司馬懿の鬼謀
黒永はそれほどの将だったのか。五胡との戦闘を見る限りは、慎重な戦い方をする将だったと記憶している。部屋の中とはいえ、まだ寒いので、服に付いた布をぎゅっと頭にかぶせる。温かくなるからと張郃に勧めたこともあるが、視界が悪くなるからときっぱり断られた。
張郃のおかげもあり、司馬懿は無傷で長安に落ち延びた。逃げるのが一歩遅かったら、あの黒い流星のような騎馬隊に本陣まで貫かれ、首が胴から離れていたかもしれない。
「黒薙がいたら、こんな戦い方なのかしら」
かつては主だった、今は敵の曹操は、黒薙にとても執心していたように思う。だからか、黒薙の戦績は詳しく調べられていた。黄巾の乱の頃から転戦を重ね、寡兵で曹操の漢中攻略を退けており、ほとんどは自身が前線で武器を振るっているようだ。猪武者のようで、しかし、奇襲・急襲を得意としていて戦略に長けている。
その配下もまた優秀だ。なにせ、あの呂布に張遼までいるのだから。
「黒薙が戻ってきた、と仮定すれば。張郃を追い返したことにも、黒永がやったことより納得がいくかしら」
とはいえ、自分は黒薙に会ったことはないし、仮にそうだとしても、負けた今となっては後の祭りである。次から気をつけるしかない。
しかし、黒薙は蜀から離れていると聞いている。なんでも、呉とのいざこざの責任を感じて、ということらしい。結果的には、呉が黒薙を欲しがったか、蜀の戦力低下のために黒薙を捉えたのだから、全部呉の責任だと司馬懿は思っている。しかし、その間に起こった、曹操と蜀の総力を賭けた漢中戦に参加できていないのであって、それに責任を感じたのだとしたら、まったく律儀な男なのだな、と思う。
「仲達、いいか?」
「張郃? どうぞ」
短い黒髪のぼさぼさとした張郃が入ってくる。女性らしい体付きとはいえ、こんな髪に動きやすい軽鎧、端正な顔立ちもあり、活発な雰囲気を受けるが、実際はどこかで計算をして狡猾なのだと司馬懿は思っている。ただ、司馬懿は張郃のことは嫌いではない。
「どうしたのですか。なにかあったのですか?」
「いや、一配下として主の、これからの算段を聞いておこうかと思ってな」
こういうところも計算してのことではないか。現実的な算段も立てられてない主など、仕えても未来はない。そういった指針は、軍師に頼ってでも立てておくべきことだ。配下が、何をするべきかを把握し、実行することができる。
「思っていたのですが、なんで私に付いてきてくれたんですか? 私は、曹操配下時はあなたの配下だったのですよ」
「勘だよ。私は、自分の勘を信じる質だ」
「私もですよ。まあ、袁紹から曹操に移った、その時代を見る目は、確かに信用できますけど」
そういえば、ちょうど同じことを言っていた旅人がいた。張範と言ったか。自分と同じく、頭に黒い布を被ってはいたが、黒髪に綺麗な黒い瞳で、とても美人だと思った。だが、あれは男だなと司馬懿にはわかった。なんでかは、はっきりとは言えないが、確かにあれは男だった。
「漢中の攻略を、今は断念しようと思います。流石に、曹操を追い返しただけあります。あれを落とすには、孤立させるしかないかもしれません」
「成都から、援軍を送ってもらえばよかったではないか」
成都の袁紹一派を寝返りに使って、成都を味方に付けていた。袁術も呉の後方で寝返らせたし、しばらくは、蜀呉はそちらにかかりきりになるはずだ。
「袁紹の掌握力を過信し過ぎてました。いまだに、一万の兵も集められないなんて」
「なぜ、そんな」
袁術の方は、張勲という武将が思ったより上手く兵を集めている。山越族を味方に引き入れ、三万の兵は確保している。他にも孫策を快く思わない豪族もいるだろうから、四、五万ほどは集められるだろう。
袁紹は、どうしようもない。蜀領は、魏との大戦に向けての徴兵で、民心が多少なりとも下がっているはず。南蛮なんか、兵を集めるのに狙い目だったはず。配下の武将は顔良と文醜で、武に物言わせる猛将だから、張勲のような戦略的な立ち回りは難しいかもしれないが。
「人を選ぶ気質みたいです。野蛮人を嫌がり、南蛮からの徴兵をしていないそうです」
「妹とは大違いだな」
張郃の言う通りである。袁術は、張勲に任せきりであり、張勲は袁術のために働こうという意志がある。袁紹は、できもしないことを自らやったり、猛将に任せるにはお門違いな無理難題を押し付けようとする傾向がある。
孟達がやられたのが痛い。彼は、中々に狡猾な男で、彼を漢中に立たせれば兵の問題も、多少なんとかなったはずだった。
「なので、蜀は後回しにして東に進みます」
「許都か?」
「いいえ。まずは洛陽を落として、ここで鍾会と合流します」
鍾会は、今は許都を守っている鄧艾と同期の女性だ。袁紹と似た性格で、自身が英才教育を受けていて、優れた人間を好む質なようである。ただ、その分頭は切れる。袁紹と違って、烏丸の部族を味方に引き入れてるのも、それが兵を集めるのに効果的だとわかっているからだ。
そして、司馬懿の謀叛に同調したのは、野心旺盛だからだ。
「鍾会か。頭は冴えるようだが、用兵はどうかな」
「まあ、張郃には敵わないでしょう。鄴まで落として、河北四州を入れることはできると思いますけど」
「曹操たちの動きは読めるか?」
それを一番知りたかったのだろう。張郃の目が鋭くなった気がする。
「──混乱することはないでしょうね。ひとまず、蜀呉と停戦協定を結ぶことになると思います。そして、許都に帰還して、体勢を立て直すでしょう」
「あの、魏が蜀呉と組むか。それは末恐ろしいな」
とてもそうには見えない。むしろ、楽しんでいる雰囲気がある。
「それで、仲達はどうするつもりだ」
「停戦協定を結んだとはいえ、魏が蜀呉の力を借りるということは、曹操の性格からして、しないように思います。蜀呉はお互いに組みながら戦い、互いの領地を取り返そうとするでしょうけど。曹操は己の力を固執して、そのようなことはしないでしょう」
「魏を先に片付ける、ということか」
「そういうことです。もっとも、これはこちら側からしたら常套手段で、読まれる可能性があります。なので、鍾会と合流したら、残しておいた策を使ってしまうとしましょう」
「策……?」
張郃は訝しんだが、司馬懿は鬼謀を計ったとは思えない、幼い笑顔していた。