英雄じゃないアナタ
いよいよ、黒薙との対談だ。
目の前の幕舎を前にして思った。
凪、風、春蘭、秋蘭、張梁──結局連れてきた五人全員が黒薙と対面した。
張梁は私以外の英雄を見てみたい、という興味本意で対談の参加を希望してきた。
徴兵活動の充分な働きを労して張梁のみに参加を許した。
張角と張宝では素性を口にしてしまう恐れがあった。
張角姉妹は死んだことになっているのだ。
それで三人の中で一番頭の回る張梁を連れていくのが最良だと判断した。
彼女がどうして黒薙と会いたくなったのか、分からなくはない。
目的は違うにしろ、私だって何度でも会いたいと思うほどなのだから。
黒薙には人を惹き付ける何かを持っている。
それは孫策の持ってるものとも違うし、劉備の持ってるものとも違う。
私や孫策さえも惹き付ける何か。
「黒薙、私よ」
自分の名前を言わずにいた。
黒薙なら分かるはずだ。
私だってあの男とも女ともとれる中性的な声を聞いたら、黒薙だと分かる自信があった。
幕が開いた。
中に黒薙はいないが、入口脇に退いて幕を引いているのがすぐに分かった。
「ありがとう」
礼を言いつつ、幕舎に入った。
脇にいる黒薙は戦と同じ毅然とした瞳をしている。
黒薙は幕を下ろすと私が席の前立つのを待ってから私の前の席に立った。
「……鎧はどうした?」
ちょっと目を細めて黒薙は言った。
戦の時に着る鎧の類を着ない、息を抜く時の服装で来た。
黒薙は怪訝そうにしてるが、おそらくは批難の目だ。
自身の身を守る鎧を着ないとは、君主らしくないとでも思っているのだろう。
「あら、心配してくれるのかしら?」
「そういう訳じゃ……そういう訳ではない」
崩れた言い方に口をつぐんで言い直した。
私はそれに笑みを浮かべる。
「貴方は暗殺紛(まが)いのことは絶対にしない。それなのに鎧や武器なんて必要あるかしら?」
「だが」
「それにその口調。気に入らないわ」
言い淀む黒薙が開きかけた口をまた閉じた。
「私は英雄、名将と話に来た訳ではないわ。黒薙と話をしに来たのよ。もっと肩の力を抜きなさい。普段の黒薙を私にも見せなさい」
だから鎧も着なかった。
私の普段通りを見せた。
それに気付いたのか、黒薙は羽織っていた上着を脱いだ。
さっぱりした軽い格好になる。
上着の裾は着続けてきたのか、ぼろぼろだ。
それが余計に黒薙の戦の時の超然とした威風を引き立たせた。
「……やっぱり合わないかな? さっきの口調」
苦笑いしながら黒薙は訊いてきた。
「合わないことはないわ。今の口調の方が私は好きよ」
「それはどうも」
軽く流して黒薙は私に着席を勧めた。
私が座ると黒薙も座った。
「何を話したいの? 俺には曹操の腹が読めないよ」
黒薙が背もたれに寄り掛かる。
私以外に英雄としての顔を見せてきたのだろう。
少し顔に疲れが出ていた。
戦の時にそれはなかった。
「ただ話したいだけ。だからと言って他国の情報を流すような話はしないわ」
「じゃあ何を話すの?」
残っていた茶を黒薙が飲み干す。
上品さはなかったが、別段豪快な訳ではなかった。
「そうね。詩の話なんかどうかしら?」
「詩なんて俺、やったことないしあんまり興味ないんだけど」
黒薙がまた苦笑した。
「料理については?」
「美食家の曹操と話せる舌は持ってないよ」
「では、兵法については?」
「それなら多少は話せるよ」
「貴方ほどの兵法家、他に見たことないのだけど?」
笑みを浮かべて黒薙を見た。
「漢中の戦いのあれが優れた兵法家のすること?」
黒薙も頬を緩めてこちらを見ている。
「兵法家云々の前に、貴方は私に志を見せてくれたわ。戦はその後。私は別段愚かな行為とも思わないわ。私だって、おそらくそうしたわ」
「安心したよ。兵法から見れば、あれは愚策だったから」
ホッとした様子で黒薙が茶に手を伸ばした。
世からの目を黒薙は気にしているのだろう。
漢中の時の黒薙の直情的な姿はあまり見たことも聞いたこともない。
名将然としようとしているが故だろう。
「さっき飲んでしまったのではなくて?」
「…………」
私が言い終える前に黒薙もすぐに気付いて所在なさげに手を泳がせた。
結局その手はちょっと頬を掻いて、黒薙はそっぽを向いた。
黒薙の意外に子供っぽい姿に笑みが絶えない。
普段の黒薙はこんなにも人間らしい。
こんなにも柔らかい。
温かいとも言えるかもしれない。
「黒薙、貴方は本当に人を惹き付けるわ。孫策も貴方を見ている。そして私も貴方を見ている」
「…………」
黒薙は手を止めて私を見た。
「こんなにも私を虜にさせた者は関羽くらいよ。私に貴方が欲しい、と思わせる」
「…………」
手を下ろして、私を見つめてきた。
漆黒の瞳──まるで底の見えない湖のように深く、私を惹き付けてくる。
今までしっかりと見なかったし、言えなかった。
「漢中でらしきことは言ったけれど、改めて言うわ。──黒薙明蓮、私のもとに来なさい。もと、というのは下ではないわ。隣よ」
黒薙に私と共に歩んで欲しい。
今少ししか話していないが、黒永や張遼がいなくたっていい。
黒薙が欲しかった。
黒薙だけでよかった。
黒薙は国を左右する力があり、人の心を左右する力もある。
今、私の心が揺らされた。
惹き付けられた。
「──英雄としてじゃなく、名将としてでもない。そんな風に扱ってくれたのは劉備殿と孫策、仲間たち。そして曹操、貴女だ」
透き通るような声が私の耳に入る。
貴女、と言うのを聞いたのも初めてだ。
「俺は英雄の前に、名将の前に、一人の人。俺はそういう人と共に歩みたい。──今も歩んでいる」
「…………」
黒薙の瞳は揺るがない。
「俺は歩みを止めないし、道も変えない。俺は、今の道を選んだ」
目を閉じた。
やっぱり。
そう思った。
黒薙は道を決めたら真っ直ぐだ。
以前はぶれていた。
英雄としての自分に戸惑って、道に迷っていた。
漢中が道標だった。
私と話して、己のが道を見つけた。
「黒薙、私は貴方のその揺るぎない瞳が好きよ。だけど、今はその瞳は揺らいで欲しかった」
「揺らいだら、たぶん曹操は俺を好きにはなれないよ」
目を開いた。
黒薙は笑みを浮かべている。
「揺るぎない瞳の俺が好きなんでしょ?」
どこか自信ありげなその笑みは柔らかく、そしてやっぱり瞳は真っ直ぐだ。
──振られちゃったわね。
私は自嘲の笑みを浮かべて背もたれに初めて寄り掛かった。
「それに、俺も今の曹操が嫌いじゃないから」
そう言うのを聞き流しかけたが、すぐにハッとして黒薙を見た。
黒薙は目を閉じている。
笑みもないように見えたが、どこか笑っているように見えた。
「英雄としてじゃなく、今の曹操がね」
──黒薙に一本取られたわね。私と同じじゃない。
また私は笑みを浮かべた。
今度は自嘲ではなく、ホッとしている。




