とはそういうものだ。ある一日だけ頑張ることは可能なケースが多い。

 あたしの思惑を知らない野木は

「そうだなあ。沼田さんは何か華やかな仕事が合うんじゃないかなあ」

 と言った。褒め言葉だろう。嬉しくは思ったがあたしがやりたい仕事はそれではない。地味でもいいから作家になりたいのだ。

「あ、あたしやりたい仕事はあるんだ。それ今言ってもいいんだけど、新月の日に言った方がかない易いから」

 以前読んだ誕生日占いのことを考えながら、あたしは答えた。そこには「新月に夢を語ると協力者が現れる」と書いてあったのだ。

「あ、ホント。じゃあ連絡先教えるよ」

 野木がケイタイを差し出したので赤外線通信で連絡先を交換した。もし新月の日に、野木に夢を語り、そして本当に協力者が現れたらどんなに素敵だろうと考えていたら、野木と手と手が触れ合った。ときめいた。

 理由は分からなかった。夢をかなえるための協力者が現れる可能性に心踊ったのか、それとも野木と肌が触れ合ったことに、甘く切ない気分になったのか。

 





 野木と連絡先を交換したと告げると、夫は黙っていた。連絡先を交換することはあるかも知れないと告げてあったのに、何が不満なのだろうと思った。

 いや分かっている。夫は嫉妬していたのだ。ただあたしはその事実を受け止めたくなかった。あたしは作家になりたかったからだ。

 作家になりたいという自分の願いを、あたしは恥ずかしく感じていた。まるで自分には文才がありますと言っているようなものだからだ。でもあたしは、自分には小説家としての文才が無いことを分かっていた。小説家は案外作文が苦手だという話を耳にするが、あたしは逆だった。幼い頃から作文を褒められ賞をもらったこともあるが、小説という形態のものが書けるようになったのは、三十歳になってからだった。

 幼い頃から、作家になることを熱望していたのに、三十路になるまで小説が書けなかったあたしに、いわゆる作家としての文才があるはずが無い。それでもあたしが作家を目指すのは、文才の足りなさを補って余りある苦労をしたからだ。双極性障害を引き起こした幼い頃からの数々の厄災を、あたしは誇りに思っていた。トラブルがあたしに与えた懊悩はあたしにとっての財産だ。

 だからあたしは、作家になりたいという願いを触れ歩くことはしなかった。あたしが作家を目指す理由を理解してくれそうな人にしか表明しなかった。そして野木は、理解してくれる可能性がある気がした。あたしを相談相手と見なす男は、あたしが人生で得たものを何かに昇華していると考えているはずだからだ。だからあたしは、野木に作家希望の旨を伝えたかった。

 それなのに夫に遠慮していたら伝えられなくなってしまう。新月のまじないも、実行できなくなってしまう。だからあたしは夫の気持ちを無視し、新月の日を待って指折り数えた。

 待ちに待った新月の日。メールを送ると野木からは嬉しい返事が来た。それは素晴らしい夢だから、是非応援したいと言うのだ。ふと協力者は野木でもいいのではないかと思った。あたしにとっての協力者とはあたしの小説を読んで批評してくれる人を指す。

 実は夫は、あたしの小説の批評家ではなかった。小説を読んで欲しいと頼んだら断られたのだ。読書家なのにどういうことかと思ったあたしが、最初の頃、強引に読ませると、吐いてしまった。恋愛小説だったため夫は嫉妬に苦しめられて嘔吐したのだ。書いたことが実体験とは限らないと言ったのだが、あたしが男女のあれこれを、このように想像したのだと知るだけでも苦痛だと言う。

 恋愛小説でなくても、少しでも恋愛の描写がある小説は、読むことはできないと言われた。しかし全く恋愛要素の無い小説というものは難しい。結果的にあたしは夫に小説を読んでもらえなくなった。最も身近な人間が、あたしの作品を読んでくれないので悲しかった。しかし苦しんで吐いてしまうような人間に無理やり読ませる訳にはいかない。

 そこで友人たちに読んでもらっていたのだが、結婚、出世、出産という事情が、次々に彼女たちを見舞った。友人としては祝福すべきことだが、忙しさにかまけ彼女たちも小説を読んでくれなくなっていた。精神科の医者も三作ほど読んでくれたのだが、やはり多忙であるらしく最近はご無沙汰だった。批評の欲しいあたしは新たな読者を求めていた。

 ならば野木でいいではないかと、あたしは思った。村上春樹を好きだと言っていたからだ。読書の習慣があるのなら批評家としての資格は充分だ。恋愛に夢中にならないために趣味に没頭するよう心がけているのだし要は暇だということだ。うってつけではないか。

 作品を読んで欲しいと頼むと野木は二つ返事で了承した。あたしはパソコンを開き、二次審査を落選した小説を呼び出した。三次、四次までいった作品もあったのだが、二次落ちのその作品が、最も野木に受けそうな気がしたからだ。カレシの親友を好きになるという切ないラブストーリーだったが、ユーモアも散りばめてあった。そして背徳感も漂っていた。野木が好みそうな気がした。

 でも本当は違ったのかも知れない。あたしがその作品を選んだ理由は、違ったのかも知れない。

 その作品はほぼ実話だった。惚れた男がいながらその親友と付き合い、けれど男を忘れられなかったみっともない自分の姿が描かれていた。みっともない真実の姿を、あたしは野木に知って欲しかったのかも知れない。

 人を好きになれば普通は見栄を張るものだ。あたしと野木は、出会ってから三ヶ月と経っていなかったのだから、野木を好きだったのなら見栄を張るのが自然だ。だから野木に恋情を抱いていた訳ではないと解釈した方が自然だ。それなのにあたしは、長いこと自分の心を片付けられなかった。それはもしかしたら、野木の思惑によるものだったのかも知れない。






 小説を読んだと野木からメールが来た。あたしはふと野木と外で会いたくなった。小説の感想を直接聞きたくなったのだ。

 どこがよかったか、どこが悪かったか、登場人物一人一人の書き分けはできていたか、誰に感情移入したか、リアリティーを感じたか、読み易かったか、冒頭は入り易かったか、セリフ回しをどう思ったか、言葉の言い回しに気になる所は無かったか、ストーリー展開をどう思ったか、展開は予想がついたか、好きなシーンはどこか、もしこの作品が売られていたら買うか……。

 聞きたいことは山のようにあったから、メールではまどろっこしかった。そこで外で食事でもとメールをした。しかしこの行動にはもう一つの動機があった。野木が二十九歳だったからだ。

 あたしは三十六歳だった。夫はあたしの四歳上だから四十歳だ。夫が四十になった時あたしは思った。自分はこれから四十代未満の男と関わることはないのだと。自分の三十六という年齢を考えると理不尽な気がした。どうしようもないことなのに、理不尽な気がした。

 そうしたらここにきて二十代の男が浮上したのだ。もしここで、二十代の男とプライベートで関わることができたらとあたしは夢想した。食事でも茶でもいい、一度でも関わることができたら、自分の感じた理不尽さに、折り合いをつけることができるのではないかと。それにこれはきっと最後のチャンスなのだ。これを逃したらプライベートで二十代の男と関わることはできないだろう。

 野木の誕生月である十一月は目前だった。早くしなければとあたしは焦った。早くしなければ野木は三十歳になってしまう。三十歳になられてしまったら、野木の価値が下がるのだ。

 女子高生というブランドにこだわる、中年オヤジの気持ちが分かる気がした。オヤジにとって価値があるのは女子高生ではない。「女子高生と関わっているオレ」なのだ。あたしも最後のチャンスを味わいたかった。「二十代の男の子と関わっているあたし」を感じたかった。

 野木からは了解のメールが届いたが、問題は夫だった。二人で食事に行くと報告したら反対されたのだ。黙って行けばよかったのかも知れないが良心が許さなかった。やることは同じなのにあたしは、夫に認めさせることによって罪悪感から逃れようとした。

 結局、もう約束してしまったのだから、人として約束を破る訳にはいかないという理由であたしは夫を振り切った。一体何がそこまであたしを強靭にさせたのだろう。小説の感想を聞きたいなどと言っていたが、野木とは電話で話す仲だったのだ。だったらそれで充分ではないか。二十代の男とメシを食うことに一体どこまでの価値があったのだろう。

 若い頃に恋愛をしすぎたせいだろうかと、ふと思う。夫一筋になって八年も経っていたのに、あたしは男出入りの激しかったあの頃の高揚感を忘れられなかったのだろうか。

 夫を悲しませてまで約束したランチの日。予定は流れた。野木が県外の実家に帰っていたからだ。実家から待ち合わせ場所に向かったのだが雨で遅れそうだとメールが入った。野木は午後から仕事の予定だった。

はっきり断らない野木に腹を立て

「じゃあ無しにしましょう」

 とメールした後、あたしは夫に

「キャンセルされたから、行かない」

 とメールした。

 てっきり喜ぶかと思ったら、野木がキャンセルしたことに夫は怒りを燃やした。夫のこういうところがあたしは好きだ。それなのになぜあたしは、二度目の約束をしてしまったのだろうか。その時、野木はもう三十歳になっていたのに。

「この間キャンセルしたお詫びだって言うから、断れなくて」

と、夫を言いくるめた。それなのにまたキャンセルされた。

「またキャンセルされたよ」

 と夫に告げると

「二度もキャンセルされて可哀想」

 と夫が泣いた。

 何てお人よしなんだろうと思った。同時に、こんなにも人柄のいい夫に愛されているのに何が不満なのだろうと思った。あたしは一体何を求めているのだろうと。

 もしかしたらあたしは野木を好きなのだろうか。

 どうやらその答えはイエスのようだとあたしは察し始めていた。別に夫と別れて、野木と付き合いたかった訳ではない。また夫と野木を二股にかけたかった訳でもない。いやもしあたしがフリーだったとしても、野木とは付き合いたくなかった。野木は患者によく告白されると自慢していたからだ。

「精神科に通う患者さんは不安定だから、優しくしてくれる人を、好きになっちゃうのかもね」

 とあたしが言うと野木は「いや」と言った。

「精神科の患者さんは通う期間が長いからでしょ。内科とかだったら、ずっと風邪ひいてる人っていないじゃん?」

 嫌な男だと思った。相手が情緒不安定だから恋をしがちだと認めず、長く通っているからだと言うなんて。長く通ったことによって、相手が自分のよさに気付くのだと言っているようなものではないか。そんな不遜な男と交際なんて真っ平だった。友達になるのすらぞっとした。それでもあたしは自分が恋をしていると気付いていた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろうと、あたしは頭を抱えた。あたしは野木に出会うまで、恋をしたいなどとはみじんも思っていなかったからだ。親に愛されたいとか病気を治したいとか、作家になりたいなどの願いは持っていたが、恋をしたいなどとは思いもしなかったのだ。

 しかしそれこそが、自分が恋に落ちた理由だった。あたしが持っていた願いは難しすぎたのだ。親に愛されること。双極性障害を治すこと。作家になること。どれも尋常ではなく難しい願望だった。それくらいなら、八歳年下のモテそうなカノジョ持ちの男と恋愛する方が容易かったのだ。

 かなわない願いを持ち続けることに、あたしは疲れていた。だから少しでもかないそうな願いを持とうとした。夫の存在など問題ではなかった。夫を悲しませたくはなかったが問題ではなかった。相手があたしの好みではないことなど問題ではなかった。

 渇望があたしに不自然な感情を与えた。まるでそれは、タバコやドラッグをやめられない人間の言い訳のようだった。まるで純粋さの無い恋心だった。あたしは確かに野木に焦がれたが別に野木でなくてもよかったのだ。

 野木でなくてもよかったが、目の前にいたのは野木だった。最初に粉をかけてきたのも野木だった。だからあたしは野木と関わりたかった。こちらに何のアクションも起こさない男にチャレンジしては願望がかないにくいからだ。だからあたしは、野木にメールで尋ねた。どうしてキャンセルするのかと。

 カノジョに言ったら、「行かないで」と言われ喧嘩になったからだと返事が来た。どうしてカノジョに言ったのかと尋ねると、罪悪感があったからだと返事が来た。罪悪感を持つということは、野木もやましい気持ちを抱いているのだろうと知った。野木を見くびりながら不思議に思った。八歳も年上の既婚者と会うことにやましさを覚えるなんて。

そのやましさに賭けてみたくなった。夫が寝入ったのを待って野木に電話をかけた。電話に出た野木にあたしは言った。

「後で断るくらいなら、最初から約束して欲しくなかったよ」

 すると野木は

「仕方ないじゃん。まあカノジョに黙って行くしかないよね」

 と言い放った。電話をかけた途端、前言をひるがえした野木に拍子抜けした。野木が何を考えているのか分からなかった。いや違う。本当は分かっていた。野木はあたしの心を揺らしたかったのだ。

 野木があたしを好きだったと言いたい訳ではない。野木は、女に惚れられるのが好きだったのだ。女患者たちの心をつかみそれを得意げにあたしに報告していた野木は、ある一人の女患者のことも、度々「相談」という名目であたしに報告していた。

「職場にしょっちゅう電話してくるから、『仕事の後ケイタイにして』って言ったら、延々朝の五時まで相手させられてさ勘弁して欲しいよ。こっちは朝から仕事だっての」

 仕事だからと言って切ればいいのにと思いながら、あたしが

「朝の五時までその人は、何の話してくるの」

 と尋ねると野木は

「付き合ってくれって。『オレ、ハニーいるからごめんね』って言うと、『わたしのこと好きになってくれる可能性は絶対に無いの?』とか言って。でも『絶対』なんて、そんなこと分からないじゃん?」

 と得意げに話した。

 あたしは呆れた。ハニーに惚れているのなら

「君を好きになる可能性は、絶対に無い」

 と言えば済む話だからだ。大体、電話などいかようにしても切れるのに、朝の五時まで口説き文句を聞いているということは、口説かれるのが好きなのだ。

 相手は精神科に通うほど、情緒不安定な患者なのだから、自分に惚れないようにしてやればいいのに、野木は口説かれたいばかりに患者の心を操っているのだ。だから野木があたしにキャンセルを申し出たのも

「キャンセルなんてしないで」

 とあたしに言わせるためだったのだろう。

 そうでなければ、なぜハニーにまで言う必要があっただろう。ハニーに引き止められたのにも関わらず、なぜあたしとの約束を実行する必要があっただろう。

 そこまで分かっていたのに、あたしは野木との約束を実行しようとした。引っ込みがつかなかったからだ。それにあたしは自分の感情を持て余していた。夫以外の男に気持ちを持っていかれたのは、結婚して初めてだったからだ。

 それまであたしは、夫がいながらよその男に心を移す女を軽蔑していた。夫との仲がまずくなければ、そのようなことは起こらないと信じていた。ところが病を得たあたしに夫は優しかったのに、あたしはよその男に惹かれたのだ。何らかの決着を自分の心に与えたかった。キスとかセックスとかそういう肌の触れ合いでなくても構わなかった。そこまでしてしまったら、罪の意識でつぶれてしまいそうだったから。

 あたしはただ野木と一度だけ出かけたかった。そして心に踏ん切りをつけたかった。

 出かけて行った平日のランチ。待ち合わせのカフェに、少し早く着いてしまったあたしは、時間をつぶすため併設された公園を歩いた。すると向こうから小型犬を連れた夫婦が歩いて来た。すれちがいざまに犬が突然あたしに噛み付いた。

 たいした怪我ではなかった。ほんの少し膝から血が出ただけだった。だから、すみませんすみませんと逃げるように去って行く夫婦をぼんやりと見送った。飼い犬だから狂犬病の危険は無いだろうと思った。例えあってもどうでもいい気がした。あたしはただ神様が怒っているのだなと思った。犬に噛まれたのは初めての経験だったから。

 現れた野木を見た。こんなに醜い男だっただろうかと思った。夫を泣かせ神を怒らせてまで逢引した相手にあたしは幻滅した。

 こんなことになるなんてとあたしは天を仰いだ。あたしは今日だけ、華やいだ気分になるつもりだったのだ。そしてそれを思い出に、野木と関わることをやめるつもりだったのだ。それなのに現れた野木があまりにも醜悪であたしはげんなりした。

 だからといって会った途端帰る訳にはいかない。重い気分でカフェに入った。あたしが飲み物にペリエを頼むと、ビンで運ばれて来たそれを野木はグラスに注いでくれた。ああ女に惚れられるのが大好きな男が早速頑張っていると、あたしは失望した。

 それでも、初めて人の耳の無い場所で野木と会話ができる機会だった。あたしは会話の内容に期待することにした。しかし午後の陽の差す洒落たカフェで、野木は患者の悪口ばかりを言っていた。

「オレの態度が気に入らないって、本部にクレームつける患者もいるんだけど、まあでもしょせん精神科の患者じゃん? だから本部も聞き流してくれるんだけどね」

 本当にあたしは、こんな男を好きだったのだろうかとあたしは戦慄した。そんなはずは無いと思った。夫を傷つけてまで惚れた相手なのだ。どこかにいい所があるはずだ。あたしは

「野木さんは、どうして薬剤師になったの」

 と尋ねた。

専門職に就いた男の職業への思いを知りたかった。すると野木は

「金が、いいから」

 と答えた。

 野木があたしを馬鹿にしていることが分かった。正直だ、などとあたしはのん気なことを考えたりしない。金のいい職業など世の中にはいくらでもある。それなのにその中でなぜ薬剤師を選んだのかを野木は答えなかった。

 でもあたしはまだ諦めなかった。包丁を投げた母の件があったからだ。

 恨んでいるかと尋ねたら、野木は否定した。母には感謝すべきこともいっぱいあるそうだ。あたしはがっかりした。母に感謝している男などあたしにはありふれていてくだらなく思えた。そんな人物は小説のネタにならずつまらない。しかも感謝している理由というのが酷かった。野木は遊んでいて大学を二年留年したのだが、文句も言わず金を出してくれたというのだ。

 短大を奨学金で卒業したため、うつ病と戦いながら、奨学金の返済に追われた過去を持つあたしは、はらわたが煮えくり返る思いをした。だとしたら母親に感謝していて当たり前だ。

 おそらく包丁は、野木に対し殺意を持って投げられたのではないのだと悟った。情緒不安定に陥った母親が投げた包丁が、たまたま野木の側に飛んで来ただけなのだろう。妾である上に、息子が遊んで大学を二年も留年したら情緒不安定になって当たり前だ。それを野木は、さも自分がセンセーショナルな体験をしたかのように語ってみせたのだ。こちらの心を揺らすために。

 センセーショナルといえば、占い師をしているという野木の父親に、あたしは興味があった。小説のネタに使える気がしたのだ。どういう経緯で占い師になったのかと尋ねるあたしに野木は父親の経歴を教えてくれた。

 外洋船の船乗り、造船所の船作り、社長のボディーガードを経て野木の父親は顔にシリコンを入れ役者になったそうだ。その後、整骨院の学校に通い十五年に一人の逸材と言われたらしいが、要は役者として振るわなかったのだろう。その後、経営した整骨院で雇っていた人間に金を横領され、自己破産の末、自殺未遂をしたとのことだ。そして最終的に占い師を二十年やっているらしい。

 なかなか面白い経歴だが人伝に聞いてもつまらない。最早、野木自身より野木の父親に興味が湧いたが、だからといって会ってもらえる訳ではない。だとしたらどうでもいいことだった。その息子がくだらないのだからどうでもいいことだった。

 つまらなそうにするあたしに、野木は小説の感想を聞かせてくれた。褒めてくれたがあたしは上の空だった。本当に野木があたしの小説に心捕まれたなら、あたしを馬鹿にするはずが無いのだ。世辞を聞くことに意味は無かった。

 あたしは勝手だっただろうか。恋しながらも散々馬鹿にしていた野木に、見くびられていたからと気持ちを冷ましたあたしは勝手だっただろうか。しかし野木は、あたしに惚れていなかったのだ。ならばせめて人として尊敬されたいではないか。

 野木と別れ帰宅すると、あたしはベッドに倒れ込んだ。カフェでの野木の言動を一つ一つ思い出した。魔法が解けた野木の言動はいちいち癇に障った。たまたま飛んで来た包丁を弱い自分の言い訳にしている野木。父親の自殺未遂を、弱い自分の言い訳にしている野木。だから人の好意を欲しがる野木。女に惚れられ口説かれるのが大好きな野木。そのために情緒不安定な精神科に通う女たちを、利用している野木。

 人たらしを目指した自分と何が違うのかとも思った。同士ではないかと。だがあたしは野木を嫌悪した。それは野木があまりにも弱くいいかげんな男だからだ。

 野木の不幸とは、たかが妾の子に生まれたかが一度母親に包丁を投げられ、たかが父親が自殺未遂をしたというだけだ。大学で遊んで、二年も留年させてもらえた立場なのだから、プラスマイナスゼロではないか。あたしなど親に遠慮して大学進学を諦め短大にしたのに、祖母があたしの短大生活のために用意してくれた金を親に使い込まれたのだ。この学歴社会の日本で、余裕で大学を出ることのできた人間が何をほざくのだ。

 そういえば初めて親しく口をきいた時から野木は、自分の弱さを披露していたと、あたしは思い起こした。その時は内面に関心を持つきっかけになった野木のその特徴が、今のあたしにとっては忌々しいことこの上無かった。

 苦し紛れにあたしは寝返りを打った。犬に噛まれた膝が熱を帯びたように痛んだ。






 2010年の十二月二十四日、それがカフェでの逢引後の初の精神科の受診日だった。木曜日ではなかったからクリニックは混み合っていた。受付で鳴り響く電話に事務員が

「今日は予約でいっぱいですし、初診の方は木曜日の午後にお願いしているんです」

 と対応していた。三年連続、クリスマスイブに精神科を受診するのは虚しい。けれどイブに受診を断られるよりは、マシなのかも知れないと思う。

 医者に対面したあたしは

「実はついこの間まで、入戸野ドラッグの野木さんに惹かれていまして、そんな浅はかな自分に自己嫌悪です」

 と訴えた。初老の感じのいい医者はあたしの告白にうろたえたが、すぐに

「ああそれは、あなたは作家の卵だからです」

 と結論づけた。

 悩める者が、倫理的に間違ったことをしていても決して糾弾せず、相手の心に寄り添わなければならない精神科の医者というのは、本当に大変な仕事だと思う。

 診察を終えるとあたしは入戸野ドラッグを通り過ぎ、別の調剤薬局へ入って行った。また食事をおごらせて欲しいとは言われていたが、野木とはもう、関わるべきではないと思ったからだ。調剤薬局の薬剤師と患者という関係すら終わりにするべきだと思った。ただそれだけの関係だったはずなのに、あたしは野木の思惑に乗ってしまったからだ。

 あたしが行かなくても、入戸野ドラッグには今日も大勢の女患者が訪れる。そして弱い野木の自尊心を支えるための犠牲にされる。てっきり助けてもらえるとばかり思っていた医療関係者に食い物にされる。それは何も最近話題の精神科での医者の誤診に限らない。過失であれ故意であれ、暗闇はどこにでも潜む。

 心を病んでいたって、死ぬ選択をしないなら、サバイバルしなければならないのだとふと思う。心を病んだからって安心して休息なんてしていられない。

 受付に座る事務員に処方箋を手渡しながら、そういえば今日は、クリスマスイブだったなとあたしは思い当たった。疲れた人、重荷を背負っている人はわたしの所に来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげようと言った、あの人の誕生日だ。


 病気を治したいと思って通院しても、通院したことによってあれこれに巻き込まれることもあるという事実を書きました。参考にして頂けたら幸いです。

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