魏武の剣
「入るぞ!」
と、挨拶もそこそこ──挨拶してないか──にずかずかと幕舎に入ってきたのは夏候惇だった。
「姉者……。せめて黒薙の返事を待ってから入ってくれ。お客なのだぞ」
その後をつけるように夏候淵が咎めながら入ってきた。
「……魏の二大武将が俺に何の用だ?」
少し呆気にとられたけど、すぐにそう返した。
今は昼を終えた頃だ。
一度氷たちと昼御飯を食べて、それからまた幕舎に戻った。
戻ってすぐ夏候惇がやってきたのだ。
「用があるのは私だけだ」
夏候惇が言った。
戦場で見た鎧姿だ。
剣も持っている。
「一騎打ちならまた今度にしてくれ」
「何故だ!?」
やっぱり、と目を細めた。
夏候淵もやれやれ、と首を振っている。
「姉者、今は会談の場だぞ。戦をしにきた訳ではない」
「漢中の時の決着が着いていない!」
「今度にしてくれ……」
駄々っ子のような言い様に呆れて夏候淵を見た。
夏候淵が申し訳なさそうな顔をした。
「すまない、黒薙。本当は会談するのは姉者だけだったのだが、暴走するだろうと曹操様が私をつけたのだ」
「気にするな、夏候淵。夏候惇を見た時からこういうことだろう、と薄々感づいていた」
苦笑しながら夏候淵に言った。
姉と妹は逆だけど、姉妹に苦労するところは愛紗と鈴々みたいだ。
「今度とはいつだ?」
「次に蜀と魏がぶつかった時だろう。明確には答えられん。戦なんて実戦で何が起こるか分かったものじゃない」
「姉者、黒薙もこう言っている。今日のところは諦めろ」
「むぅ……」
夏候惇が拗ねたような表情をして吹き出しそうになったけど、なんとか耐えた。
「他に用はないのか?」
「私事だが、矢傷は大丈夫か?」
夏候淵が訊いた。
漢中の時のことを言っているのだろう。
「問題ない」
「姉者が本気の黒薙と戦いたい、と言っているからな。傷がずっと気掛かりだった」
「戦では何があっても仕方ない。矢を当てた本人がそんなこと気にするな。俺の精進が足りなかっただけだ」
「そう言ってもらえるとありがたい」
夏候淵が柔らかい表情で礼を言った。
あまり見なかったとはいえ、冷静なイメージしかない夏候淵のそんな表情は新鮮だった。
「まあ、座って。俺だけ座ってるのも悪い」
立ち上がって茶器の置かれた卓の隣に備えられた席を引いた。
「すまない」
夏候惇が意外に素直に礼を言った。
席に座る夏候惇の隣に夏候淵も座る。
「あまり茶を淹れるのは得意ではないが」
氷に教えてもらった程度で美味しく淹れることはできない。
「なら私がやろう」
と、夏候淵が立って俺の隣に来た。
「できるか?」
「秋蘭の料理は美味いのだぞ。茶など朝飯前だ」
自分のことでもないだろうに夏候惇が自慢気に言った。
「なら任せよう」
「うむ。任された」
それに苦笑して、夏候淵も苦笑いして茶器をとった。
「まさか夏候淵に茶を淹れてもらえるとはな」
席に座りつつ言った。
「黒薙と話せるだけでも私は驚いている。戦場で見るより幼く見えたしな」
「お、幼く……?」
初めて言われたよ、それ。
「ああ。その大きな目は幼く見える。可愛くさえある」
「か、可愛くって……」
言い返そうとしたけど、霞や星にも同じこと言われてるのを思い出して言い淀んだ。
「おや。言い返さないのだな」
「……うるさい」
吐き捨てると夏候淵が笑うのが分かった。
「確かに、黒薙は戦とは随分違うな」
「何が?」
「戦の時は超然としているのに、今はどこか柔らかい。ということだろう。私もそう思う」
椀をのせた盆を持って、茶の入った椀を先に俺の前に置く。
「すまない。……柔らかい、か。これでも装っているのだが」
「装っている、というのは今日会って分かったさ。名将という仮面をかぶらなければならないのだろう」
夏候淵が夏候惇の分の茶を渡してから、茶菓子を卓において席に座った。
「まあ、宿命と思っている。責務とも言えるか」
「兵に姿を見せなければならないのだから、仕方ないだろう。姉者も戦場と私事では姿が全然違う」
「? 私はいつも普段通りに過ごしているぞ」
「うむ。姉者はそれでいいのだ」
「よく分からんが、褒めているのか?」
そう返す夏候惇を見てから夏候淵を見れば、夏候淵は満足そうな表情で頷いている。
「褒めているものの何物でもない」
「そうか」
夏候惇も満足気に頷いた。
夏候淵、上手く夏候惇をあしらってるね……。
それに苦笑すると夏候淵も笑った。
「やはり柔らかいな。普段ならそういう表情を見せるのか」
「…………」
「今更顔を引き締めても遅い」
「……蜀のみんなの前にだけだ」
罰が悪そうに俺は頬を掻いてそっぽを向いた。
「戦場ではなく、普段の日常の黒薙と話してみたいな」
「いきなりなんだ? 今話せばよいではないか」
夏候惇が夏候淵の言葉に首を捻った。
「今も名将、英雄の仮面をかぶっている。本当の黒薙は仲間の前にしか見せないのだろう。だから無償にみたくなるものだ」
「──いつか、平和な世が訪れたらな」
茶をとって啜った。
夏候惇の自慢した通り、茶は美味しかった。
俺の普段の姿、か。
……いつか、普段通りに話せる時がくるのだろうか。
たぶん世が平和になって、そして俺が生きていたらの話だ。
生きていたら、というよりこの世界にいられたら、だ。
茶柱が立っているのに気付いたけど、無視して喉を通した。
いつか魏や呉のみんなと普段通りに話せる世が訪れるのか……考えても仕方ないか。
目の前の武将は今も敵なのだから。




