黒龍と白龍
「雛斗の様子はどや?」
霞さまが疲れた顔で訊いた。
「身体の疲労による震えは数日前に治りましたが、肩の矢傷はまだ……。それに熱も続いております」
黒永さまは淡々と答えているが、気持ちが沈んでいるのははっきりわかった。
疲れもある。
毎日朝に行う軍議だ。
漢中の街の中心にある城、太守の座がある部屋だ。
曹操軍が撤退してから十日。
砦に籠る必要がなくなったので砦を出て、漢中の街に向かった。
私たちが黒薙軍だと知って、漢中の民たちは諸手をあげて歓迎してくれた。
雛斗さまの声望は山に囲まれた漢中でも広がっているらしい。
漢中の城の役人は元は五斗米道の教祖の補佐が務めていたが、同じ宗教の太平道の黄巾の乱を見て二の舞を避けて解散した。
城の役人など今はいない。
だから街も荒れた。
当たり前だ。
街を経営する為政者がいないのだ。
雛斗さまの要望もあって街を整えた。
十日しかしていないけど、私と黒永さまとねねさまは政、霞さまと恋さまは警備を担当して体裁は整った。
当初より見違えるようになった。
「しばらくは雛斗も安静にしとかな。無茶し過ぎやからな」
霞さまが肩をすくめた。
曹操軍が撤退したその日、雛斗さまを背負って砦に戻ってきた霞さまは見たことがないくらい焦っていた。
雛斗さまがいきなり倒れたから。
過度の疲労と肩の矢傷、恐らく疲労による熱。
それが雛斗さまの大きな病状だった。
夏候惇と片手で戦っていたらしいから、当たり前と言えた。
なんて無茶なことを……。
「劉備軍からの使者は?」
「まだこっちの使者も到着してないと思うです、亞莎。漢中から成都は遠いですからな~」
私の問いにねねさまも眠そうに言った。
雛斗さまがいない分、自分たちが働こうと必死に働いていた。
雛斗さまが健康ならば軍事と警備は雛斗さま、内政は黒永さまと完璧に機能する。
思いの外、黒永さまは内政や事務をこなした。
そして寝ていないように思えた。
黒永さまは雛斗さまの看病、内政の統括をしている。
朝、昼、晩に一回ずつ雛斗さまの看病に。
それ以外の時間は軍議以外、ずっと執務室で仕事を続けていた。
真夜中に執務室から火の明かりが出ているのはここ十日ずっとだ。
雛斗さまのことでそうしているのは一目瞭然だった。
本隊を率いていた私たちが遅れたせいで雛斗さまの部隊が援護に来て、夏候淵の矢面に晒された。
私も気落ちしたけれど霞さまたちの慰めで立ち直れた。
今は政務で返そう、と働いてはいる。
しかし黒永さまは私の比じゃないほど働いている。
雛斗さまのことしか考えていないように見えた。
「……黒永も、ちゃんと休む」
恋さまが表情の変化の乏しい顔で言った。
でも眠そうなのはわかる。
目が半目だ。
「大丈夫です。私が黒薙様の分まで働かなければなりませんから」
「せやけど働き過ぎやで。雛斗かてそれを望んでいるわけあらへんやろ」
「しかし……」
「雛斗のことをウチは黒永ほどは知らん。せやけど、雛斗はウチらが倒れるほど働くのを望んでないっちゅうことくらいはわかる。黒永が倒れたら内政の統括はどないするんねん」
霞さまの言う通り、今黒永さまに倒れられたら困る。
内政の統括は黒永さまが一任してやっているのだ。
手をつけていたやりかけの仕事を残して倒れたら、私やねねさまでも手をつけられない。
「……申し訳ありません。お言葉に甘えて……休ませてもらいます」
黒永さまが不意に立ち上がり、ふらふらと部屋を出ていった。
「……限界やったんやな」
「雛斗さまのことを一心に考えておられますから。仕方ないでしょう」
一番長く、雛斗さまと共に暮らした黒永さま。
何に変えても雛斗さまを第一に考える。
その雛斗さまが本隊が疲労した兵ばかりで仕方ないとはいえ、私と黒永さまの遅滞で怪我をしてしまったのだ。
身を粉にして働こうというのも無理はなかった。
黒永さまほどではないけど、私も深夜まで働いている。
「張遼様!」
と、霞さまの兵が駆け込んできた。
「なんや! 今は軍議中や!」
「し、しかし……!」
「黒薙殿は!?」
兵の後ろから女性が入ってきた。
「星!? あんた、益州攻略はどないしたん?」
霞さまたちは知っているらしい。
劉備軍の将だろうか。
「益州は獲った! それより黒薙殿は!?」
「さっき星が走ってきた先を一番奥や、て星待ちぃ!」
場所を聞き終えるなり、女性は走っていった。
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バンッ
「黒薙殿!」
俺は黒永の言う通り、素直に寝台で軍略書を読んでおとなしくしていた。
そこにいきなり扉を開くなり、俺の名前を呼んだ。
「せ、星? 益州はどうした?」
駆け込んできたのは星だった。
「そんなことより、その怪我は!?」
かなり焦った様子で星は俺に詰め寄った……って、顔近い近い!
「矢傷だよ。大した怪我じゃない」
肩貫いたから大した怪我だけど。
「そ、そうか……よかった。使者と途中で遭遇して、黒薙殿が怪我をしたと聞いて疾駆してきたのだぞ?」
「そんな大げさな」
「大げさなものか! 黒薙殿がいなくなったら、私は……」
不意にしおらしくなって、寝台の端に座った。
その表情に不覚にもドキッとしてしまった。
星のこんなしおらしい表情はそうそう見れるものじゃない。
「……ゴメン、心配かけて。怪我はホントに大したことないし、あとは熱だけだから」
恐る恐る星の肩に触れた。
嫌がる素振りもなかったから、手を置いた。
「黒薙殿……」
星の頬が赤くなってきた。
俺もちょっと意識してしまい、熱くなってきた。
ただでさえ身体がだるくて熱いのに。
「ありがと、心配してくれて」
「……当たり前だ」
小さく呟いて、星は肩の手に自分の手を重ねた。
「私にとって、黒薙殿は……」
「雛斗!」
「っ!」
星がさっと寝床から離れた。
「白蓮? 馬超に馬岱まで? お前らどうしたの?」
赤い顔のまま言った。
熱あるんだから問題ない、たぶん。
次々に開けっ放しだった扉から益州にいるはずの面子が駆け込んできた。
「どうしたもなにも、お前を心配して駆けてきたに決まってるだろ!」
「お姉様の言う通りだよ! 黒薙さんが怪我したって使者から聞いて飛んで来たんだから!」
「け、怪我はあるか!?」
「いや、白蓮。焦るのはわかるけど、使者に怪我したって聞いてそのボケは……」
なんて俺が話してる間、星は少し拗ねたような顔をしていた。
まあ、俺もちょっと惜しいことをしたなとか……って、なに考えてんだ俺。
「そんなに心配しなくても、星にも言ったけど大した怪我じゃないって。あとは熱だけだし」
「そ、そうか。よかった……」
馬超がホッとして、みんなも胸を撫で下ろした。
みんな俺のために来てくれたのか……照れ臭いな。
「ありがと。みんな来てくれて」
寝台に座ったまま、みんなに言った。
みんな、俺のことを思ってくれている。
それが単純に嬉しかった。
その数日後、俺の熱が下がってから俺たちは民から起用した役人を決めて城に常駐させて、成都に向かった。
ゆっくりした行軍で何日もかかって成都に到着した。




