夏の声が聞こえる。
部屋の障子を開けると、すぐさま生温い風が入ってきた。
庭に埋められた木々の隙間から、お天道様がちらちらとこちらを覗き込んでいる。遠くから何かの虫が、導火線が燃えていくような鳴き声を響かせていた。
夏だ。この上ないくらいの夏だ。
この期間に仕事のちょっとした休みを取れた私は、地元へと帰ってきていた。今は実家で、ゆっくりと羽を伸ばしている。
この場所の夏は、都会とは種類の異なる夏だな、と私は入道雲の立ちこめる空を眺めながら思った。
そんなことを感じ取ったせいかもしれない。私は自分の思い出に触れたくなり、押入を漁ってみることにした。
出てきた大きな段ボールを開ける。ほとんどは黴が生えていそうな古いものばかりだったが、その中に一つ、分厚く大きなアルバムがあった。
おお、これは懐かしいな。早速表紙をめくろうとすると、中から一枚の写真がこぼれ落ちてきた。
拾い上げてみる。それは私がまだ小さい頃の写真だった。
元気一杯にはにかんでいる私と、その隣。カメラに向かって控えめに微笑む少女。色白で、少し色素の薄い髪が風にはためいている。彼女は可愛らしいを越えて、美しくすらあった。
写真は私とその子のあの瞬間を、綺麗に切り取っていた。
じわり、と胸の奥に、日だまりのようなものが染み込んでくる。
そして私は、彼女と出会った時間へ、思いを馳せた。
当時、私は一匹狼な子供だった。こう言えば聞こえはいいが、要するに独りぼっちだったのである。
あの時は本当に元気一杯で、更にやんちゃ。更に更に男勝りな性格だった私は暴れん坊として知られ、女の子はおろか男の子にさえも恐れられ遠ざけられていた。
だが実際は噂が一人歩きしただけで、私自身はそこまで暴れん坊ではなかった(と、私は思っている)。
そんなわけで、私はいつも近所にある神社で、せっせと一人遊びに励んでいたわけなのである。
もっぱらその内容というのが、神社の広い敷地を走り回ったり、近くにあった池に石を落としてみてその波紋を眺めてみたり、というものだ。我ながら、暗いのだか明るいのだかわからない女の子である。
しかし、そんな私の前に、その子は現れた。
前触れもなく、突然に。まさしく、夏がやってくるかの如く、彼女は姿を見せたのだ。
今日も一人遊びに精を出そうと神社に向かっていた私は、その声を聞いた。
「こんにちは」
驚いて顔を上げると、石段の上に少女が立っていた。太陽の光を跳ね返しそうなくらい肌が白く、髪も同じくらい色素が薄かった。袖なしのTシャツと花柄の長いプリーツスカート、という出で立ちだ。
なんて綺麗な子なんだろう。まず出た感想はそれだ。視覚も聴覚も嗅覚も、全部彼女に奪われてしまった。
しばらくじっと見惚れた後、はっと我に返って遅くなった「こんにちは」を返した。
「私ね、ずっとあなたのこと見てたんだ」
と彼女は言った。一人でさ、走り回ったりしてたよね。
私は頬に夏の火照りがじわりと入り込むのを感じた。そうではないのに、何故か悪いことを見咎められたような気がする。
「ねえ、一緒に遊ばない?」
手を差し出された。私はきょとんとその小さな手のひらを見つめ、それからおずおずと掴んだ。
「何をして遊ぶの?」
私が聞くと彼女は絶世の美女みたいな笑みを浮かべて、言った。
「自然と、お話するの」
石段を登っていく彼女について行きながら、私は彼女について思考を巡らせていた。
お目にかかったのは初めてだったが、私は彼女のことを知っていた。周りの大人たちが、たまに彼女のことを噂にしているからだ。だけどみんなそれを話すときはひそひそとしていたので、子供ながらに私は悪い噂だと気づいていた。
ただ、彼女がひそひそと話されている理由は、よくわかっていなかった。
「ねえ」
最後の一段を上ったとき、彼女は突然振り向いた。私はちょっとどきっとする。
「な、何?」
「私、風香っていうの」
あなたのお名前は? と恭しく頭を下げられる。今からするとませた子だなぁという感じだが、小さな私はその仕草が異国からやってきたお姫様のものに見えて、別の意味でどきっとした。
「私は……美晴」
「そう。美晴っていうんだ」
素敵な名前だね。くるりと前を向いて彼女は言う。そんなことを言われたのは生まれて初めてだったので、私は背中のあたりがむず痒くなった。
「これでいいかな」
少し歩いて、彼女は神社の中央にある大木の前で立ち止まった。私たちが見上げても、てっぺんを見る前に首が限界になってしまう。それくらい高かった。
「この木と話す」
私は目を見開いた。よくわからない外国語を聞いたような気分だった。
「木と話すの?」
私が言うと彼女はゆっくりと振り向く。何とも優雅な身のこなしである。
「私には言葉がわかるんだ」
得意げな顔の彼女は、木の表面に手のひらを押しつけた。そして目を閉じる。私は重大な発表を待つみたいにどきどきして、後ろでそれを見守っていた。
やがて彼女はぱっちりと目を開けた。ごくり、と唾を呑み込んだのは私だ。
「な、何て言ってたの?」
彼女はにっこりと笑った。
「今日はいい天気ですね、だって」
なんだそりゃ、とその場でひっくり返りそうになった。重大な発表の内容が、今日の晩ご飯の献立だった、という感じだ。えらく拍子抜けだった。
「あなたも話してみる?」
彼女は脇にすっと避けて、さあ、という風に手のひらを上にする。
ちょっとだけ迷った後、私は木の幹に手を乗せた。そして目を閉じる。
風が私の髪を撫でた。声は聞こえない。だけれど風に揺られて木の葉っぱが立てているさらさらとした音は聞こえた。それはまるで、この大木が私に話しかけてきているようだった。
彼女には、と考えた。彼女には、この声が聞こえるのだろうか。それは言葉となって、彼女の元へと届くのかもしれない。
そうだとしたら、それは結構素敵なことだな。木に触れながら、私は笑いがこみ上げてくるのを感じる。
「私のこと、変な目で見なかったの、あなたが初めて」
不意に彼女の声が聞こえた。目を開けると、彼女も並んで木に手を重ねている。
「そうかな」
と私は言った。彼女のどこが変なのか、さっぱりわからない。むしろ、こんなにも可愛い子なのに。
彼女は息を吸ったり吐いたりした後、戸惑いがちに口を開く。
「私ね、お母さんが二人いるの」
二人のお母さんから、生まれたんだ。辿々しく言葉を紡いだ。
「それは珍しいことらしくて、だから大人の人は、私のことあんまり好きじゃないみたい」
上を見上げた彼女に、木漏れ日が降り注ぐ。それでもその顔には、くっきりとした影ができていた。
「それで友達もできなくて。自然と話ができるなんて嘘ついて、みんなに見てもらおうとしたんだけど……ダメで」
ごめんね。あれ、嘘なんだ。大きな瞳に涙を滲ませて、俯く。
私はそんな彼女を見つめた後、大木に視線を移した。大きい。どこまで続いているか、わからないくらい。
「……私だって、結構嫌われてるよ」
ぼそりと呟いた。
男女って言われて、みんなどっか行っちゃうんだ。私が喧嘩で、男子を泣かせちゃったから。
「……私って、ガサツなんだよ」
言っているうちに落ち込んできた。空はこんなにも晴天なのに、私に心には徐々に灰色の雲が犇めきつつある。
「そんなことない!」
と突然彼女は怒鳴った。びっくりして私は彼女を見る。
「あなたはちゃんと、私についてきてくれた!」
信じて、くれた。僅かに赤くなった目で、彼女は私を見つめ返してきた。
私の中の、曇り部分がどこかへぶっ飛んで行った。すかっとするほど、空は青く晴れ渡っている。
大木の葉のこすれる音を聞きながら、私はもう一度木の表面に触ってみた。
「私にも聞こえるよ、自然の声」
それは頬を撫でる風だったり、葉の揺れる音だったり、そして、君から香るその優しさだったり。
「夏は暑いねって、言っているよ」
にやりと笑いかけてやると、彼女は吹き出した。降り注ぐ木漏れ日の中、二人で笑い合う。
「ねえ。鬼ごっこしようか」
私はそう提案してみる。えっ? と彼女はきょとんとした顔になった。すかさずその額にタッチしてやる。
「やーい、風香が鬼ぃ!」
駆け出す私。彼女はふふ、と笑いを漏らして、私を追いかけ始める。
「やったなぁ! 美晴ぅ!」
広い神社の中に、楽しそうな笑い声が響きわたった。
やがて夕暮れがやってきた。二人は石段を下りて、それぞれの別れ道に立つ。赤い光に照らされた二つの影は、どこまでも延びていた。
「まだ一緒に遊びたい」
彼女は小さな子供のように泣きじゃくっていた。そのせいで可愛い顔が台無しだ。
そんな彼女の頭を、ごしごしと撫でてやる。柔らかくて、ふわふわした髪だった。
「また遊ぼうよ」
私は即興の笑顔を浮かべる。実を言うと私ももらい泣きしそうだったが、何とか一歩手前で堪えていた。
「ほんと?」
と彼女は顔を上げる。
「うん。明日も明後日も。また遊ぼう」
みるみるうちに彼女の泣き顔は笑顔になっていった。「うん!」と勢いよく涙を拭った。
そしていきなり顔を近づけてきたかと思うと、彼女の唇が私の唇と重なった。それは流れ星のように、一瞬のことだった。
「また明日ね!」
彼女は駆けだしていく。あとには、呆然とその場に突っ立っている私だけがいた。
唇をなぞる。まだあの暖かくて柔らかいものが、残っているような気がした。
顔を上げるとすでに彼女は、夕焼けの中に溶け込んでしまっている。ただ、ぼんやりとしたシルエットが、赤い光の中に浮かんでいた。
私は夕日に向かって、大きくいつまでも手を振り続けた。
思い出に浸り終えた私は、ぱたんとアルバムを閉じる。開いた障子から冷たい風が入ってきた。
あの写真はいつ撮った時のものなのだろう。それさえも思い出せなかった。気づかないうちに少しずつ、思い出は色褪せていくのだ。
既に過ぎてしまったあの日あの瞬間は、もう返ってはこない。それは少しだけ私をセンチメンタルにする。大切な玩具をいつの間にか失くした子供の気持ちと一緒だった。
でも、と私は思う。あの時の気持ちは今も、色褪せてなんか、いない。
庭から声が聞こえてきた。私の名を呼ぶ声。そこには、相変わらず色白で、色素の薄い髪を風になびかせる女性が立っている。
そしてその傍らには、一人で元気一杯に走り回る小さな女の子がいた。
おてんばで、自然と話ができる、私と彼女にそっくりな子が。
今だって、あの時の夏の声は、聞こえているのだ。止むこともなく、ずっとずっと。
私は声に応えて、笑いながら庭へと向かった。